あの人のことば
2018年03月04日 13時50分 JST | 更新 2018年03月10日 14時04分 JST

東日本大震災から7年、福島市の老舗旅館を廃業から救ったのは「復興の柱」だった。

「頑張りすぎず淡々と、真摯な心でお客さんに向き合っています」

なかのかおり
なかむらやを守ってきた女将さん

創業120年を超える福島市・飯坂温泉の旅館「なかむらや」は、東日本大震災で打撃を受け、一時は廃業の危機にあった。女将さんの情熱に動かされ、地元の文化財に詳しい大工と建築家の努力でよみがえった。あの日から7年。改めて女将さんを訪ね、今の思いを聞いた。震災を忘れない日はないが、心を尽くしてお客さんを迎えている。

火災や戦争をくぐり抜けた老舗

今年2月のある日。東京駅から新幹線に乗って福島駅につくと、雪が降っていた。飯坂線のホームでしばらく待ち、小さな電車に乗り込む。20分ほど乗った終点が飯坂温泉だ。駅から雪道を少し歩く。松尾芭蕉も訪れたという共同浴場「鯖湖湯」の向かいに、白壁の土蔵造りの旅館「なかむらや」がある。

私は2000年ごろ、福島に赴任していた。当時、客足の減った飯坂温泉を盛り上げようとする女将会を取材した。リーダーだったのが、なかむらやの女将・高橋武子さん(73)。以来、私が東京に異動しても、たびたびなかむらやを訪ねていた。

なかむらやは、福島市郊外の土湯温泉からこの飯坂に出て、創業1688年と言われる花菱屋の建物を買い受け、1890年に創業。火事があっても、本館の「江戸館」は土蔵造りのため焼失をまぬがれた。増築した「明治館」は総ケヤキ造りで、当時の名棟梁の工夫が生きる。

第2次世界大戦の際は、都内からの学童疎開の宿となり、戦後は近隣の人たちの湯治場として営業した。1998年には国の有形文化財に指定され、温泉街のシンボルになっている。

なかのかおり
白壁、土蔵造りのなかむらや

変わらないようで大きなドラマが

なかむらやののれんをくぐると、柱時計や帳場は昔と変わらない。だが実はドラマがあった。真新しい柱が3本、目に飛び込んでくる。震災で破壊され、廃業の危機にあったなかむらやを生き返らせた「復興の柱」だ。

私は震災後、福島の人たちと連絡を取れなくなった。心配でも、高齢出産をした私は飛んでいくことができなかった。女将さんからは「復興してお客さんを迎えられるようになった」と手紙をいただいていた。

久しぶりになかむらやを訪ねたのは、2016年の5月。娘も4歳になっていたので連れて行けた。その時、女将さんに震災後の物語を聞いて心が震えた。

梁が折れて営業は困難

2011年3月11日。女将さんは、お客さんを待っていた。大きな揺れに驚き、表に飛び出すと、明治館がぐにゃぐにゃと揺れていた。まもなく、なじみの一級建築士と文化財に詳しい大工が来て、ひび割れた壁や建物のゆがみなど見える被害を確かめた。念のために天井裏に入ったら、江戸館の2階と3階の間、天井裏の太い梁が5、6本折れていた。

余震があって危ないので、お客さんを泊められなくなった。しばらくして、支柱を立てて板をあて、折れた部分を持ち上げてサポートする形の応急処置をした。

避難者を温泉に迎え入れ

震災後、電気や水道は止まり、温泉も出なくなった。数日たって電気がつき、温泉が出た。訪ねて来た女性に1階にあるお風呂に入ってもらったのが、飯坂の公共施設に避難してきた人たちに伝わった。2つあるお風呂を男女別にわけ、無料で開放した。並びの旅館も協力し、3軒で1日に千人ぐらいは入った。着のみ着のままで来る人も多かった。

この話が新聞で紹介されると、洋服が届けられ、全国から「支援物資を送りたい」と電話がかかってきた。タオルや生理用品など必要なものが集まった。1か月半ぐらいは、こうして開放していた。

4月は飯坂の桃の花が咲く。飯坂温泉観光協会が、避難してきた人をお花見に招待した。地元の人たちが協力し、炊いたご飯をなかむらやに運び込んだ。おむすびを千個、手を真っ赤にして握った。なかむらやの帳場は、ごま塩だらけに。ふるまうと「人生で一番おいしかった」と言われ、女将さんにとっても大変な中で楽しい思い出になっている。

再建すると10億円、廃業を覚悟

壊れた建物をどうするかは大きな問題だった。2010年末に改修工事が終わったばかり。震災後の大工の意見は「江戸館をすべて取り壊せば、きれいに再建できるが10億円かかる」。建築家の提案は「江戸館の3階部分だけ、取り壊す」。女将さんにとっていずれも衝撃だった。「10億円なんて出せない。3階部分だけだとしても取り壊すのはとんでもない」

営業をやめようと思った女将さんに活を入れたのは、常連の女性だった。予約があったが、危険もあって断っていた。ある時、「何回も電話しているのに、常連を泊めないとは」と真剣に怒られた。女将さんは「戦争や苦しい時代をくぐり抜けてきたのに、やめたら先代に叱られる。浜通り(福島の海側)の人たちの大変さを考えたら...」と目が覚めた。

