ここ数カ月、日韓関係に関するニュースがホットな話題としてメディアを騒がせていた。8月、日本政府は韓国を「ホワイト国」から除外。同月には韓国が日韓軍事情報包括保護協定(GSOMIA)破棄を通告。他にも、元徴用工や慰安婦を巡る問題など、“盛り上がり“を見せた。
GSOMIA失効直前の11月22日に韓国側が破棄を回避したことで大きく報じられたが、それまでしばらくメディアの“盛り上がり“が落ち着いていたところを見ると、ニュースには“旬”があり、それが徐々に短くなっているように感じざるを得ない。日韓関係については、本来普遍的なテーマであるはずだ。
そうした流れの中で私が気になるのは、在日韓国・朝鮮人の存在だ。
いわゆる”在日”と呼ばれる、在日韓国・朝鮮人の特別永住者に対する世の中の空気感は、他のルーツやアイデンティティを持つ人たちとは、どこか異なる。
メディアが、事件の容疑者を逮捕したとなれば、すぐさまネット上には、「○○事件の犯人は”在日”だった!?」といったタイトルのまとめ記事が乱立する。
タイトルに”在日”と付けるだけでアクセス稼ぎができてしまうということは、”大衆の感情を刺激している”ということなのだろう。今の日本社会と”在日”とカテゴライズされる人たちとの関係性が垣間見れる気がする。
そんな中、今回、在日韓国人2世として戦後の日本で生まれ、”戦後最大のフィクサー”とも呼ばれた許永中氏をインタビュー取材する機会を得た。おそらく、10~20代のほとんどが、彼を知らないだろう。
許永中氏は、3,000億円が闇に消えたと言われる戦後最大の経済事件「イトマン事件」で1991年に逮捕、その後起訴された(事件については次回以降の記事で触れる)。
在日韓国人2世として大阪で生まれ、総合商社、大手銀行、テレビ局、政財界、暴力団組織にまで食い込み、戦後の日本社会に多大なる影響を与えた。日本社会における在日韓国・朝鮮人のイメージを落とした人物と言っても過言ではないだろう。
許氏は保釈中、韓国・ソウルに渡った後に失踪。1999年、都内のホテルで身柄を拘束された後、実刑判決を受け黒羽刑務所に収監。2012年に韓国での服役を希望し、国際条約に基づきソウル南部矯導所へ。2013年9月に仮釈放、2014年9月に後刑期を満了し、現在は韓国・ソウルで生活している。
在日韓国人2世である許氏の生い立ちを通じて、改めて、在日韓国・朝鮮人は日本でどういう歴史を生きてきたのか。今の日本社会に繋がる「戦後の日本社会と”在日”」について話を聞いてみた。
まだ韓国という国がない時代に生まれた
「どうも、許です。よろしく。」
8月下旬、韓国・ソウル市内のホテル。スーツ姿で現われた許永中氏は、被っていたハットを片手で取り、笑顔で挨拶してくれた。
初めて対面した許氏は、”闇のフィクサー”″悪人”というイメージとはほど遠い、感じの良い大阪のおっちゃんという感じだった。こうした人当たりの良さで、これまで多くの人と深い関係を築いてきたのだろうか。
許氏の父親は、戦前、釜山から日本に渡り、1940年から「湖山(こやま)」という通名を名乗るようになったという。1947年(昭和22年)、許氏は在日韓国人2世として大阪市北区中津で生まれた。その年はまだ、朝鮮半島が南北に分断される前。翌年の1948年、朝鮮半島は大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国に分かれた。
「私が生まれた時はね、韓国という国も、北朝鮮という国もまだないんですよ。そんな時に、私は日本で生まれたんですね。でも、日本人じゃない。私に国籍の選択権があったわけじゃあるまいし。その後、韓国籍となりましたけどね。最初は永住権がなかったから(警察官に)職務質問されてね、それでひっぱられたことが何回あったか。当時は色々反発したけどね、でもまぁそれはしょうがないことですよ、もう」
