私が安保法案に反対する理由

安保法案をめぐって国論を二分する論争が起きている。しかし、賛成側と反対側の議論は噛み合わないまま、お互いの陣営への強烈な批判と攻撃がくり返されている。

安保法案をめぐって国論を二分する論争が起きている。しかし、賛成側と反対側の議論は噛み合わないまま、お互いの陣営への強烈な批判と攻撃がくり返されている。

戦争や主体性という重要な思想的な課題について、戦後の日本が真剣に取り組むことをなおざりにして先送りを続けてきたことに、今ここで直面して混乱しているのだと思う。

最初に筆者の立場を明らかにしたい。現時点での安保法案の成立には反対する。しかし、将来に向けて賛成する可能性をすべて否定するものではない。賛成派の主張する、国際情勢が変化する中で日本が国防について主体的に責任を果たす意識を涵養していかねばならないという内容には、一定の説得力を感じている。もちろん私も戦争には反対である。しかし、一部の反対派が信じているような「戦争は悪だから反対する」と述べているだけで戦争を避けられるという楽観論には、与することができない。

現政権についての私の評価は両価的である。少なからぬ日本人が抱いてしまっている自虐的な意識を除き、国益を確保して自国への誇りを取り戻そうとする姿勢には共感する。しかし、時にその方法が皮相的である印象はぬぐえない。現在の日本の発展は、西欧を中心に成し遂げられた近代文明の精華を取り入れることなしにはありえなかった。そこには民主主義の方法論や基本的人権の意識も含まれている。また、近代以降の日本が軍国主義を採用し、周辺の国々に苦難をもたらした事実もある(近代化の恩恵をもたらした面もあったことを否定するものではない)。そのような事態を軽んじることで「日本」という国の権威をかさ上げするような態度には、肯定的な思いを抱くことができない。日本は失敗をすることもある普通の国家である。普通の国家として努力を積み重ねてきたことに誇りを見出せばよい。無謬の特別な国家と考えたいというこけおどしのブライドにとらわれるべきではない。他国から受けた恩恵を記憶して感謝し、逆に引き起こしてしまった混乱と苦難には反省と償いの思いを抱きつつことに対処すること(これはもちろん、先方の主張をそのまますべて承認することではない)が、本当の意味で国際社会の中での誇りを再建することにつながるだろう。

人間の本質を攻撃性や支配欲に見出し、社会の本質を闘争や戦争状態と考える立場は思想史において一貫して有力であった。そして、西洋近代の文明の基底には、そのような人間観があることを理解する必要がある。自然状態を万人の万人の対する戦争と考えたホッブスや、近代政治学の祖と考えられるマキャベリの名を挙げておく。放置すれば人間はお互いにお互いを食い物にする。それに歯止めをかけて社会の秩序を維持するための道具として基本的人権の概念が醸成され、さまざまな法制度が構想されたのである。

ここでは、西洋の近代哲学の完成者と見なされるヘーゲルの『精神現象学』の序論のなかから、有名な一節を引用する。

「分裂の活動は、知性の力と働きであり、驚異的で最高の、いや、絶対的ともいえる力のあらわれである。内部で安定した円環をなし、がっちりとその要素を堅持する円は、単純明快な形としてそこにあるだけで、格別に驚異を誘う関係を示してはいない。が、その囲いを外れた偶然の要素が、まだ束縛を感じつつ、もっぱら他の現実とつながりをもって、独自の存在となり、特別の自由を獲得するとなると、そこに巨大な否定力が働かねばならない。それが思考のエネルギーであり、純粋自我のエネルギーである。そこにうまれる非現実性を、わたしたちは死と名づけたく思うが、この死ほど恐るべきものはなく、その死を固定するには最大級の力が要求される。力なき美意識が知性を憎むのは、自分にできないことを知性が要求するからだが、死を避け、荒廃から身を清く保つ生命ではなく、死に耐え、死のなかでおのれを維持する生命こそが精神の生命である。精神は絶対の分裂に身を置くからこそ真理を獲得するのだ。精神が力を発揮するのは、まさしく否定的なものを直視し、そのもとにとどまるからなのだ。そこにとどまるなかから、否定的なものを存在へと逆転させる魔力がうまれるのである」