専門家の協力、強く生まれ変わった

もう一回、頑張ろうと決めると、震災でしぼんでいた気力が戻ってきた。行政の担当者や大工・建築家との話し合いで、女将さんは「外観はきれいなのに」「直すのがあなたたちの仕事」と一喝。その迫力に押され、元の形を残して再建するプロジェクトが始まった。

復旧工事には、国から地域への補助金が割り振られ、足りない費用は地元の金融機関から借りられた。生活面は入っていた地震保険に助けられたものの、なかむらやは創業以来、初の休業だった。

大工は仮設住宅の仕事に奔走し、なかむらやの工事に入れたのは震災から半年が過ぎた10月。折れた梁を補強し、天井をはがして畳を取り除き、家の土台をむき出しの状態に。「復興の柱」を立てた。建築家のアイデアと大工の技術で、耐震の補強をしつつ、歴史は残して再生した。

震災からわずか1年で、「取り壊すしかない」と言われた宿が復活。心配していたお客さんも泊まりに来て、新たなリピーターも増えた。

なかのかおり
左にあるのが復興の柱

時代の流れか、減る宿泊客

こんな物語を聞いた一昨年から、女将さんとの交流が再開した。夏には地元のサクランボをいただいた。その後、「家族にスマホをプレゼントされた」とメールがあり、私の記事をリンクして返信した。感想として、毛筆の長い手紙が届いたのも女将さんらしい。

震災から7年。今はどんな思いを抱えて生活しているのだろうか。

入浴のみの日帰り客は途切れないが、宿泊は減っている。女将さんは「何でも震災のせいにすることはできない。手軽な旅行を好む時代の変化もある。焦るとダメ。大変な時にどう過ごすかが大事」とかみしめるように話した。

時の流れも感じるという。「震災後、2年目、3年目は、『泊まるのが応援と思って来ました』というお客さんがたくさんいました。だんだん少なくなりましたね」

地元に日常が戻っているのは確かだ。女将さんには小学生から20歳まで11人の孫がいる。「学校に行って、習い事をして普通に暮らしています。中2の孫の親友は、小学1年生の時に避難してきました。最初は帰りたいと言っていたけれど、友達もできてこちらの子になったのではないでしょうか」

原発事故の影響、今も

それでも震災を思い出さない日はない。福島第一原発の事故により、飯坂温泉のホテルや旅館に除染作業員が多く宿泊していた。今は少なくなったものの、今年の正月明けに飯坂で作業があり、「除染作業中」と掲げられた文字を見てお客さんが驚いた様子だった。

以前はいただきもののタケノコや山菜をお客さんに出していた。今は放射線量を確かめて市場に出たものしか使えない。「テレビで毎日、放射線量が表示されるのを見ると、帰れない人もいると複雑な気持ちになる。なかむらやの復興の柱を見てもふっと思い出しますし。みんなそうだと思う。やることがたくさんあるのでクヨクヨしないですみます」

四季のもてなし、震災後も変わらず

震災を感じながらも、飯坂温泉の様々な行事は続いてきた。全国から出演者が集まる「太鼓まつり」。地元の人が大事にする鯖湖神社の例大祭とバザー。歴史ある「けんか祭り」。年に2回は、女将さんら地元の女性が花を植える。

なかむらやの夕食と朝食は、女将さんの家庭料理だ。季節に合わせて、たくわん、白菜、高菜や梅干しを漬ける。年末は年越しそばを用意、おせちを仕込む。正月のお客さんには、お雑煮やあんこもちをふるまう。

2月初め、3~4時間かけて帳場に7段のお雛様を出す。端午の節句が近づくと、江戸時代から伝わる鎧兜やのぼりを飾る。お風呂に置くドクダミ化粧水も自家製で、6月に庭で取ったドクダミで1年分を作る。丁寧なおもてなしは、震災後も変わらない。

「私から何かを配達することはできない。寒くても嵐でも、お客さんに来てもらうしかないんだもの。感謝の気持ちです」と女将さん。「ふっと時間ができると、あれもやらなきゃと思うのだけど、ぱあっと頭から消えてお昼寝してしまってるの」と笑うが、宿泊すると、朝早くから館内を周る女将さんの足音や調理の音が聞こえてくる。

講演して地元を元気づける

この数年、地元の会合に呼ばれ、復興の話をする機会が多いという。「震災では100人100様のドラマがあった。私はなかむらやを守るために生まれた。置かれた場所で咲く大事さを話します。地域の人に励みになると言われると、子どもみたいに嬉しい」

今回の取材で、女将さんに「震災後に習い事を始めた」と打ち明けられた。2週間に一度、自分で車を運転して福島市の中心部に行く。その日に到着するお客さんが気になって仕方ないので、午前中だけ。「自分のための時間は久しぶり。上達しないけど」。若い仲間もできて、楽しそうだ。

与えられた時間、動くのが恩返し

昨年、女将さんは膝が痛み、歩けなくなって整形外科に通った。今も治療を続けているが「お客さんが来たら、奥から走って迎えられるのがありがたい」とのこと。

「働き盛りは40代から60代。輝いて仕事できるのは50代だと思う」。仕事に子育てに迷える私に対し、女将さんはこんなメッセージをくれた。とはいっても、女将さんはまだまだ現役だ。「頑張りすぎず淡々と、真摯な心でお客さんに向き合っています。神様があと何年、与えてくれるかわからないけれど、動けるうちは動いて恩返ししたい」

なかのかおり ジャーナリスト Twitter @kaoritanuki