1910年の日韓併合以降、朝鮮半島の人々の国籍はすべて「日本」となった。その後、戦後1947年に「外国人登録令」が発令され、その時点で日本にいた朝鮮半島出身者の国籍は全て「朝鮮」となった。外国人登録の国籍欄に「韓国」という表示が認められたのは、1950年以降。当時から法律で、外国籍の人々は、パスポートあるいは外国人登録証の携行が義務づけられている。
その後、日韓法的地位協定により、戦前から日本国内に居住する在日韓国人とその子孫に対しては、「永住権」が与えられた。
現在、「在日韓国・朝鮮人」と言う場合、一般的には戦前に日本に定住した人と、その子孫を指し、在留資格で言うと「特別永住者」がこれに当たる。法務省の資料によると、日本に住む韓国籍あるいは朝鮮籍の特別永住者は現在、約30万人いる。
気付いた時には、自分が“朝鮮人”だとわかっていた
現在、72歳。許氏は、自身が生まれ育った環境について、こう語った。
「生まれたところが、当時で言う”部落”やからね。自分たちが住んでいたのは”朝鮮人”の集まる集落で、すぐ隣のエリアは被差別日本人の住む集落。理屈抜きにして、もう環境がそうやねん。差別されている者たちの集まる場所やったから。家は歪んだ長屋で、5坪くらい。そこで家族7人が暮してたんやで。当然、冷暖房なんかないですよ。ものすごく貧乏やったね。
「気付いた時にはもう、自分が”朝鮮人”(在日韓国人)だとわかってましたから。なんで自分はここにおるんかなという疑問はあったけれど、小さいうちは歴史なんか知らないから、『戦争に負けたんかな』くらいにしか思ってなかったですけどね」
小さい頃から、在日1世である両親の苦労を見てきた許氏は、次第に「貧困のスラム街ではなく、朝日のあたる家に両親を住まわせてあげたい」という気持ちを強く抱くようになっていったという。
「小学校の時にね、1月1日に学校に行くと先生たちが日の丸を上げて、君が代を歌わされたんや。でも、君が代なんか歌ったことないもん。歌は好きやで。強制的に歌わされているると思ったし、僕は”朝鮮人”(在日韓国人)なのに、なんで君が代を歌わないかんのと。1年生から僕思っていたし、そうやってきた」
気付いた時には自分が在日韓国人だと認識していたという許氏。小学校の時に”在日”であることを理由に教師から差別を受けて以降、在日韓国・朝鮮人を差別する人間は徹底的に許さないと決めたという。彼にとって次第に、在日韓国人というアイデンティティがコンプレックスへと変わり、その後の生き方をも変えていくことになる。
とはいえ、話を聞く限りでは、差別を受けて萎縮をしていったというよりは、差別をする者に対しては”暴力”で対抗し、「差別を跳ね返してきた」という方が正しいかもしれない。許氏が、その後に日本名を名乗るようになったのも、差別を恐れてというよりは、韓国名を名乗ることが交渉や駆け引きで不利になるからだったという。
「途中から日本名を名乗って本名をわからないようにしてましたね。学校でもずっと、通名の『湖山』という名前にしてね。家を出て不良の世界に入ってからは、当時の彼女の名前の『藤田』というのを使ってましたね。なぜかと言うと、『湖山』という名前は特殊な名前だから、わかる人は在日だってすぐわかっちゃうんだよね。どこそこの誰それ、お父さんお母さん、周りの親戚とか、私のルーツと言うんですか、瞬間的に全部わかっちゃうわけですよ。特に不良とか大阪には在日が多いし、在日の世界は狭いんですよ。そうすると、駆け引きの時に不利になるんですよ」
夢は日本で見るべきだし、見れると思った
貧しい家庭だったが、教育熱心な父親の影響で、大学へと進学した許氏。生まれた育った環境ゆえ、様々な被差別の人々や極道と呼ばれる人たちと人脈ができていったのは、自然な流れだったという。
