この日、東京都心の最低気温は氷点下を記録した。2月の終わりに冬日になるのは、3年ぶりだという。
冷たい風が、容赦なく頬を突き刺す。吐く息は白く、指先の感覚は次第に薄れていった。
私はうつむきながら、高級住宅街の中を歩いていた。足が鉛のように重い。目的地に近づくにつれ、心臓の鼓動が早くなっていった。
「また怖い話を聞かされるのだろうか」
顔を上げると、視界の先に少し年季の入った建物が見えた。
「カウンセリングオフィス」。PTSD(心的外傷後ストレス障害)、うつ病、パニック障害など、心に傷を抱える人たちが通う場所だ。
私も、幼い頃に受けたトラウマを克服するため、2024年12月から通い始めていた。今日が5回目の訪問となる。
玄関前で足を止め、冷たい空気を吸い込んでから、ふうっと長く吐き出す。呼吸を整え、チャイムを押すと、公認心理師の男性が出てきた。
「今日もよろしくお願いします」。室内からの生ぬるい空気が外へと流れ出た。
個室の部屋に入り、コの字型の机の前に腰を下ろす。リラックスできるように、照明は少しだけ抑えられている。
「調子はどうですか?」
公認心理師が穏やかな声で問いかける。私は膝の上に手を置き、できるだけ明るい表情をつくって話した。
「昨日、誕生日だったんです。ひとりで過ごしたので寂しい気持ちもあったんですが、行ってみたかったケーキ屋さんに行って、前向きに過ごそうと自分なりに工夫しました」
しばらくは穏やかな会話が続いた。しかし、不祥事を起こした芸能人や“メディア界のドン”の訃報の話に移ると、場の空気がわずかに変わった。
「世の中って本当にねえ」
その言葉を合図にしたかのように、公認心理師の“別の話”が始まった。
《能登は人工地震だった。珠洲市がスマートシティだったから狙われた》
《NHKはDSからお金をもらっている》
《三浦春馬と竹内結子はアドレノクロムを知って殺された》
◇
トラウマ克服のため通っていた都内のカウンセリングオフィスで、公認心理師から陰謀論を聞かされたという女性に取材しました。
「誰でも巻き込まれる可能性がある」。そう語る女性の証言や記録をもとに、シリーズ「私が巻き込まれた陰謀論」を全5回でお届けします。

まただ。
DSは「闇の政府」の略。裏で世界を操っているらしい。「アドレノクロム」は子どもから抽出した若返り薬。セレブが密かに使用しているという。
繰り返し聞かされるうちに、彼が使う言葉の意味を覚えてしまった。
《習近平は神奈川で軍事兵器を発注し始めた》
《ビル・ゲイツは人口を減らすためにワクチンを作っている》
《眼帯をしている芸能人はアドレノクロムをやっていると思っていい》
カウンセリングは60分で1万1000円。しかし、大半はこうした話で終わってしまう。
《安倍元総理は薬を盛られて潰瘍性大腸炎になった》
《田中角栄はDSによってはめられた》
《悪魔信仰では子どもの左耳をくり抜いて注射器で刺す》
私が口を開く間もなく、ただ時間だけが過ぎていく。
「もう通うのはやめようか……」。そんな思いもあったが、なかなか行動に移すことはできなかった。
不思議とこのカウンセリングオフィスの評判は良かった。予約が殺到しており、私もここに通えるようになるまで半年ほど待った。
「科学的な心理療法」を掲げ、公認心理師の経歴も華やか。外部での講演や執筆活動も多数行っているようだった。
今さら別のカウンセリングオフィスを探しても、どこも予約でいっぱいだ。数カ月待ちは当たり前の世界。それに、また一から自分の生育歴やトラウマについて話さなければならないーー。
そんな考えをぐるぐると巡らせているうちに、時計の長い針が1周していた。
今日も長い60分間だった。言いたかったことはたくさんあったが、言葉にすることはやめた。
「安くないお金を払っているし、続けると良くなるのかもしれない」
しかし、帰路につき、友人に相談すると、「クレームを入れた方がいい」と、アドバイスを受けた。
私のことを、本気で心配してくれているようだった。
「怖い話を聞くのは終わりにしたいし、やっぱりクレームを入れよう」
自宅に戻り、パソコンを開いた。そして、冷たい指先でキーボードをたたき、文章を打ち込んでいった。(取材・文:相本啓太)
【第2回は11月11日午前6時30分配信予定】
