中ノ鳥島とは? 実在しない島を日本領に編入。海図から削除されて75年

「新島発見」の報告を受けて明治41年(1908年)に閣議決定。無数のアホウドリやリン鉱石に覆われた「宝の島」のはずだった。
国立公文書館に所蔵されている「中ノ鳥島」の実測図とされる図面
国立公文書館に所蔵されている「中ノ鳥島」の実測図とされる図面
撮影:安藤健二

明治維新の後、大日本帝国の領土はどんどん拡大していった。明治9年には小笠原諸島の日本領有を宣言。明治12年には日本政府の圧力で琉球王国が崩壊し、沖縄県となった。日清戦争の結果、明治28年に清国から台湾の割譲を受ける。日露戦争では明治38年に、樺太の北緯50度以南をロシアから獲得した。

そんな領土獲得競争に邁進していた明治末期の日本政府が見事に騙された事件がある。なんと実在しない島を閣議決定で日本領に編入してしまったのだ。「中ノ鳥島」と名付けられていたが、大平洋戦争後に海図から削除されて11月22日で75年目を迎えた。

なぜそんなことになったのか。歴史の闇に消えた「中ノ鳥島」のミステリーを関係資料と専門家への取材で明らかにしよう。

■小学校の地球儀で見つけた「不思議な島」

地勢社「高等新地図」(1953年)のP86「大洋州」のページより。画像の右中央部に「中ノ鳥島」の表記がみられる。
地勢社「高等新地図」(1953年)のP86「大洋州」のページより。画像の右中央部に「中ノ鳥島」の表記がみられる。
地勢社

あれは、私が小学校高学年の頃だった。学校の理科室にある地球儀を眺めていて、不思議なことに気がついた。日本列島の東側の太平洋上に「中ノ鳥島」という見慣れない島が載っているのだ。「沖ノ鳥島」の間違いかと思いきや、そちらは別の位置に載っていた。他の地図を探しても、そんな島は見当たらない。理科の先生に「この島は何ですか?」と聞いたが「わからない」と言われた。

あの地球儀に書いてあった島は一体何だったのか。そんな疑問もいつしか忘れて、新聞社に務めていた2003年のある日のことだった。夜勤中にネットを見ていて「幻想諸島航海記」というサイトを見つけた。そこには「中ノ鳥島」に関する詳細な調査結果がまとめてあった。「あの地球儀の島は、そういうことだったのか」と合点がいった。この島は、1950年代の高校生向けの地図帳などにも記載されていた。

結論からいうと、中ノ鳥島は実在しない。地図上にのみ存在した島だ。小笠原諸島の父島の北東約1200kmにある絶海の孤島。その発見報告を受けて、日本政府が明治41年(1908年)に領土に編入された。当時は日本最東端だった。その後は1回も存在を確認されず、1946年11月22日をもって、主な海図からは削除された。

■山田禎三郎による発見報告。「アホウドリが数百万羽」「地表の8割でリン鉱石が堆積」

国立公文書館に所蔵されている「中ノ鳥島」の実測図とされる図面
国立公文書館に所蔵されている「中ノ鳥島」の実測図とされる図面
撮影:安藤健二

東京都千代田区の国立公文書館には、明治時代からの貴重な公文書が保管されている。その中の一つに、『公文類聚』という分厚い冊子の中に、「中ノ鳥島」を発見したと称する人物が役所に提出した地図が折り込まれていた。保存状態はすごく良いが、パラフィン紙のような薄い紙に書かれているため、触っていて破けないか心配になるほどだった。

等高線らしきもので描かれた島の図面は、中央が高く描かれており、火山島のようにもみえる。「眞鳥山」「日向平」「西向平」といった地名が書かれている。

これは、山田禎三郎という人物が明治41年(1908年)4月28日に、小笠原諸島を管轄する東京府小笠原小笠原島庁のトップ(島司)である阿利孝太郎に提出した書類に添付された地図だ。

