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2020年02月07日 11時23分 JST | 更新 2020年02月10日 09時31分 JST

【アカデミー賞2020】ポン・ジュノ監督は韓国映画界と共に成長してきた。世界的ヒット『パラサイト』の歪な魅力の正体

アカデミー賞作品賞受賞! 活況続く韓国映画界と共に成長し、『パラサイト 半地下の家族』で世界を魅了したポン・ジュノ監督。その歩みを辿る。

Emma McIntyre via Getty Images
クリティックス・チョイス・アワード(放送映画批評家協会賞)では、『パラサイト 半地下の家族』のポン・ジュノ監督(写真中央)と『1917』のサム・メンデス監督が同点で監督賞を受賞した

2019年全米で最もヒットした外国語映画

公開されて1カ月が経った韓国映画『パラサイト 半地下の家族』。ポン・ジュノ監督の作品としては、日本ではじめて10億円を超えるヒットを続けている。当初は131スクリーンでのスタートだったが、好調な動員を受け1カ月経ったいまも公開規模を拡大中だ。 

こうした状況は日本だけではない。2019年5月に韓国で公開されて以降、『パラサイト』は全世界的なヒットを続けている。本国の韓国はもとより、アメリカ・カナダでも興行収入は約3300万ドルとなり、昨年もっともヒットした外国語映画となった。

興行だけでなく、その内容も高く評価されている。フランス・カンヌ映画祭ではパルム・ドール(最高賞)を受賞し、アメリカ・ゴールデングローブ賞では外国語映画賞を受賞した。

数日後に控えるアカデミー賞でも、作品賞を含む6部門にノミネートされている。昨年の『ROMA/ローマ』など、外国語映画がアカデミー作品賞にノミネートされることは稀にあるが、韓国の映画がそこに加わるのは初めてのことだ。

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映画『パラサイト 半地下の家族』

批評と興行──それはしばしば対立的な構図で語られてきた。言い換えれば、芸術性と娯楽性の対立とも言えるだろう。

また、日本では純文学と娯楽小説という呼び方があるように、そうした区分は映画に限ったことでもない。そのとき、芸術の思想にとって商業的な論理はしばしば高い障壁として捉えられてきた。ひとむかし前であれば、それらは資本主義への対抗として文化系左派のイデオロギーを支えるフレームとなっていたように。

ポン・ジュノは、そうした構図を軽々と越境してきた。韓国では長編2作目『殺人の追憶』(2003年)から、常に観客にも批評家にも広く受け入れられてきた。

彼の作品は、さまざまな観客を引き込む多層的な構造となっているからだ。『パラサイト』もその例にもれず、間口の広いコメディ調の展開で観賞者を招き入れ、地下深くまで引きずり込んでいく。

今回のヒットは、そんなポン・ジュノの技巧を全世界が知った瞬間だ。

日本の映画人口を上回り続ける韓国

2019年の韓国映画界は、動員数が2億2668万人、興行収入は1兆9140億ウォン(約1800億円)と、いずれも過去最高を記録した。総人口が日本の4割ほどであるにもかかわらず、2011年以降は日本の映画人口を上回り続けている。日本とは比較にならないほど、映画熱は高い。

2000年に長編映画デビューしたポン・ジュノは、こうした活況を続けてきた韓国映画界とともに成長してきた。

デビュー作の『ほえる犬は噛まない』(2000年)は興行的に失敗したものの、犬を通して新旧の韓国社会の歪みを描くことに成功していた。実際の連続殺人事件をモデルとした2作目の『殺人の追憶』(2003年)は、国内外で高く評価され一躍スター監督となる。3作目の『グエムル-漢江の怪物-』(2006年)では怪獣の存在を使って韓国における米軍の存在を描き、4作目の『母なる証明』(2009年)は殺人容疑をかけられた息子を必死に守ろうとする母親を通して韓国社会における家族像を描いた。

2010年代に入ると、ポン・ジュノは海外に進出する。約4000万ドルの予算でつくられ北米でも公開された全編英語の『スノーピアサー』(2013年)は、走り続ける列車の車両をそのまま社会階層としたSF映画だった。そしてNetflixで配信された『オクジャ/okja』(2017年)は、人間と動物(ペット/家畜)との関係をより純化した、『ほえる犬は噛まない』のグローバル向け改訂版といった内容だ。

こうしたフィルモグラフィーを追うと、ポン・ジュノが『パラサイト』にいたるコンテクストも明らかとなる。00年代はドメスティックな映画をつくり、10年代は韓国では不可能な規模の予算で海外進出をしていった。

舞台は変われど、描かれているテーマに大きなぶれはない。『パラサイト』で描かれた格差社会は『スノーピアサー』で、密着的な家族関係は『グエムル』や『母なる証明』で描かれていた。

そのなかで『スノーピアサー』と『オクジャ』は、海外を舞台とすることでディテールに宿る生々しさが弱まり、一方で作品構造をより純化している。この2作は、おそらくポン・ジュノを追ってきたひとにとっては決して高く評価されない作品であるだろう。

