エディプス・コンプレックスと日本的ナルシシズム

人間のこころについて、それを閉じた計算機のアナロジーで考える立場がある。この場合に、一人の人間という固体の中には、予め生存に必要な計算を行う材料が遺伝情報のような形で内在的に備えられており、それが時間経過に沿って展開することで、人間としての十全な知性が発揮されるようになると考えられる。

現代日本における意識の分裂について(2)

予備論としてのメタサイコロジー(ⅰ)

エディプス・コンプレックスと日本的ナルシシズム

人間のこころについて、それを閉じた計算機のアナロジーで考える立場がある。この場合に、一人の人間という固体の中には、予め生存に必要な計算を行う材料が遺伝情報のような形で内在的に備えられており、それが時間経過に沿って展開することで、人間としての十全な知性が発揮されるようになると考えられる。この場合に精神の病は、機械の故障に譬えられる。

それとは異なる考え方をする現象学や精神分析のような立場がある。こちらでは、閉じた個人としての意識を、文化的に複雑な作業を経てようやくに到達できるものであると考える。自我のまとまりは損なわれやすいもので、乳幼児の意識にとって母の意識が分離しがたいものであるように、私たちの意識は社会や周囲の雰囲気と一体化しやすい。また、性欲などの衝動は、特に思春期などの人生経験が不十分な時には、自我の中に統合できない精神の異物と体験されうる。個々の衝動が、個人の全体を飲み込んでしまうこともある。このような立場からは、個体と周囲との相互作用によって徐々に心の中に複雑な構造が形成されると考えられる。近代的な自我はそのような構造の一つである。

筆者はこれらを排他的にどちらか一つだけが正しいと考える立場とらない。むしろ、どちらもアナロジーとして同等の資格があり、神ならぬ私たちが出来る最善の判断は、解決すべき課題に応じて最善のアナロジーを選択することであろう。

もちろん、精神分析的な心の「構造」を考える立場に対しては、それが著しく実証性を欠くことについての強い批判がある。それが閉じた精神分析という空間の中で展開された空想の産物に過ぎないことを否定するのは、決して容易ではない。しかも私は精神分析家ではない。本論で述べるのは、決して学会等で認められた教科書的な事実ではない。単なる一人の精神科医の意見であり、そのように扱われることを私は期待している。

筆者の目的は、それが「空想」に過ぎない可能性を認めた上で、その「空想」が実社会に影響を与えている様子の一部を記述することである。例えば「お金」のことを考えよう。私たちが「一万円」と考える紙片を得るために、私は献身する。それは、その紙に「一万円」の価値があるという空想を私たちが共有しているからだ。このように「空想」の力は侮られるものではない。また、私の一連の論述が進む中で、福島第一原子力発電所事故やそれによる「風評被害」について触れることになる。そして、「靖国問題」にも言及する。「放射能」や「靖国神社」が私たちの心を騒がせるのは、物理化学的な存在としてのそれ自体として以上に、それらが象徴的に私たちの中に喚起する空想が力を及ぼすからである。そして、これらの国家の命運を左右しかねない大問題を前にして、私たちは問題の現実的な部分と空想的な部分を腑分けできないまま、混乱を続けているような眩暈を感じることがある。

私の目的は、日本社会が直面する問題の中の空想的な部分について、私が「日本的ナルシシズム」と名づけた空想的な構造を参照枠に、詳細な記述を行うことである。

「日本的ナルシシズム」を説明する前に、それと対照をなす「近代的自我」という構造について確認しておきたい。フロイドは、「(近代的)自我」は、「エディプス・コンプレックス」という体制を通過することによって達成されると考えた。このエディプス・コンプレックスは、幼児が母と交わることを望み、その母との交わりを妨げる父に強い敵意を向けることであると理解されている。しかし本論では、エディプス・コンプレックスについてはそれよりも抽象的な水準での理解を用いる。個人が、自分の周囲と全く一致しているような(空想的な)一体感の中に満足しきっている状況をまず想定する。それに水を差す第三者が登場し、一体感の中に留まれなくなった個体は強い欲求不満を体験する。批判的な言説も、このような第三者の役割を果たすことがあるだろう。やがて強い葛藤を経て、個体と、元来は一体であった環境(母)と、欲求不満をもたらした第三者(父)の関係は、緊張を孕みながらも安定したものとなっていく。これを通過してはじめて「個」としての意識に目覚めた、「近代的自我」という構造が成立すると考えられる。

「現代日本における意識の分裂について(1)」で論じたように、西洋近代の文化において「(近代的)自我」に与えられた価値は、とても高かった。したがって家庭においても、子どもに対して「個」の意識を高めるような働きかけが幼少期から行われやすかったと考えられる。そして、ある程度の年齢までにはこのような「近代的自我」という構造が成立している個人を前提として、法や契約などの概念を中心とした西洋近代の社会的な制度は構築されたと考えられる。