この「小笠原島所属島嶼発見届」は、現代文に直すと以下のような内容となっている。

<私は明治40年8月に北緯30度5分東経154度2分で、一つの島を探検しました。面積・地質は以下の通りです。この島は当然、小笠原諸島に所属するものなので、図面を添えてご報告します。この島は小笠原諸島から約1037km離れていて周囲は6.65km。全面積約2.13平方kmです。地表の8割でリン鉱石が堆積していて、その暑さは182cmほど。含有する燐酸石灰は20〜25%です。タコノキが1坪につき1本くらいあり、稀にカヤの木があります。飲料水は自然に沸いてきます。白色や黒色のアホウドリが一見すると数百万羽います。この島は海図におけるガンジスアイランドに当たると思います。探検した上で、図面のように島内を3つに分けて、小字の地名を日向平、眞鳥山、西向平と仮に命名しました。船を着岸した場所は西湊と仮称しました>

東邦大学名誉教授の長谷川博氏のコラムによると、明治時代当時、アホウドリの羽毛は「羽毛布団」の材料として海外で高く売れるため乱獲されていた。また、海鳥の糞が堆積して化学変化を起こすとできるリン鉱石は化学肥料の原料となった。

やはり絶海の孤島の「南鳥島」は明治29年(1896年)に日本領に編入されて、探検家の水谷新六による開拓が進み、アホウドリとリン鉱石の採取で莫大な利益を得ていた。山田禎三郎の報告が事実であれば、まさに南鳥島に続く「宝の島」を見つけたことになるのだ。

■原敬が「中ノ鳥島」との命名を求める。「帝国の支配地域に属すべき」という法制局の答申を受けて桂内閣が領有宣言

「平民宰相」として知られる原敬
「平民宰相」として知られる原敬
時事通信社

この付近には以前から「ガンジス島」と呼ばれる島があると言われていたが、位置がはっきりしていなかった。平岡昭利さんの『アホウドリと「帝国」日本の拡大』(明石書店)によるとガンジス島は1830年代からヨーロッパ製の地図などに描かれており、八丈島出身の玉置半右衛門らも捜索したが発見できなかったという。

そのガンジス島を山田禎三郎は、ついに発見したということだった。山田はアホウドリの羽毛採取やリン鉱石の発掘事業をする許可を求めていた。この報告を受けた小笠原島庁は明治41年5月1日、東京府に上申。東京府は5月4日、後に「平民宰相」と呼ばれることになる内務大臣の原敬(はら・たかし)に新島の行政区画を決めるように求めた。

原敬は7月1日、「中ノ鳥島」と名前をつけて日本領とするように、西園寺公望(さいおんじ・きんもち)首相に要請した。中ノ鳥島という名称は、このときに初めて登場。南鳥島などと同様に、アホウドリが多く生息するという情報からその名前をつけたようだ。

この直後に西園寺首相は辞任。桂太郎首相が率いる第二次桂内閣が成立し、引き続き政府内で協議。内閣法制局の内閣への答申は、以下のような内容のものだった。

・我が国の支配地域の島からはかなり離れているが当然、帝国の支配地域に属すべき


・従来からその位置も、存在するかもはっきりしていなかったので他国が占領していた事実はない


・帝国の臣民である山田禎三郎が発見して実地調査した上にリン鉱石の発掘事業をしようとしているので「国際法上の占領」にあたる

この答申を受けて、このときは桂内閣は7月22日、この島の領有を閣議決定する。8月8日付の東京府告示第141号をもって、新島は「中ノ鳥島」と正式に命名されて、東京府小笠原島庁に編入された。

こうして、日本政府は実地調査をせず、山田の発見報告だけを頼りに「中ノ鳥島」を領土編入したのだった。

■実は山田禎三郎は島の「発見者」ではなかった。探検隊や海軍の調査でも島は見つからず

大正3年(1914年)4月2日付けの時事新報の記事。「幽霊島ついに発見されず」との見出しが躍る
大正3年(1914年)4月2日付けの時事新報の記事。「幽霊島ついに発見されず」との見出しが躍る
時事新報

こうして政府から事業の許可を得た山田は、中ノ鳥島で意気揚々とアホウドリの捕獲やリン鉱石の採掘に取り組むはずだった……。が、そうはならなかった。領土編入から2年後、明治43年(1910年)9月5日付けの東京朝日新聞に掲載された「海洋の魔島(上)」という記事では、山田の発見報告後の中ノ鳥島について、以下のような記載している。

「しかしこの話はいつのまにか、うやむやに消えて今日では全くその後の消息を聞かない」

さらに決定的だったのは、領土編入から6年後。大正3年(1914年)4月2日付けの時事新報は「幽霊島ついに発見されず」という記事を出した。「山田禎三郎氏が探検を計画したるも中途にて中止」したため、平尾幸太郎らが率いる探検隊が中ノ鳥島を捜索に行って、綿密に現地の海上を調査したが島影を見つけることができなかったというのだ。