しかし、『パラサイト』はこの2作がなければ生まれなかったはずだ。

Jae Hyuk Lee
Netflixで2017年6月に配信された『オクジャ/okja』の撮影風景

ケン・ローチ、是枝裕和、ポン・ジュノの共通点

『パラサイト』は、実はとてもシンプルな話だ。半地下の一家が富裕層の一家に寄生し、そこで思ってもみなかったべつの扉が開かれてしまう。この物語構造や、とてもわかりやすいラストは、海外展開を通過したからこそもたらされたものだろう。

だがそこでは同時に、きわめてドメスティックな状況も描かれる。それがあの家父長制の色濃い家族の有り様だ。社会学者の韓東賢も指摘するように、主人公一家も、富裕層の一家も、まったく“家族”を疑わない。それはきわめて自明なものとして描かれる。

ポン・ジュノは『パラサイト』を語るときに、ケン・ローチの『わたしは、ダニエル・ブレイク』と是枝裕和の『万引き家族』をあげている。ともに近年のカンヌ映画祭でパルム・ドールを受賞した作品だ。3作に共通するのは、各国における格差社会と、それに翻弄される家族を描いている点だ。

しかし、『パラサイト』以外の2作は、血縁がない者同士でも家族(的な)関係が構築される可能性を描いている。行政(社会)から見放された者たちが助け合って生きるその関係は、最後の希望であり手段だった。それは家族を自明なものとして扱わず、再帰的なものであることを示している。もちろん、ポン・ジュノにも再帰的家族への理解があることは、『グエムル』の結末を見ればわかる。

だが『パラサイト』に登場する複数の家族は、そうした可能性に見向きもしない。彼らは、あくまでも血縁や家長の存在を疑わない運命共同体だ。だからこそ、家族は社会から切り離された独立のユニットとしての度合いを強め、他の家族とも助け合うことはなく寄生(パラサイト)し合う。一方は寄生されている事実に気づいていないその関係は、合目的性がすべてだ。そこに、けっして公共性はない。『パラサイト』の歪な魅力は、まさにこの寄生にある。

思えば、80年代から米英を中心に日韓でも導入された新自由主義政策が理想としていたのは、トリクルダウン理論だった。富は上層に蓄えられることなく、下層にトリクルダウンし(したたり落ち)、経済は好循環を続けるという図式だった。

だが、トマ・ピケティが喝破したように、そうはならない。格差は拡大し、上層から富は滴り落ちることなく、雨水はただ下層に流れ込んで汚水となった。寄生(パラサイト)は、トリクルダウンを期待できない下層民による知恵の結実だった。

John Sciulli via Getty Images
『パラサイト』はアカデミー賞と投票者が一部重複しているPGA(全米プロデューサー組合賞)でも作品賞を受賞。ポン・ジュノ監督(左から3盤面)とキャスト

家族から始まり、個人の本性をあぶり出す物語

イギリスの『わたしは、ダニエル・ブレイク』、日本の『万引き家族』、アメリカの『ジョーカー』、そして韓国の『パラサイト』──。

これらの作品がここ3年ほどの間に発表されて注目されてきたのは、けっして偶然ではない。すべて新自由主義の社会政策を推し進め、その結果として経済格差が拡大した国で生まれた映画だ。

小さな政府を目的とする新自由主義において、それがわかりやすい残酷さとなって露呈するのは社会保障と教育である。映画の登場人物たちは、苦しみ、抗議し、暴動を起こす。映画から発せられるそのメッセージは、極めてストレートだ。

しかし、『パラサイト』では行政への直接的な不満はほとんど描かれない。政治にかんして積極的な態度を見せる韓国社会において、彼らは劣等的な存在と見なされるかもしれない。そこで表向きに見えるのは明確な貧富の差と密着した家族群、そして寄生し合う関係性だ。

観賞者は歪な密着家族を通して格差を知り、さらに得体の知れない地下に引きずり込まれる。直接的なメッセージは描かれないものの、過酷な社会構造を通観することとなる。この点において、『パラサイト』は複雑できわめて巧妙だ。

ただし、クライマックスでこの物語は大きく飛躍する。たったひとつのことによって。

6年前、『スノーピアサー』公開時にポン・ジュノ監督にインタビューした際、こう話していた。

「これまでの作品は、韓国社会を描いた韓国映画だったとしても、一皮剥けば、結局人間に関する映画でした。人間の条件とはなにか、人間の本性とはなにか──。それらを問いかけてきました」(日経トレンディネット2014年2月12日付)

おそらく『パラサイト』も、その例に漏れることはない。さまざまなひとびとの本性がむき出しとなるあのシーンは、それまでのきれいな展開を破綻させる。こうしてひとつの家族から始まる物語は、複数の家族を経由して社会構造を通観し、そして個人の本性へとつながっていく。

結果、私たちは当然のことを確認することとなる。

家族や社会は、個人の集積なのだと。

(編集:毛谷村真木