『バチェラー』シーズン4に感じた「限界」。過激さ追求するリアリティショーに未来はあるのか?

【加藤藍子のコレを推したい、第15回】『バチェラー・ジャパン』の主役はバチェラーではなく女性たちだ。シーズン4も様々な「物語」が生まれたが、その一方で番組制作の問題点も垣間見えた。
『バチェラー・ジャパン』シーズン4
『バチェラー・ジャパン』シーズン4
(C) 2021 Warner Bros. International Television Production Limited

Amazonプライム・ビデオが配信する恋愛リアリティ番組『バチェラー・ジャパン』のファンだ。『バチェラー・ジャパン』とは、成功を収めた独身男性=バチェラーのパートナーの座を勝ち取るために、複数人の女性たちが勝ち抜き制で競い合うアメリカ発の「婚活サバイバル番組」。2021年11月25日からシーズン4の配信が始まった。シーズン1の放送開始から数えれば5周年になるそうだが、私は全ての回を視聴している。こう言うと、番組を観たことがない知人からはこんな疑問を呈されることがある。

「『ハイスぺ男性』を大勢の女性たちで取り合う? 時代錯誤が過ぎるのでは」

「他人の恋愛をのぞいて何が楽しいの?」

無理もない。私も、別の友人に強く薦められて視聴し始めるまでは、そう思っていた。だが私にとって、最終的に誰が選ばれるかとか、バチェラーの好みのタイプがどうであるかとかは、ほぼどうでもいい。面白いのは、出場した女性たちの数だけ「物語」が生まれるからだ。

「最終的に1人しか残れない勝負」の体裁を取っているからこそ、「物語」の輪郭が際立つ。あくまで「ショー」なのだと分かっているのに、競い合ったり支え合ったりする中で、「本当」としか思えない表情が顔を出す。それが綺麗だ。

つまり主役はバチェラーではなく、女性たちだ。どの「物語」がより心に響くかを決めるのだって、実はバチェラーではない。視聴者一人ひとりである。勝負はバチェラーの好みや、心を動かされた度合いで決まっていくけれど、それはゲームの仕様や設定といった類のもの。勝ち抜いた物語より、負けた物語のほうが輝くこともある。ゲームに勝つのは最後の1人でも、本当の意味で「負けた」出場者なんていない。

シーズン4も楽しませてもらった。バチェラーを務めた黄皓(こう・こう)さんを始めとした出演者は、一挙手一投足が世間の注目を浴びるリアリティショー特有のリスクを引き受けながら、番組を盛り上げてくれた。ファンとして感謝したい。

だが一方で、今回垣間見えた方向性で今後もショーが続いていくなら、安心して観続けていくのは難しい、という気持ちにさせられた。出演者というより、制作側の選択の問題でもある。

「物語」が後景に退き過ぎている。

番組で出演者たちは2か月間、外界と一切の連絡を絶たれた状態で共同生活を送る。国内外の豪華なロケーションでさまざまなデートを体験したり、連日開催されるカクテルパーティで語り合ったりしながら、関係を深めていく。バチェラーは旅のホストを務める立場だ。その人格や恋愛観によって、旅のコンセプトが方向づけられていく部分も大きい。

シーズン4の旅は、黄さんの「後悔」から始まっている。彼は『バチェロレッテ・ジャパン』(『バチェラー』とは逆に、独身女性が複数の男性の中からパートナーを選ぶ番組)に候補者の1人として出演。だが「最後の1人」には選ばれなかった。公式のインタビュー動画や本編の中で度々「(当時)足りなかったのは自分をさらけ出すこと」と反省を口にし、「今回は『やりきったな、俺』と思える旅に」と意気込みを語っている。

物語を生み出すきっかけとしては美しかったと思う。いわゆる「ハイスぺ」男性として、完璧であることを追い求めてきた黄さん。『バチェロレッテ』では、自信家の一面に光が当たる一方で、最終盤になっても自分の気持ちを明確に表現できなかった。バチェロレッテの福田萌子さんに「(人と向き合うときに)リスクマネジメントするのやめない?」と鋭く指摘され、涙を流す場面もあった。それを観ていた人たちにとっては特に「どんな成長物語を見せてもらえるのだろうか?」と期待させるような今回の導入だった。

だがそのぶん、その後の顛末に落胆した。


※以下は、番組の内容や結末に関わる重要な部分に触れています。

恋愛リアリティショーはあくまで「ショー」であり、台本はなくても演出や脚色が入っているのが前提だ。だからこれから触れるのは黄さんという生身の人間ではなく、編集され、結果的に番組に映っている「黄皓という役柄」についてであることを断っておく。その上で言いたい。