新島発見当時の明治41年(1908年)5月6日付けの国民新聞によると、そもそも山田は元教科書会社の経営者で、探検家などではなかった。中ノ鳥島も「自分で発見したものではなく、他人の発見した権利を買い取った」という内容が暴露されており、そもそも島の発見者ではなかったのだという。

日本海軍の海防艦「満州」も、1927年(昭和2年)9月に中ノ鳥島周辺の海域を調査したが、やはり発見できなかった。9月22日付けの東京朝日新聞によると、「今回の測量によって実に5000メートルから6000メートルの深海が続き絶対に危険のないことがわかった」と書かれている。

こうした報告を受けて海軍水路部は、太平洋戦争中の昭和18年(1943年)1月に軍事用の地図から中ノ鳥島を削除した。しかし戦時中のことで一般の地図には変化なく、海図から消えたのは終戦後の1946年11月22日付けの水路告示第46号だった。

正式な海図から消えたものの、その後もしばらくは一般の地図帳などには記載され続けており、私が小学生のときに見た地球儀もその一つだったようだ。

■中ノ鳥島の専門家は語る。「投資詐欺ないし権利転売などを目的に島の発見話が捏造された可能性も」

長谷川亮一さんの著書『地図から消えた島々 幻の日本領と南洋探検家たち』(吉川弘文館)
長谷川亮一さんの著書『地図から消えた島々 幻の日本領と南洋探検家たち』(吉川弘文館)
吉川弘文館

今回、この記事を書くにあたって「幻想諸島航海記」の管理者で、中ノ鳥島について詳しく調べた長谷川亮一さんに取材した。『地図から消えた島々 幻の日本領と南洋探検家たち』(吉川弘文館)などの著書があり、現在は立教大学日本学研究所の研究員を務めている。

―― 中ノ鳥島は1908年の閣議決定で日本領になり、1946年までは海図にも載っていました。「架空の島」を日本領に編入した背景には何があると思いますか?

直接の理由は、自称発見者である山田禎三郎が、リン鉱石の試掘権・アホウドリの捕鳥権などの認可を東京府に対して請求したからであり、諸権利を設定するためには、この島に日本の法律が適用される、つまり日本の領土になっている必要があったからです。

このパターン自体は南鳥島(1898年)、沖大東島(1900年)、竹島(1905年)の領土編入とほとんど同じです。また政府側は、山田の主張を疑わなかったことと、海図上に以前から疑存島「ガンジス島」が掲載されていたこと、特に外交問題が生じそうにないことなどから、文献上のずさんな調査のみで領土編入を閣議決定してしまったものと考えられます。

―― 山田禎三郎は、なぜ実在しない中ノ鳥島の発見報告をしたのでしょう?

不明です。あくまで推測ですが、島が実在すると信じた山田(あるいは、その周辺の誰か)が、他に先んじて開発権を獲得するため、自分が先に島を発見した、という話を捏造して東京府に開発権の認可を求めた、というところではないでしょうか。

また、投資詐欺ないし権利転売などを目的に島の発見話が捏造された可能性も考えられますが、この場合、山田が詐欺に騙された側なのか、それとも詐欺を仕掛けた側なのか、あるいはその両方なのかは、いまのところ確かめようがありません。

―― 海図から抹消後も、数十年にわたって地図などに中ノ鳥島が載っていたのはなぜでしょう?

民間発行の地図で、このようにさして重要でない離島に関する情報の更新が遅れることは珍しくありません(200海里水域が問題になる1970年代より前であれば、なおさらです)。

―― 中ノ鳥島を日本領から外す閣議決定などはされてないようですが、中ノ鳥島 が日本領でなくなったのはいつと考えればいいでしょう?それとも現在も日本領なのでしょうか?

「中ノ鳥島の存在は現在確認されておりません」(第142回国会参議院総務委員会、1998年4月7日、村岡兼造内閣官房長官)という政府答弁があるので、少なくとも現在は領土ではないことになります。一方、この答弁のさっぱり要領を得ない内容から見て、政府公式見解といえるものは存在しないようです。

【参考資料】


・平岡昭利『アホウドリと「帝国」日本の拡大』(明石書店)

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