「理解し合えないこともある。でも今は…」LiLiCoが本音で語る、母と家族

好評連載 第27回 LiLiCoの「もっとホンネで話そう。私たちのこと」
タレントのLiLiCoさん
タレントのLiLiCoさん
Yuko Kawashima

18歳で単身、母国のスウェーデンから来日したタレントのLiLiCoさん。その母は、26歳で日本を離れて単身スウェーデンに渡り、現地で出会ったLiLiCoさんの父と結婚しました。

世間を騒がすイシューからプライベートの話題まで、LiLiCoさんがホンネで語り尽くす本連載。今回のテーマは、LiLiCoさんが50代の今だから語れる「家族」です。

生前の母とは不仲だったLiLiCoさんは、「近年、母親に対する見方が変わってきた」と言います。当時、日本人の母がスウェーデンで経験した差別や大変さも理解できるようになったそう。新年を迎えた今、LiLiCoさんが“家族”について語りました。

26歳でスウェーデンに渡った日本人の母

Yuko Kawashima

私の母は、1960年代に26歳でバックパッカーとして日本からヨーロッパに渡り、スウェーデンで出会った私の父と結婚しました。28歳で私を、37歳で弟を産み、その後すぐに父と別居。仕事をしながら私と弟を女手一つで育て、69歳のときに病気で亡くなりました。

母は、日本で「いい学校を出て、いい会社に就職した人」で、機械設計士をしていました。ただ当時は、どんなに能力があっても女性というだけでお茶くみなどの雑務もしなければならず、それが悩みで日本を離れたと話していました。

聞いた話では、母はある会社の跡継ぎと結婚するつもりだったのに、祖母に「うちの娘は社長夫人にはなれない」と反対されて別れることになったそうです。もしかしたら、これも母が日本を離れた一因だったのかもしれません。

どちらにしても、母は「自分は日本の社会には合わない、フィットしたくない」という気持ちがあって、新しい環境に飛び込んだのでしょう。

Yuko Kawashima

人口が約1000万人しかいないスウェーデンは、職も住まいも少なく、今でも移民が仕事を得るのは困難です。しかし、母は外国人という立場ながら、現地のIBMやアルファ・ラバルなどの世界的な企業に入り、機械設計士として働いていました。専門職の部署は男性ばかりで、母は唯一の女性だったそうです。

飛行機と飛行機牽引車の接続部分を設計したり、有名な車のエンジンを設計したりしていたので、やりがいはあったのかもしれません。

家に仕事を持ち帰ることも多く、私は仕事中の母の横顔を見ているのが好きでした。唇を引っ張ったり、鼻息を立てたりしながら、集中して考え込んでいた顔が今でも頭に浮かびます。

ただ、母が口にするのは文句ばかり。外国人の女性だったから、給与がスウェーデン人男性の半額だったのです。「他の人が2週間かかる仕事を私は1日でできるのに、外国人だから給与が半分」などとよく話していました。

取られないように靴下にお金を入れて外出していた母

Yuko Kawashima

1970年代のスウェーデンでは、アジア系移民は数が少ない上に見た目にも目立つため、人種差別の対象になっていました。

普段、外出するときは、靴下の中にお金を入れていました。実際に、「カバン出せよ」と囲まれて、「ほら、りんごしか入ってないでしょ!」と難を逃れたことが何度もあったそうです。

他にも、母は「外国人だとわかったら誰かが襲いにくるかもしれない」と、国民全員の名前や住所などが記された電話帳に、名前を「Hisayo」ではなく「H」と登録していました。

美容院では、「あなたの髪を切った日の夜、足が痛いなと思ったら、あなたの髪の毛が引っかかってた。アジア人の髪の毛って硬いよね」と言われたこともありました。

母は、きっと日常的に「私はこの国の人じゃないんだな」と感じて生活していたはず。

実は私も同じなんです。ネットショッピングをしようとすれば、本名が日本のフォーマットには長すぎてエラーが出て買い物ができない。電話でレストランの予約をするにも、スウェーデン語の本名は日本人には聞き取りづらくめったに正しく伝わらない。

