濱口竜介監督が考える映画製作の極意。作家性か商業性か「自分も大衆の1人という意味では、欲望は創作のベース」

考察が広がる濱口竜介監督の新作『悪は存在しない』。自然との共生のバランスを見出そうとする本作だが、映画製作における作家性と商業性のバランスについてはどうか。濱口監督に聞いた。【インタビュー・後編】
濱口竜介監督
濱口竜介監督

映画『ドライブ・マイ・カー』(2021年)で世界を席巻した濱口竜介監督の最新作『悪は存在しない』が公開中だ。

自然豊かな長野県の架空の町、水挽町で娘の花と2人で暮らす巧。ある日、東京の芸能事務所がコロナ禍の補助金を目的にこの町にグランピング場を作る計画を立て、説明会を開催するが、ずさんな計画に町民の動揺が広がる…。

本作は自然を見つめる作品だが、人間だけが一方的に自然を破壊しているのだという立場には立っていない。環境破壊に警鐘を鳴らすというよりは、身近な生活の問題として捉え、自然と人の共生関係のあり方を見出そうとする。

「人間の身体こそ一番身近な自然。だから、それについて考えることは大袈裟なことじゃない。自分の問題として普通に考えるべきこと」と話す濱口監督に、自然との共生のバランス、さらには、映画製作における作家性と商業性のバランスについて聞いた。

なぜ「バランスが大事」なのか

新作『悪は存在しない』を撮ったことで「環境問題に関心があるのか?」と聞かれることが多かったという濱口監督。撮影を通して「環境問題は身近な暮らしの問題」だと分かったが、その生活における行動の一つひとつが自然を破壊しているのは間違いないことで、都市部に暮らしているとそれが見えないだけだと言う。

「資本主義って特に都市生活と相性が良い。資源の採取や廃棄物の処理などを地方や、もしくは、よりイノベーションが進んでいるであろう未来の世代などの『外部』に任せてしまうことで、少なくとも『今ここ(都市)』は問題ないと思わせ続けるシステムなわけですよね。

でも、その間に『今ここ』以外の場所は荒廃していって、やがてそれは都市生活そのものを危機に近づけます。『今ここ』の範囲は段階的に狭くなっていく。

そういうことに対してある程度自覚的になって、日々の振る舞いを選んでいく必要はあるだろうと思います」

自然豊かな町で娘の花と暮らす主人公の巧。代々、この町に暮らす彼は、「自分たちの祖先もかつてはここに移住者としてやってきて、畑を開墾するなど自然を破壊してきた」と語る。

自然と共生する巧のような人間には自明のことだが、都会の人間にはそれが不可視化されてしまう。コロナ禍の補助金目的でグランピング場の建設を進めようと東京からやってきた芸能プロダクションの社員らが、次第に自然の暮らしに「感化」されていく様子も描かれる。

「やりすぎたらバランスが壊れる」と、巧は言う。「バランスが大事」なのは当たり前だが、そういう当たり前のことを本作は大事にしているといえるかもしれない。

「バランスは大事ですよね。実際、住民の方々も、当然のことを言っているだけだと思うんです。

でもその当然のことがなぜ難しいのかというと、人間は2つのことをなかなか同時にはできないからです。

1つの目的のために逆の性格を持った2つの作業を同時に遂行しなければならないことは、実はよくあることで、どうやって両立させようかと悩むけれど、2つの作業を同時にすることはできないし、交互にやれば時間がかかって、物事は進んでいないように見えてしまう。

バランスのとり方については、誰もが悩みつつ、誰かがバランスをとってくれるだろうと自分のできることを懸命にやって、物事をどんどん推し進めてしまう。だけど、社会全体が一方向の活動ばかりを促すとき、結果としてバランスは壊れていくんじゃないかと思います」

面白いことっていうのは簡単なものではない

『悪は存在しない』
『悪は存在しない』
© 2023 NEOPA / FICTIVE

バランスが重要、というのは映画製作においても言えることだろう。

映画製作には大金がかかり、ある程度の商業性を考慮しながら作らねばならない宿命を帯びている。作家性と商業性の「バランス」について濱口監督はどう考えているのだろうか。

「映画は確かにその2つのバランスのとり方が難しく、それが特有の形を作っているわけです。

まずカメラや録音機という機械があり、それを取り扱うにはある程度の専門知識と技術が必要になります。それだけでなく、フィクションとして成立させるためには、美術や照明、衣装などの専門分野の人材を集めていかないといけません。

そうした人材を育成する、つまりそれだけ多くの人たちが専門的な知識や技能を習得する期間ずっと、定期的な収入が得られるようにと考えると、どうやってそれだけのお金を集めるかを考える必要があり、映画は産業化されることになります。

そこで映画は採算を取る方法として、美術品のように1人にできるだけ高値で売るのではなく、安いチケットを多くの人に買ってもらう見世物興行のシステムのほうを、より確実なものとして採用したわけです。

採算を取るにはできるだけ多くの人に見てもらわなくてはならない。そのためには作る前から、そもそも多くの人の興味関心に当て込んで、作らざるを得ない。これは映画産業の宿命だと思います。

ただ他者の欲望だけを気にして、自分の指針にそぐわないものを作り続けると、段々と関わっていく人の精神は荒廃していくものだと思います。もしそれが十分な休養・回復を伴わないものになれば、尚更です。

ここでバランスを成り立たせるのはすごく難しい。

ただ、1つ言えるのは世の中の面白いことっていうのは簡単なものではない、ということです。難しいことは面白いことでもあります。ある程度、他者の欲望を当てにしないと生き残れない芸術であることが強調されるメディアが映画なんですけど、それと『自分が作りたいもの』のバランスをどう取るかが面白い部分でもあると思ってやっています」

濱口監督は商業性と自身の描きたいもののバランスを取る作業を、今のところは楽しめているという。

「今のところはそういう状態を楽しんでいます。自分自身もよくいる大衆の1人でもありますし、そういう意味では自分の欲望は創作のベースになっていますね。自分自身の身体的感覚をしっかりと見つめて、そこからスタートすれば、(世間と)ズレすぎることはないんじゃないかと思っています。

あとは映画というものの特性を理解して、そのバランスが損なわれることのないように物事を進めていくのがよいだろう、とひとまずは考えています」

(取材・文:杉本穂高 編集:毛谷村真木/ハフポスト日本版)

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