さよなら、ビートル。フォルクスワーゲンの名車が生産終了、80年の歴史を振り返る

ヒトラーの要請で開発された「国民車」は戦後、世界的なベストセラーになった。
メキシコの「ザ・ビートル」の生産工場で開かれた生産終了のセレモニー(2019年7月11日撮影)
メキシコの「ザ・ビートル」の生産工場で開かれた生産終了のセレモニー(2019年7月11日撮影)
Hector Vivas via Getty Images

ドイツの自動車メーカー「フォルクスワーゲン」は7月10日、小型車「ビートル」の生産を終了した。80年以上の歴史に終止符を打った。ロイター通信などが報じた。

生産終了を記念したセレモニーがメキシコ中央部のプエブラ州の工場で同日、実施。メキシコ音楽の楽団が、これまでの活躍を祝福した。

ビートルとはどんな車なのか。その歴史を紐解こう。

■アドルフ・ヒトラーの要請で開発

1938年、完成した「KdFワーゲン」の隣で演説するドイツのアドルフ・ヒトラー総統
1938年、完成した「KdFワーゲン」の隣で演説するドイツのアドルフ・ヒトラー総統
GETTY IMAGES

「ザ・ビートル」の源流は、ドイツのナチス政権の「フォルクスワーゲン(ドイツ語で国民車)」構想にまで遡る。

1930年代にアドルフ・ヒトラー総統の要請で、自動車設計者のフェルディナント・ポルシェ博士が設計した。ポルシェ博士は自動車メーカー「ポルシェ」の創業者だ。

こうして1938年に発表されたのが、「KdF(カーデーエフ)ワーゲン」だ。流線型をした空気抵抗の少ないボディ。最高速は時速100キロ以上、7リットルのガソリンで100キロを走行できる低燃費など、当時の技術水準をはるかに超えるものだった。自動車が高級品だった時代に、高性能な自動車を「一家に一台」買えるようにするのが狙いだった。

週ごとに積立金を払い、満額に達したドイツ国民がワーゲンを受け取ることになっていた。33万6000人が申し込んだが、実際には1人も受け取れた人はいなかった

第二次世界大戦が勃発したからだ。軍用車に改造された以外には、ノーマル版の「タイプ60」が870台ほど生産されたが、軍人やナチス幹部が利用するに留まったという。

■初代「ビートル」 生産台数2100万台の世界記録

「フォルクスワーゲン・タイプ1」
「フォルクスワーゲン・タイプ1」
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1945年の敗戦直後、「KdFワーゲン」は「フォルクスワーゲン・タイプ1」と改称して、ようやく一般販売が開始された。その可愛らしい外観から、英語圏では「ビートル」の愛称で広く親しまれた。

アメリカをはじめ全世界に大量輸出され、貴重な外貨を獲得して西ドイツの戦後復興に貢献した。日本でも人気があり、1970年代後半には、ワーゲン占いが流行。「街を走るビートルを3台見たらその日は幸せになる」「黄色のビートルをみれば3台探さなくとも一気に幸福になる」と言われていた

1974年に西ドイツでのビートルの生産は中止されたが、メキシコやブラジルでの生産は続いた。2003年、メキシコでの生産が終わるまでの58年間で2100万台が生産された。これは一車種の生産記録としては、現在も世界記録だ。

■2代目「ニュービートル」 フロントエンジンに変更

ANDREW CUTRARO VIA GETTY IMAGES

タイプ1と同じメキシコ工場で、1998年に生産を開始されたのが2代目となる「ニュービートル」だ。

このモデルは、4代目の「フォルクスワーゲン・ゴルフ」と同じプラットフォームを使って設計された。もともとリアエンジンだったタイプ1のデザインを、フロントエンジンの車で再現した。2010年で生産が打ち切られた。

■3代目「ザ・ビートル」 ボディ拡大

2011年に上海モーターショーで発表された「ザ・ビートル」
2011年に上海モーターショーで発表された「ザ・ビートル」
PHILIPPE LOPEZ VIA GETTY IMAGES

その後を継いだのが2011年に登場した3代目の「ザ・ビートル」だ。

ボディサイズがアップし、空力性能を改善されたが近年は人気が低迷。2018年9月、フォルクスワーゲンは2019年に生産終了することを発表していた

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