10月の選挙の時期には、「選挙へ行こう」という呼び掛けのコマーシャルに声をかけていただいたけれど、日本で選挙権がない私は断らざるを得ませんでした。

今のスウェーデンには約200万人の移民が住んでおり、日本に強い関心を持っている人も多いです。母がスウェーデンに渡ったのが現代だったら、もっと能力を発揮できて生きやすかっただろう、と想像してしまうのです。

晩年、心のバランスを崩していった母

Yuko Kawashima

人種差別や仕事での不遇な扱いだけでなく、母は子育てでも苦労しました。私の弟が「3歳までしか生きられない」と言われたほどの重いぜんそくとアレルギーを持っていたからです。

母は、仕事や生活に大きな困難や不満を抱えていたのでしょう。日常的にイライラしていて、私も何かにつけて「こんなバカな子を産んだ覚えはない」「なんでこんなこともできないの?」と激怒され、私はいつも母に気を遣っていました。小学校の頃は、授業が終われば飛んで帰って弟の面倒を見ていたことを思い出します。

私が18歳で日本に来てからは、電話や手紙、メールで、スウェーデンに暮らす母とやりとりをしていましたが、母は満たされないままだったようです。

健康ランドのステージを回っていた下積み時代は、母からメールが入るたびに気が滅入りました。仕事ではお客さんから「声が低すぎる」「口が大きすぎる」とケチをつけられ、仕事が終わったら今度は母の愚痴を聞くのか、と……。

さらにスウェーデンで一人暮らしをしていた晩年、母は精神を病み、「死にたい」とメールを送ってきたり、自殺未遂を繰り返したりしていました。

心を病んでいく母を見ているのは、お金や家がないことよりもずっとつらかった。母が自ら命を絶ったのではなく病気で亡くなったのは、家族にとってもちろん悲しいけれど、まだ気持ちが救われました。

道で知らない人からジロジロ見られた小さい頃の記憶

Yuko Kawashima

一人暮らしをするようになってからも、母は「40歳以上の人に仕事がないから」と、日本に帰国することを拒み続けました。

ただ、母の心はずっと日本にあったのかもしれません。あれだけ語学ができた母の本棚に並んでいたのは、すべて日本語の本だったから。

だから、私が18歳のときに単身で日本に渡ったとき、母は複雑な思いだったんじゃないかな。

もともと、私自身は日本にあまりいいイメージを持っていなかったんですよ。

日本といえば、5年に1回、母に連れてこられる国。わからない言葉を話す祖母がいて、外を歩けば、知らない人に怒られたり、変な目でジロジロ見られたり……。当時はハーフの顔立ちが珍しく、目立ったのでしょう。

そんな私が、それでも日本のテレビに心惹かれ、アイドルに憧れて来日したのは、不思議な縁に導かれた運命的なものを感じます。

私の中の「母」をコンプリートしたい

Yuko Kawashima

本当なら、私だって「お母さんと仲が良かった」と人に話したかった。でも、家族も人間同士だから理解し合えないこともあります。仲の悪い家族とは、無理やり仲良くなろうとしなくてもいいと思うんですよ。

一方で50代になった私は、母のことをもっと理解したかったという気持ちになっています。

一度、「あなたは『お母さんは厳しかった』と言うけれど、それはおばあちゃんがお母さんに厳しかったせいかもしれない」と言われて、驚いたことがあります。私にとって母は母、祖母は祖母だけど、母は祖母の娘で、二人には私の知らない関係があるんですよね。

それは、離婚した母と父の関係でも同じ。母の葬儀の後、再会した父から母との初デートの話を聞いたら、まったく知らないエピソードを教えてくれました。ほかにも、「お母さんは酔うとテーブルの上で踊ってたよ」と聞いて、「私と同じじゃん!」とうれしくなったり。

これまでは、母からしか家族の話を聞いてこなかったので、今度は父の側から見た母のこと、父のこと、夫婦のことを知りたいですね。そして、私の中に存在する「母」「父」を捉え直して、私の家族像をコンプリートさせていきたいんです。

Yuko Kawashima

(取材・文:有馬ゆえ 写真:川しまゆうこ 編集:笹川かおり

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