非常に力強い宣言である。そして、国際社会の中で生き抜いていくことには、このヘーゲルのような精神性と伍して生き残っていく覚悟が必要なのだろう。

安倍首相をはじめとした安保法案の賛成派も、反対派で声を挙げている人々も、正反対の主張を行っているようでありながら、ヘーゲル的な意味での「否定的なものを直視」することを避ける「知性を憎む力なき美意識」を超えていない。そうであるならば、このような軟弱な精神性を克服できるまでは、大きく前に出ることを避けて後ろに控えることを続けた方がよい。戦争にがっちりと巻き込まれた時点ではじめて現実的なものとして「死」を体験するのでは、手遅れだからだ。

不断に「否定性」に直面して精神の強靭さを養うことが、逆説的にではあるが「戦争」を回避するために必要不可欠な要素である。現状のように知性の「否定的なもの」への耐性がきわめて弱い文化に耽溺している日本社会では、反動としての「否定的なもの」への無制限の同一化が生じやすく、その可能性が高い限りにおいては、憲法9条のような形で制度としてそれを防ぐ安全弁を確保しておくことが必要である。免疫のない大人がはしかにかかった時のように、自虐的な人間が突然の機会にマッチョに振る舞おうとする時は危うい。パーソナリティーの全体に攻撃性が統合されていないので、それまでまったく抑制されていたそれが暴発する極端に走りやすいのだ。

この事態は、日本社会が近代化するに当たって、西洋近代の精神性と日本の土着的な感性の折り合いをどのようにつけるかという思想的な課題に真剣に取り組むことを行わず、場当たり的な態度の使い分けに終始して今日にいたったことの結果である。「和魂洋才」などと称してオモテとウラを使い分け、根本にある日本的な感性を思考による反省の対象とせずに、その場に合った借り物の思想を「オモテ」で語ることを続けた一貫性のなさが、現在の苦境の原因である。

精神病理学や精神分析が考察を続けてきた「メランコリー親和型」と「自虐的世話役」の考察は、西洋近代の視点からの日本の土着的な感性についての記述になっている。その中心にあるのは、「自他未分」の境地である。独立した個人としての精神性の確立を重要視する西欧近代の文明とは、はっきりと異なっている。くり返しになるが、この矛盾について考えないまま西欧文明を取り入れ続けたことが、さまざまな現代の日本社会の混乱につながっている。

自他未分の境地を理想化することは、母子の二者関係を理想化し、第三者である父の介入を経た個人として精神性の確立の阻害につながるおそれがある。西欧における集団や社会のイメージは、個人がそれぞれ独立を果たした上で、約束(法)を介して改めて集団や社会に属することである。そこには、一度は家族という集団からの分離(否定)という契機が含まれている。しかし、日本社会で集団や社会に属するために求められるのは、個の確立のために不可欠な一旦は所属集団を否定するプロセスを放棄し、全体性の中に自らを融解・埋没させることであった。したがって、否定性を通じて獲得される自我の意識の確立は妨げられやすい。その良い面は、多くの日本人が自他未分のままに周囲の空気にたいして開いていたので、空気に敏感に応じた行動が可能となったことである。社会的な自己実現は、その場の空気や職業上の立場が要求する責任を果たすことで主に行われた。その慎み深さや自己を限定することによって得られる洗練は称揚されるべきである。しかし、このことの問題もある。集団全体が混乱した時に、それと対立して必要な修正を働きかける個人の社会的な機能が果たされにくくなることだ。「メランコリー親和型」も「自虐的世話役」も、押し付けられた困難に耐える力は強いのだが、そうでない時に自分で自分のことを決めることができない。(そして、処理されない攻撃性は、「この人は攻撃してもよい」と周囲が判断している対象に向かって、普段は抑圧されているために許された機会に一気に暴発する危険性を秘めている)

今回の安保法案も含めて、安倍首相の一連の動きには日本人が自虐的な意識を脱却して、真の主体性の確立を目指すという方向性があり、そのことについては肯定的に評価できる。そして首相の人格攻撃を行ったり、「戦争反対」を叫んだりすることだけを護符にする反対派の言動にも疑問を感じる。一般国民や野党が普段から国政に責任を持って関与する意識が薄いのにも関わらず、政権担当者が動こうとすることに反発する時にだけ意欲と鋭さを見せるのは、一貫した主体性を発揮できていないことから生じる不安への代償行為である。これは、責任感から事態を進行させようという立場の人々を強権的な行動へと追い込む危険性がある。

しかしながら、日本の精神的な独立をアメリカの期待に応え続けることで達成しようとしている矛盾が現政権からは透けて見える。納得して従う判断をするのは理解できる。しかし、内向きには派手に強いことを言いながら実際は対米従属であることをあいまいにするオモテとウラの使い分けは姑息である。全体的に準備不足の印象を拭い去ることはできず、そのために今回の安保法案には反対する。

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