「誰でもやり直せる」。『キャッツ』を現代社会の文脈で捉えると? 映画と舞台を見比べて感じたこと。

コミュニティーの中で「忘れられた」人や「許されざる者」と考えられている人を受け入れることで、私たちはコミュニティとしてより強くなれるーー。映画『キャッツ』のトム・フーパー監督は、作品に込めたメッセージについてこう語ります。
映画『CATS』
映画『CATS』

ミュージカルの金字塔『CATS(キャッツ)』の実写映画は、もう見ただろうか?

酷評合戦が話題となった海外と比べて、日本での評判はそれほど悪くないようだ。

私も映画を観たが、”ネコ人間”のビジュアルは意外とすんなり受け入れられたし、主人公のヴィクトリアを演じたフランチェスカ・ヘイワードのバレエは絶品だった。映画のためにアンドリュー・ロイド=ウェーバーが作曲、テイラー・スウィフトが作詞した新曲も素晴らしかった。

とはいえ、ミュージカルの『キャッツ』に慣れ親しんだ私が映画を見終えて感じたのは、漠然とした違和感だった。映画館を出てすぐ、劇団四季のミュージカル『キャッツ』のチケットをポチッとしてしまったほど…。

なぜなのか。

映画と舞台への考察、そしてトム・フーパー監督へのインタビューを通して、この違和感の正体について考えてみたい。

(ここから先は、内容のネタバレを一部に含んでいます)

映画の主人公ヴィクトリアは、舞台版では歌もセリフもない。なぜ彼女が主人公になったのか。

フランチェスカ・ヘイワードさん演じるヴィクトリア
フランチェスカ・ヘイワードさん演じるヴィクトリア
映画『CATS』より

ストーリーは簡単だ。

満月が輝く夜、街の片隅のゴミ捨て場に、大勢のジェリクルキャッツが集まっている。ぐうたらなおばさん猫、ちょっぴり兄貴肌の猫、汽車を愛する鉄道猫……。今夜は、年に一度、“ジェリクル舞踏会”が開かれる特別な夜。長老猫に選ばれた一匹のジェリクルキャッツだけが、天上の世界で新しい人生を生きることを許される。その一匹に選ばれるべく、ジェリクルキャッツたちは歌とダンスで自分を表現していくーー。

『キャッツ』の原作は、ノーベル文学賞を受賞したイギリスの詩人、T・S・エリオットの詩集「ポッサムおじさんの猫とつき合う法」。一編が一匹の猫の紹介、というスタイルの詩集で、特筆すべきストーリーがあるわけではない。

したがって、舞台版の『キャッツ』に主役はいない。もっと言えば、人間も出てこない。最初から最後まで個性豊かな24匹の猫たちが歌い踊る、ストーリーよりもショー的な要素が強い作品となっている。

ところが、映画では冒頭に“人間”が登場する。車から降りた人間が、袋に入った白猫ヴィクトリアを捨てるシーンから物語がスタートする。見知らぬ場所に捨てられ、ジェリクルキャッツたちに初めて出会う白猫ヴィクトリアは、私たち観客を映画『キャッツ』の世界に導くガイドでもある。

舞台版には冒頭のシーンは存在しない。ヴィクトリアは、最初からジェリクルキャッツの一員だ。舞台版ではセリフも歌もない役だが(ダンスはある)、映画では主人公である彼女の目線で物語が進んでいく。

なぜ、映画版ではヴィクトリアという主人公を設定したのだろうか。トム・フーパー監督はこう答える。

「ヴィクトリアは、観客の視点を担うキャラクターなんです。ミュージカルなら観客に向かって歌いますが、映画の場合、演者がカメラに向けて歌って踊るわけにはいきませんからね。観客と同じように、キャッツの世界に新しく踏み込んで、いろいろなタイプの猫たちとの出会いを通して成長していきます。同時に、彼女の優しさや純粋さが、ストーリー全体の大きなハブにもなっているわけです」

トム・フーパー監督
トム・フーパー監督
Photo:Kazuhiko Okuno

「メモリー」にすがるグリザベラを、「メモリー」がないヴィクトリアが救う。そんなヴィクトリアが手にしているもの。

映画と舞台を見比べて気づくのは、ヴィクトリアという主人公の存在が、『キャッツ』の世界観に現代的な文脈と説得力を与えたということだ。

『キャッツ』には様々な個性豊かな猫たちが登場し、主要な猫たちには、それぞれが中心となる歌やダンスの場面が与えられている。

ちなみに、私のお気に入りは、汽車を愛するスキンブルシャンクス、マジックが得意なミストフェリーズの場面。これは映画でも同じだった。

ジェイソン・デルーロさん演じる「ラム・タム・タガー」
ジェイソン・デルーロさん演じる「ラム・タム・タガー」
映画『CATS』より

『キャッツ』のストーリーを知らなくても「メモリー」の歌だけは知っている、という人も多いかもしれない。「メモリー」はグリザベラという娼婦猫(映画では“娼婦”ではない)のテーマソングであり、物語のラスト近くに登場する。

グリザベラは、コミュニティーの中でつまはじきにされている存在だ。華々しい過去の思い出(メモリー)にすがって生きるが、今では他の猫たちに近づこうとするだけで、「臭い」「汚らわしい」と罵られ嫌われている。彼女の哀しさが、明るい歌や軽妙なダンスが続く『キャッツ』のストーリーに絡まりながら、「メモリー」の絶唱とともに天上の世界への救済というカタルシスへと昇華されていく。

『キャッツ』には、「メモリー」にすがって生きる猫が2匹登場する。

グリザベラと、かつて劇場の大スターだったガス。映画版と舞台版で、ガスをめぐるストーリーが少し異なるが、最終的に天上の世界へとのぼれるのがグリザベラだという結末に変わりはない。