しかし、日本社会は伝統的にそれとは異質の構造を持っていた。法学者の川島が1967年に、「日本社会の基本原理・基本精神は,『理性から出発し,互いに独立した平等な個人』のそれではなく,『全体の中に和を以って存在し,...一体を保つ[全体のために個人の独立・自由を忘却する]ところの大和』であり,それは『渾然たる一如一体の和』だ,というのである。(中略)『和の精神』ないし原理で成り立っている社会集団の構成員たる個人は,相互のあいだの区別が明らかでなく,ぼんやり漠然と一体をなしてとけあっている,というのであり,まさにこれは,私がこれまで説明してきた社会関係の不確定性・非固有性の意識にほかならないのであって,わが伝統の社会意識ないし法意識の正確な理解であり表現である」と記載したような姿の方が、少し以前までの日本の集団や組織の記述として正確であろう。筆者は、日本文化においては、個の分離を促すエディプス・コンプレックスの働きが弱かったことを主張したい。その結果として、日本人の意識の成熟は、西洋人のそれとは違った経路を経て行われたのではないかと推測している。

西洋社会では幼児期に母との一体感からの分離を強制され、個人として社会や組織の中で法や契約を媒介として周囲との関係を作っていくことが標準的な有り様と考えられた。それと比較して、日本人の意識構造の成立においては、分離を意識することは先送りにされる傾向がある。母との一体感は、比較的強い形で家庭や学校、会社などへの一体感へと横滑りしていく。分離が強く意識されるのは、実社会において「社会的な役割への同一化」が果たされる段階である。ここにおいて、全体の空気に流されるままに「分不相応な」言動をすることについて、社会からの強い制裁を体験することとなる。その上で社会の中で「役割」を獲得し、その役割を通じての現実的な経験を積み重ねることで、個の意識の周囲からの分化が進み、西洋近代における「自我」と比べても遜色のない「日本人」の誇るべき精神性が作り上げられていったと筆者は考えるのである。

しかしながら、「日本人」の意識の成熟を妨げる二つの発達上の難所が存在する。一つは、同一化すべき社会的な役割を得ることができない場合である。「個」としての意識が未成熟な場合に、職業などの立場を得られないことによる弊害は大きくなる。もう一つは、社会的な立場を得たとしても、所属集団が構成する意識への閉鎖的な同一化を強めるばかりで、その外部に働きかける「現実」に関わる経験から疎外される場合である。そういった状況で生じるのが、「日本的ナルシシズム」とも呼ぶべき病理的な精神構造で、全体に漠然と一体化している意識から根拠のない万能感を得て、刹那的な反応をくり返すことがその特徴となる。

後者について、一つの例を挙げて説明したい。3年前の原発事故について、国会事故調査委員会の報告書では、電気事業者についての厳しい指摘が行われた。経営効率を高めることを共通の目的として同一化を深め、津波による事故のリスクについての外部からの指摘を過小評価し、それを意識から排除するように努めていた経営陣の意識の閉鎖的な様子が記述されたのである。「学会等で津波に関する新しい知見が出された場合、本来ならば、リスクの発生可能性が高まったものと理解されるはずであるが、東電の場合は、リスクの発生可能性ではなく、リスクの経営に対する影響度が大きくなったものと理解されてきた。このことは、シビアアクシデントによって周辺住民の健康等に影響を与えること自体をリスクとして捉えるのではなく、対策を講じたり、既設炉を停止したり、訴訟上不利になることをリスクとして捉えていたことを意味する。」

科学的報告などの「外部の現実」を拒絶し、ある組織の内部的な利益を共有してそれへの一体化を守ることに執着し続ける病理的な意識構造を、「日本的ナルシシズム」と呼びたい。

なお、筆者の目的は特定の組織や集団を攻撃することではない。むしろ、スケープゴートを作ってそれを攻撃することもまた、真に考えることからの逃避であると見なす立場を取っている。それよりも筆者が重視するのは、日本人の一人一人が、何らかの全体との一体感の中に安心し続けることを少しずつ断念し、個として考える意識を高めていくことである。

筆者は現在東北に居住し、震災からの復興の仕事に従事している。ここで感じるのは、特に原子力発電所事故によってもたらされた地域の分断の影響の大きさである。放射能汚染の健康への影響に対する考え方や賠償のあり方の違いが、地域の人々に強い葛藤をひき起こしている。震災そのものの痛みと避難生活の困難に加え、一つにまとまらねばならない時に対立をせざるを得ない苦難が、人々を苦しめている。

「国が悪い」「東京電力が悪い」と語ることで怒りや恨みの感情を発散させ、精神的なカタルシスを得ることの意義はある程度は許容されねばならない。そして、未来に向けて同じような悲劇がくり返されないためには、原因や責任を明らかにして適切な反省や処遇が行われることが必要である。

しかし攻撃的な感情にのみ込まれ復讐の甘美さに浸り続けるのは危険である。事故を起こした原子力発電所の廃炉や震災からの復興は、国民全体が一体とならなければ成し遂げられない困難な事業である。この二つの矛盾した要請に応えるためには、「対決を通じての前進」といったものが必要であると考える。つまり、集団に所属することの価値を認めつつも、何らかの意味で自分と異質な人間と真剣にコミュニケートすることを拒絶するような、過度な所属集団との密着は、乗り越えられるべきである。私は第二次世界大戦中に、日本国の外交官としての立場と葛藤を起こすことを知りつつも、日本の同盟国からの迫害を逃れようとするユダヤ人に、多くのビザを発行し続けた杉原千畝のことを思い出し、讃えたい気持ちとなっている。複雑な社会の状況に対応するために、周囲の空気に合わせるばかりでなく、主体的に考える個人の力が強まることがどうしても必要とされている。

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