納得できる「死」などあるのか

厚労省の「家族会議ポスター」が物議を醸している。そもそもACPとは何なのか?
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最近100歳になったばかりのSさん。
老人ホームで暮らしている。
そんな彼女は診察のたびに口癖のようにこう言うのだ。

「長生きしても何にもいいことない。もう早く逝きたい。」

一昨年、そんな彼女が本当に死にそうになった。
肺炎から心不全が悪化。かなり厳しい状況となった。

積極的治療は望まないと事前指示書に書かれている。家族も、もう充分頑張りましたから、あとはできるだけ苦しまないようにお願いします、と看取りの方針に同意。居室の荷物の片づけを始めた。

しかし、彼女は僕に「先生、死にたくない......」と消え入るような声で訴えた。
ケアをしていたホームの看護師たちも、彼女の生きたいという意欲を見逃さなかった。

抗菌薬の投与を開始すると、肺炎は徐々に改善。心機能も少しずつ回復し、現在は、在宅酸素療法も卒業している。食堂への移動は車いすだが、食事は全量食べている。

そして、彼女は少し顔をしかめながら今日もこういうのだ。

「長生きしても何にもいいことない。先生、もう早く逝かせて。」


厚労省の「家族会議ポスター」が物議を醸している。


厚労省が吉本芸人を起用して作成した人生会議の普及啓発ポスター。個人的にはデザイン的にもコンテンツ的にも、少しインパクトが強すぎると思った。人生会議(本稿ではACPと表記する)をしなければ、思うように死ぬことすらできない。そんなニュアンスだ。

これは違うのではないか。
そんな意見が専門職や当事者の間で広がり、結局、厚労省はこのポスターの配布を中止した。

一連の騒動の中で、多くの専門職や当事者が次のような趣旨の発言している。

ACPとは、何かをあらかじめ決めておくものではない。
ACPとは、死に方を考えるのではなく、最後までどう生きるかを考えるものだ。
ACPなど、人の生死に関する議論を国がリードしようとするのがおかしい。
ACPをしたからといって、納得できる人生の最期が送れるわけではない。
ACPを十分にできずに患者を見送った家族が、この文言によって傷つく。 

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また、このような専門職や当事者の反応に対し、主に非専門職からこのような意見も寄せられた。

ポスター自体は面白いし、この文章の何が悪いの?
ACPを知らない人に対するアピールとしては有効なのではないか。
実際にこのように話題になった時点で、このポスターは成功だ。
専門職や当事者はもう少し表現に寛容になるべきではないか。

その後、「私の人生会議」というキャンペーンが自発的に始まり、医療介護領域のオピニオンリーダーたちが自らの考えるACPを言葉にし始めている。

ACPとは何なのか、みんなが考えるきっかけになったことは確かだ。


そもそもACPとは何なのか?

ACPは「人生の最終段階の医療やケアを選択すること」ではない。
また、特に「事前指示書」と混同されることも多い。この議論にはさまざまなタームが出てくるので、ここで改めて整理しておきたい。

・パターナリズム(父権主義):Paternalism

かつての医療は、医者に逆らうことは許されない世界だった。
文句があるなら退院しろ、二度と俺の外来に来るな、そんな脅し文句を使う医者はいまでも存在する。このような方針決定の形は「パターナリズム」という。

・患者の自己決定:Self-Determination

それから時代は流れ、患者の権利意識が高まってきた。
自分の身体、自分の命のことは自分で決めたい。そんな「患者の自己決定」という考え方が広がってきた。実際、「私は延命治療を受けません」「私はがんになっても放射線や抗癌剤は拒否します」、医療の現場でそんな患者さんたちにもよく出会うようになった。

・共同意思決定:Shared Decision Making

しかし、医療は進化していく。これまでになかった選択肢も出現してくる。
これまでは延命とされていた医療処置で、自分の人生を取り戻し、何十年も社会の中で活躍している難病の患者さんたちがいる。強い副作用が恐れられていた放射線治療や抗癌剤も安全性や治療成績が向上、がんの10年生存率は6割を超えるまでになった。

適切な情報がなければ、適切な自己決定は難しい。選択肢が増えていく中で、あなたにとって本当に最善の選択は何なのか。医療専門家も含めて話し合って考えよう、というのが「共同意思決定」だ。