グリザベラが選ばれるのは、ストーリー全体を見れば必然だ。

ガスには「メモリー」だけでなく、コミュニティーの一員であるという安心感と、ただの老猫となった今も寄り添ってくれる存在がある(寄り添ってくれる存在は、映画と舞台では異なる)。「メモリー」以外に何もないグリザベラとの決定的な差だ。

ジェニファー・ハドソンさんが演じるグリザベラ
ジェニファー・ハドソンさんが演じるグリザベラ
映画『CATS』より

一方、映画版の主人公であるヴィクトリアには「メモリー」がない。ヴィクトリアのために追加された新曲「ビューティフル・ゴースト」の歌詞には、こうある。

「望みはたった一つだけ 誰かに求められることだけだった」

「でも少なくとも、あなたには美しい亡霊たちがいる」

“美しい亡霊”(メモリー)にすがって生きるグリザベラと出会った後の、ヴィクトリアの心情が描かれているこの曲は、とても美しいが悲壮ではない。「メモリー」を持たないかわりに、若いヴィクトリアが持つのは「未来」だからだ。

映画のラスト、ヴィクトリアは、グリザベラを仲間の集う場所に誘い、歌うように促し、「私に触れて」というグリザベラの魂の叫びに応える。

舞台版で、グリザベラが歌い上げた「メモリー」に心を動かされた猫たちが彼女を抱きしめるエンディングは、若干の唐突感は否めなかった。

その点、映画版はストーリー構成に無理がなく、エンディングの説得力が増したように感じた。

新参者のヴィクトリアが、グリザベラとコミュニティーをつなぐ接点となり、グリザベラが天上の世界に旅立った後、コミュニティーの主要なメンバーになる未来を予感させる。

映画『CATS』より
映画『CATS』より

「誰もが赦され、受け入れられる権利を持っている」

インタビューでは、トム・フーパー監督が作品に込めたメッセージについても改めて聞いた。

ジェリクルというムラ社会的なコミュニティーと、新しく飛び込んできたヴィクトリア、「見えない存在」とされているグリザベラ。作品を現代的な文脈で捉えると、移民や少数派という現代社会が抱えるコミュニティーの課題が浮かんでくるような気がします。意図したメッセージがあるのでしょうか?

 

今、世界ではポピュリズムが台頭しています。価値観や文化的な亀裂、分裂をポピュリズムが煽る社会に、私たちは生きています。作品をエンタメとして楽しんでもらいたいのはもちろんですが、この作品を通して言いたいのは、コミュニティーの中で「忘れられた」人や「許されざる者」と考えられている人を受け入れることで、私たちはコミュニティとしてより強くなれるんだ、ということです。


ヴィクトリアは無垢な存在です。なぜグリザベラが除け者にされているのか、他の猫たちが冷たく対応する理由が分からないのです。ヴィクトリアは、コミュニティーのそういう“癖”というか慣習のようなものに挑戦する存在であり、他の猫たちが間違っていることを道のりの最後に示してくれて、赦しや救済というところで物語が終わるのです。

 

“赦し”は、僕の作品すべてに通じる大事なテーマです。『レ・ミゼラブル』はもちろん、『英国王のスピーチ』も自分の吃音を自分自身が受け入れるというのがテーマになっています。


グリザベラはコミュニティーに受け入れられた後、天上の世界へと新しい命を得る旅路につきますが、これも現代社会の視点を持って言えば、自分で自分を再生できることの大切さを伝えるものです。

 

誰でも自分自身をやり直し、再出発することができますし、その権利を持っています。そして大事なのは、その再出発を社会が受け入れてくれること。誰もが、赦され、受け入れられる権利を持っているということです。

トム・フーパー監督
トム・フーパー監督
Photo:Kazuhiko Okuno

映画版と舞台版、まったく違う2つの魅力

映画版『キャッツ』はリアルすぎる視覚効果の失敗ばかりが注目されているが、それはとてももったいないと思う。(正直に言えば、2カ所ほど目を背けたくなるシーンがあったけれど…)

『キャッツ』の世界観に包まれ、歌やダンス、人間の肉体が持つ迫力や創造性を強く感じられるのが舞台版の醍醐味だとしたら、映画版は心情の機微や緻密なストーリが紡ぐメッセージを強く感じられるのが魅力だ。もちろん新曲の素晴らしさは言うまでもない。

まったく違う2つの魅力があるからこそ、舞台の『キャッツ』に親しんだ人にとっては最初は違和感や物足りなさがあるかもしれない。

でも映画の後に舞台を観ると、舞台版と映画版それぞれの魅力をより一層感じられるはずだ。私は、映画と舞台を観た後、トム・フーパー監督へのインタビューという贅沢な機会を得て、衝動的にT・Sエリオットの原作もポチッとしてしまった…。

なので、映画で『キャッツ』を知った人には、ぜひ舞台版『キャッツ』の世界も体感してほしいし、舞台の『キャッツ』しか観たことがない人には、映画版も見ることをおすすめしたい。

最後に、トム・フーパー監督からのメッセージを紹介する。

「『キャッツ』は家族向けの、子ども向けの映画です。私は8歳の息子に向けてこの映画を作ったんです。あなたが子どもなら、人間が演じる猫をすぐに受け入れることができるでしょう。5歳と8歳の私の甥っ子と姪っ子もそうでした。子どもの想像力には限界がありません」

「なので、この映画は、魔法のようであり、ちょっぴりヘンテコで、ファンタジーで、『真夏の夜の夢』のように幻想的なものであることを分かっていただきたいと思います。ぜひ、童心にかえってご覧ください」

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