その後、「不良をやっていた時期もある」と話す許氏。一方で、決して暴力団組織の組員になったことはないと断言する。とはいえ、話の中で出てくる人物は、暴力団組織の幹部の名前ばかり。そうした環境の中で、許氏は20歳前半で莫大な金を手にすることになる。
ある時、知人からの紹介で、許氏は”生涯の恩師”となる人物と出会う。博多一の富豪と言われた太田家の当主であり、当時、生命保険会社の社長を務めていた太田清蔵(6代目)だという。
「中津の長屋に育った荒くれ者の自分を暖かく見守り続けてくれた」という太田氏。許氏が28歳の時、太田氏にかけられたある言葉が、その後の生きる指針になったという。
「恩師がね、『そんなややこしい世界を出入りするんだったら、もう私はあなたには会いません』と。『日本と韓国のブリッジビルダーになりなさい。だったら私は応援します。どうしますか?』と。そんなん当たり前やん。『お願いします』と答えたね。僕はやっぱり、夢は日本で見るべきだし、見れると思ったからね。日本以上にチャンスのある国なかったもん」
許氏は、著書の中で当時のことを以下のように語っている。
<そう声をかけられたことは、生涯にわたって忘れることはない。それまでチンピラに毛が生えたような、無茶ばかりしていた私に、夢と生きる指針を示してくれたのだ。在日として生まれたことに意味を見いだすことができるようになった言葉である>(引用『海峡に立つ泥と血の我が半生』(小学館))
しかし、そのおよそ16年後の1991年、大手総合商社イトマンとの絵画取引をめぐり、特別背任などの容疑で逮捕。その後、起訴され、実刑判決を受けることになる。彼の”日本と韓国のブリッジビルダー”になるという夢も終わりを告げた。
自身の人生を語る上で、在日韓国人という生まれを抜きにしては語れなく、在日韓国人の歴史には”貧困”と”差別”が切っても切り離せないものとして絡み合っているという。
許氏はこれを、持病や治らない病気を意味する”宿痾(しゅくあ)”という言葉を使っていた。
とはいえ、差別をされてきた在日韓国・朝鮮人の中にも、まっとうに生きている人たちはいる。差別を受けてきたことが、彼を”犯罪者”へ導いたとは言えない。在日韓国・朝鮮人の中には、彼の存在を「在日の恥」と思っている人もいる。彼自身でさえ、そう考えていた。
「基本的に私は、在日というもんに対して、私のつたなさで、結局在日のイメージを貶めたことの反省というんか、申し訳ないという気持ちは間違えなくある。僕は日本で生まれ育って、事情があってこっち(韓国)に来たけど、日本が嫌で来たんでもないしね。僕はいささか、在日に対して良い意味での影響を与えたとか、何か貢献したとかは、ほんま全くないね」
″在日”と呼ばれる人たちは、終戦後、長らく差別や国籍など様々な問題を抱えながら生きてきた。今は在日韓国・朝鮮人も3世、4世がいる時代となり、また、在日韓国・朝鮮人だけではなく、様々な国籍のルーツを持つ人たちが暮らしている。
許氏が生きてきた終戦直後に比べれば、表面的には差別も減り、様々なルーツを持つ人たちと共に暮らせる社会になってきた。
しかし一方で、ネットの世界も含めて、いまだにそうした個人のルーツやアイデンティティすら許容できない人たちがいるのも事実だ。今後、さらに多様化していくだろう日本社会において、今以上に他人を許容していくことが求められているのではないだろうか。
【訂正 2019/11/29】
当初の原稿で、「法務省の資料によると、日本に住む韓国籍あるいは北朝鮮籍の特別永住者は現在、約30万人いる」としていましたが、この文の「北朝鮮籍」は「朝鮮籍」の誤りでした。訂正し、お詫び申し上げます。
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11月28日に、許永中氏インタビューの続編「イトマン事件から28年。“利用し、利用されていた“許永中氏と戦後の日本社会」を公開予定。
許永中氏インタビュー第2弾