治療すれば治る病気の方針決定はそんなに難しくない。
しかし、在宅医療を受けている患者さんのように、治らない病気や障害とともに、人生の最終段階の近いところを生きている人たちにとって、この「共同意思決定」は、納得のできる選択をするために非常に重要なプロセスだ。

「患者の自己決定」も「共同意思決定」も、本人が意思決定に参加できる、という前提に基づいている。

では、本人の判断能力が失われてしまった時、どのように本人の思いを担保すればいいのだろうか。

そこで出てくるのが、事前指示書だ。

●事前指示書:Advance Directive

「父権主義」の時代には、すべて医者が決めるわけだから、そんなものはそもそも必要ない。

「患者の自己決定」においては、「事前指示書(アドバンスディレクティブ)」がそれにあたる。本人が自分の決定内容を文書に書き留めておくのだ。それによって、本人が、意思表示ができなくなったとしても、周囲はその文書に従えばよい、ということになる。尊厳死協会の会員などはそれぞれ宣言書を作っているし、エホバの証人の信者の方々も輸血を希望しないことについて意思表示をしている。

しかし、事前指示書には問題がある。
書かれていることしかわからないのだ。 

延命治療を希望しない、とあるが、この人にとっては、どこまでが延命治療なのか?
点滴をしてほしくない、とあるが、治る病気であっても、点滴をすべきでないのか?
輸血を希望しない、とあるが、血液製剤はどこまで許容されるのか?

人生、想定外のことが起こるもの。自分が予想した通りの経過にならなかった場合、当然、事前指示は書かれておらず、現場では判断できない。また、最後、こんなはずじゃなかった、と本人が思っても、文書を書き換える能力が担保されていないと判断されれば、否応なしにその文書に従わされることになる。

そこで重要になってくるのが、ACP、通称「人生会議」だ。

・アドバンスケアプランニング:Advance Care Planning

ACPは何かを決めておく、ということを必ずしも目的としていない。

とにかく、話し合いを重ねていく。その中で、その人の人生観や価値観を理解・共有している人がまわりに生まれてくる。そうなれば、もし、本人が状況判断が難しい状況になっても、まわりの人たちが、本人の人生観や価値観、すなわち優先順位や判断基準に基づいて代理意思決定をすることができる。

医療やケアの選択にあたっては、もちろん専門家の情報提供が必要不可欠だ。
ここから先、どのように体調や病状が推移していくのか、具体的に変化がおこるのか、その時にどんな対処法や選択肢があるのか、それをするために何が必要なのか、今から準備しておけるものは何か、このようなことを一緒に考えていく。

もちろん、決められるのであれば、決めておいてもよい。

しかし、気持ちは状況によって変わる。体調が悪化した時、人生が最終段階に近づいてきたとき、当然、気持ちも変化する。揺らぐ、と表現されることもあるが、新しい情報が入ることで、状況判断が変わることは当然に起こる。

人生、最終段階に近づけば近づくほど、徐々にそこから先の視界も明確になってくる。

状況判断も、おのずとよりリアリティを伴うものになっていく。
これは「揺らぎ」でもなんでもない。意思決定の更新だ。
変化が起こりうるからこそ、対話を続けることが大切なのだ。

決めてもいい、文書に何かを書いてもいい、だけど、それはあくまでその時の気持ちのメモに過ぎない。変わることが当然、という前提で、話し合いを重ねていく。

大切なのは、その対話を通じて、その人の優先順位や判断基準を理解することなのだ。
だからこそ、人生会議は人生決議であってはならない。

もし文書を書いて、それが何物にも優先する、というのであれば、父権主義の時代の時と大きく変わらない。

あくまで本人の本当の気持ちをみんなで考え続けることが大切なのだと思う。

僕は、訪問診療の中で毎回、患者さんとたわいもない話をしている。

その中で少しずつこれまでの人生のこと、これからやっておきたいこと、やらなければいけないと思っていることを少しずつ教えてもらう。その対話の中から、本人の人となりをみんなで少しずつ理解しようとしている。

その繰り返し、積み重ねが、少しでも納得のできる選択に近づく唯一の方法だと思うからだ。

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会田薫子先生作成資料より佐々木作成
 
 

ACPと専門職のかかわりで重要なことは

前述の通り、ACPは患者だけでも、家族だけでもできない。

医療介護専門職が加わる必要がある。そこから先の経過の見通しによって、医療やケアの選択も当然変わる可能性があるからだ。専門職はACPのガイド(ファシリテータ)として、患者・家族が、話をしやすいタイミングやシチュエーションを見つけ、適切な対話を重ねていくことが大切だと思う。

その時に気を付けなければならないのは、自分の価値観や正義を押し付けようとしないこと。

あなたにとっては自宅で看取られるのが一番のはずだ。
余計な延命治療などしないのが一番幸せなはずだ。
こんな状態の患者に胃瘻の適応なんてない。
治らない状態で医療機器に生かされる人生なんて不幸だ......