「さらけ出す」と宣言した黄さんは、何をしたか。候補者の女性の唇に、次から次へとキスを始めた。

料理の腕を競ったり、スポーツしたりする際の女性たちの反応について「いろんな一面が見えた」「ネガティブな印象はない」などとコメントはする。だが、女性が複雑な思いを抱えている様子のときに、深く踏み込もうとはしない。自立して働いている女性だってたくさんいるのに、仕事に関する質問はほとんどしない(「編集」されてしまったのだろうか?)。

パートナーに求めるものは人それぞれだし、キスをするのがけしからんと言っているわけではない。ただ、相手の「物語」を引き出すスキルが不十分なのに、キスばかりするから苦笑してしまうのだ。

あるときは、女性から間接キスを仕掛けられて「おかわり」と唇に直接のキスを返す。この出場者は後に「キスをされ返されるとは思っていなかった」と語っている。

またあるときは、かなり惹かれている様子の女性から「まだ好きではない」という趣旨のことを伝えられて狼狽。どちらかというと殺伐とした雰囲気の中、また唇にキスをする。

「バチェラーと恋をするために出演している」という特殊な前提は、ある。その女性も「びっくりはしたが嬉しかった」と後に振り返っている。ショーであるゆえに虚実はないまぜにならざるを得ない。だが、まだ好きではないと伝えた直後にキスされるって、怖くないか。女性の気持ちがどうあったにせよ、傷つける可能性を想像すらできなかったのか。

実際、黄さんが複数の女性にキスをした事実は番組内で波乱を巻き起こした。それを知って泣いてしまう出場者や、棄権する出場者も出た。黄さんのツイートによると、視聴者からの批判的メッセージも届いているようだ。

黄さんに足りなかったのは事後の説明ではなく、会話や対話だと思う。「覚悟を持って向き合うこと」がなぜ、心よりも身体の触れあいに直結するのかが分からない。

特にAmazonジャパンに問いたい。「むき出しの人間ドラマを描くリアリティ番組」を謳う以上、出演者たちへ何らかの働きかけをするのは難しいという建前も分かるが、バチェラーが女性たちのバックグラウンドにもう少し向き合うよう促す仕組みを考えられないのか。番組内では折に触れて、旅を通して成長することの尊さが語られる。「人はそうそう成長しない」という皮肉なメッセージを示したかったわけでもないはずだ。

『バチェラー・ジャパン』は元来、体裁としては女性が「選ばれる側」でありながらも、「選ぶ側」のバチェラーは彼女たちを精一杯のホスピタリティーと敬意をもって迎えるという微妙なバランスの上で、どうにか成立してきた。制作側がそこを自覚してコンテンツづくりに臨んでいるのか、甚だ疑問だ。

制作側には、コンテンツの置かれた文脈を理解した上で「キャラクター」たちをコントロールし、出演者たちを守る責任がある。出演者たちの尊厳が傷つけられたり、誹謗中傷の矛先になることがあったりしてはならないからだ。過激さや目新しさだけを追求していくなら、こうしたリアリティショーに持続可能性はないと思う。

ちなみに、今回の私の「推し」は桑原茉萌さんだった。バチェラーに最初にキスをされたが、その後、他の女性もキスをされたと知り、プライドを傷つけられた。「劣等感を感じる恋愛をする気はない」と、途中棄権した。いくらショーでも生身の自分をさらしているのだから、受け入れられる一線は人によって違う。それなのに、VTRを観たMCらがスタジオで感想を交わす際に「(精神的に)若かった」などと結論付けたのも残念だった。スタジオトークに影響されて、視聴者のネガティブな反応が加速する部分もある。

最終回直前、落選した出場者たちが一堂に会してトークするスペシャル回で、アイスブルーのドレスを身にまとって登場した桑原さんは、それまでに私が見た彼女の中で一番綺麗だった。彼女は愛称が「シンディ」なのだが、もともとシンデレラが好きだったからだという。

これは視聴者の勝手な妄想かもしれないけれど、憧れのプリンセスを思い起こさせるようなドレスを、あえて選んだのかなと感じた。バチェラーに選ばれても、選ばれなくても、みんな綺麗で、かっこいい。私がこの番組を観続けてきたのはそれが理由で、シーズン4でもこういう瞬間を愛でることはできた。でも、もし彼女たちが尊重されていないと感じることが起きるのならば、ショーを観続ける自分を許せなくなるだろう。

(文:加藤藍子@aikowork521 編集:若田悠希@yukiwkt

注目記事