“上原の悔し涙”にみる「個人と組織の関係」

広島カープファンの私にとって、「巨人の上原投手」というのは、まさに「憎たらしい投手」そのものだった。
上原引退/引退会見の上原
上原引退/引退会見の上原
時事通信フォト

昨日(5月21日)、巨人の上原浩治投手が記者会見を開き、現役引退を表明した。

広島カープファンの私にとって、「巨人の上原投手」というのは、まさに「憎たらしい投手」そのものだった。現在、セリーグ3連覇中の「強いカープ」になるまで、25年間も優勝から遠ざかり、「万年Bクラス」と言われていた頃のカープが、上原投手にどれだけ悔しい思いをさせられてきたか。

そのような「巨人の上原投手」が「悔し涙」を流したことに、深い共感を覚えたことがあった。

その時に思ったことを書いたような記憶があったので、パソコンの保存ファイルを検索してみると、「上原の悔し涙」と題する短文がみつかった。当時は、検察組織に所属してた時代で、ブログやツイッターなどもなく、そのまま、私のパソコンの中に埋もれていた。

巨人軍上原投手、新人では19年ぶりの20勝投手、1999年10月6日のスポーツ紙面は、前夜のヤクルト戦で完投勝利を飾った若き巨人軍エースの賞賛で埋め尽くされるはずであった。しかし、意外にも、多くのスポーツ紙の一面の見出しは「上原、悔し涙」という大きな文字だった。

巨人軍には、もう一つの個人記録がかかっていた。ホームラン王を狙う松井が41本と、トップを走るヤクルトのペタジーニに1本差に迫っていた。既に中日の優勝が決まったセリーグの「消化試合」、球場に足を運んだファンは、松井対ペタジーニの白熱した「ホームラン王争い」に期待していた。しかし、6回ヤクルトの投手が、松井を敬遠したことの「仕返し」に、巨人のベンチは、7回1死無走者のペタジーニの打席の場面で上原に敬遠を指示、これに従って四球を出した上原は屈辱に顔をゆがめ、ベンチに帰ってからも涙は止まらなかったという。

野球は、チームプレーの競技である。しかし、それは、あくまでチームの勝利のためのもののはずだ。一人の個人記録のために、記録を達成しようとしている別の個人に対して、勝負を回避する指示をするということが許されるのだろうか。

スポーツ紙には、「むこうが勝負してこないのだから勝負しないのは仕方がない」という趣旨の巨人軍の投手コーチのコメントが載っていた。それは、「むこうのチームが投手にビーンボールを投げてきたのだから、こっちもやり返すのが当たり前だ」という理屈に似ている。そこには、「消化試合」であっても、球場に足を運んでくれた多くのファンに応えようという意識は全くない。

松井の敬遠も、ヤクルトベンチの指示だったかもしれないが、敬遠した投手は、結局のところ、松井にホームランを打たせない自信がなかったのであろう。しかし、それまでペタジーニにヒットすら一本も打たれていなかった上原には、少なくともホームランだけは絶対に打たれないという自信があったはずだ。99年のペナントレース、幾度も連敗を重ねながら、その都度「連敗ストッパー」として立ちはだかった上原のおかげで、最後まで中日と優勝争いを演じることができた巨人軍。上原には、そのベンチから、20勝投手の桧舞台でペタジーニを敬遠するように指示をされることなど、思いもよらぬことであったろう。ペタジーニを完全に押さえ込んで松井の援護射撃をしたいと意気込んでいた彼が、無念の涙を流すのは無理もない。

しかし、その上原個人にとっても、ベンチの指示にしたがって敬遠をすることが当然と言っていいのであろうか。指示に逆らって、腕も折れるぐらいの気迫で速球をペタジーニに投げ込むことがなぜできなかったのか。もし、ここで、上原がベンチに対して「反逆」を行い、万が一それがホームランという結果につながったとしても、責める者は誰もいないであろう。上原には、その結果について自分自身で責任を負うに十分なだけの実力と実績がある。

観客の前で白熱した「勝負」を演ずることがプロ野球の神髄だとすれば、チームの勝敗のためではなく個人記録のために勝負を回避させたベンチの指示は、決して正当なものとは言えない。「不当な指示」であっても、それに従うことが、プロ選手として当然なのであろうか。マウンドで投球を行っていたのは投手上原であり、「巨人軍」ではない。入場料を払って観戦に来てくれる客に対して、真剣な「勝負」で応える責任を負っているのは、組織としてのチームだけではない。プロとしての選手個人にも責任があるはずだ。

組織の指示に対し、「正当性」について自ら判断せず、従順にしたがっている限り責任を問われないというのが、従来の日本の企業社会での「個人」の行動だ。しかし、その日本の企業社会も大きく変わろうとしている。組織は、時として大きな誤りを犯す。組織の指示の正当性についても、自分自身で判断し、自己の責任で行動することが必要となることもある。

上原が流した涙は、巨人軍ベンチが最後の最後で自分を信頼してくれなかったことへの悔しさによるものであろうか、そのベンチの指示にしたがって惨めな敬遠四球を投じた自分自身の「ふがいなさ」を悔やむものであろうか。

カープファンの私が、このようなことを思うほど、上原投手は、この上なく強い、偉大な投手であった。

その活躍に心から拍手を送りたい。

「郷原信郎が斬る」2019年5月21日「“上原の悔し涙”にみる「個人と組織の関係」より転載

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