知らず知らずのうちに、あるいは時に意識的に、専門職は自分たちの価値観を患者・家族に強要する。インフォームドコンセント(説明と同意)と称して、専門職の考える模範解答に誘導し、それにサインをさせるなどというのはACPでもなんでもない。

いい最期、納得できる死などあるのか

「穏やかに苦痛なく過ごせて、このまま最期を迎えられるのが一番幸せですね」 

判断力の低下した本人のベッドサイドで、家族とそんな話をすることが多くなった。
しかし、本人は本当にそう思っているのだろうか。

「もう死にたい」「もう充分生きた」

それは本人がそう思っているのではなく、まわりがそう思わせているのではなのだろうか。
あるいは意思表示が難しくなった本人の希望を勝手に上書きしていないだろうか。
自分の生活や人生の選択権を奪われれば、生きる希望を失うのは当たり前の話。

「本人は死にたいというので、治療は中止して、このまま穏やかに。」

これは本当に患者のニーズと言えるのだろうか。
この人が「生きたい」と思える環境を作ることこそ、専門職の本当の仕事なのではないのだろうか。

昨年、オランダで安楽死に関わるインゲン医師と直接お話をする機会があった。
死という選択肢は、それ以外の方法で苦痛が緩和できないときに初めて検討されるもの。
医療の専門家とは、死という判断を受け入れる前に、その人の苦痛を緩和し、生活の質を高めることを考えるもの。
苦痛が緩和されれば、人は生きたいと思うもの。

彼女のこの言葉は安楽死を前提としたものだが、人生の最終段階の支援においても、まさに同様のことがいえるのではないかと思う。

日本では、生活の質を高められない、社会心理的苦痛を緩和できない、そんな社会的弱者の死という選択への対応が非常にラフな気がする。これは対人援助の在り方として一抹の疑問を禁じ得ない。 

僕は、厚労省がACPを普及させようとしていることを悪いことだとは思わない。

医療現場では、おそらく望まぬ医療やケアを受けている人、あるいは望む医療やケアを受けられていない人はまだまだたくさん存在する。

ACPが、人生を最期まで納得して生きるための1つの方法であることは言うまでもないし、そのことを、医療や介護の専門家のみならず、一般市民も理解していることが重要だ、というのはその通りだと思う。「人生会議」というネーミングも、その文脈で考えれば、いい得て妙、という感じがしていた。

しかし、ACPを通じて何かを決めておけば、それでOKというわけではない。

変化していく状況に応じて、本人にとって最適な判断をみんなで考えていく、という価値観を共有できるコミュニティ(家族・医療介護専門職を含む)を作っておくことが、ACPが力を発揮するための必要条件になる。

ここに高齢者医療費の増大、終末期医療費が非常に高額なのではないか、という議論が並行して行われていると、国はなるべく医療介護費を使わせずに高齢者を死なせたいのか、と勘繰る向きが出てくるのもやむを得ないが、ACPは必ずしも治療やケアの差し控えを意味するものでももちろんない。結果として医療介護費が増えるケースもあるだろう。

図らずも厚労省が広げてくれたこの大きな波紋。

よりよく生き切るために必要なことが何なのか、それ以前に、よりよく生きるとはどういうことなのか、みんなでじっくりと考える機会にしたい。 

 
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「死ぬ時ぐらい好きにさせてよ」

樹木希林さんのポスターは、まさに日本社会のACPそのものだ。
書店にはいまも彼女に関する本が多数平置きで並んでいる。
きわどいポスターを作らなくても、日本国民は少しずつ、人生の最期の過ごし方を自分で考え始めているのではないかと思う。

むしろ頭を入れ替えなければならないのは専門職のほうではないか。
医療やケアのミスマッチの続く現場と日々向き合いながら、僕はそう感じている。 

(12月2日、YUSHOUKAI UP TO DATEの記事より転載しました)