国連海洋法条約に基づくオランダ・ハーグの仲裁裁判所が7月12日、フィリピンが中国を相手に訴えた案件について、中国が南シナ海の島々に対する領有権を主張する根拠としてきた「9段線」は、国際法上の根拠がないと認定した。
南シナ海で領有権紛争が起きている南沙諸島(スプラトリー諸島)の島々についても、「島」ではなく「岩」、あるいは「低潮高地(暗礁)」として、領海あるいは排他的経済水域(EEZ)を形成できないとの考えを示した。内容からすれば、中国の全面敗訴という形となり、予想以上に中国にとって厳しい結果となった。
「常識」を無視する中国
中国がこの裁決を無視する態度に出ることは、事前の「宣伝」が効いていて国際社会でも織り込み済みの感があるが、今後、中国はすでに実効支配している島々に対して、より大きな軍事的プレゼンスの誇示や、漁港・観光面での人や物資の送り込みなど、さらなる実効支配の強化をアピールする行動を起こすだろう。中国内では一部識者から南シナ海での防空識別圏の設定も取りざたされている。
その意味で、短期的にこの海域での緊張は高まるかもしれないが、国際社会における中国の立場は当然苦しいものとなる。特にASEAN(東南アジア諸国連合)内の国々との関係において、中国とこの問題をめぐって対立していたフィリピンやベトナムは別として、その他おおむね中立的か距離を置く態度を取っていたシンガポール、タイ、インドネシアあたりの国が、この裁決をきっかけに中国に厳しい立場を取る可能性がある。なぜなら、最低限の国際規範の遵守という点が、それぞれ異なる利害を抱えながら結束してきたASEANの「つなぎ目」になっているからだ。
今回の仲裁裁判所とは違う国際司法裁判所の案件ではあるが、かつてシンガポールとマレーシアが領有権争いを行ってきたマラッカ海峡のペドラ・ブランカ島について、2008年の判決でシンガポールの勝利となり、両国ともその判決に全面的に従ったケースがあった。
国際規範の遵守という「常識」を一切無視するかのような中国の態度は、対ASEAN関係で中長期的に不利な影響を及ぼすことは免れない。要するに、中国は信頼できるパートナーではないと見なされるのである。
台湾の戦略
一方、この裁決は、半ば当事者とも言える台湾に大きなショックを与えた。以前から筆者がフォーサイトで指摘してきたように、中国が主張する「9段線」のオリジナルは、いまの台湾の政治体制である中華民国が、第2次世界大戦後の1945年から大陸を喪失する1949年までの間に、現地への軍艦の派遣、実効支配化、国際社会への領有の説明などを通してその法的論拠を固めた「11段線」である(2015年6月4日「『南沙諸島』の領有権を中国が主張する理由」など参照)。
中国はその中華民国の継承政権として、その主張を引き継いでいるに過ぎない。現在の台湾でも11段線の主張は捨てておらず、南シナ海では、南沙諸島最大の太平島や東沙諸島を実効支配下に置いている。
今回の裁決に対し、台湾側も「口頭弁論にも呼ばれていない我々に対して法的拘束力はなく、また、絶対に受け入れられない」と強く反発し、すでに13日、台湾海軍のフリゲート艦を太平島近海に派遣した。実際のところ、台湾の蔡英文政権の内部では「9段線」の否定までは事前に想定しており、台湾は国連加盟国ではないので国連海洋法条約を批准もしていないが、ハーグの仲裁裁判所が指摘するように、現代の国連海洋法条約の世界秩序においては「9段線」の主張は説得力を持たないという現実認識はあった。
そのため、判決で否定された場合は、将来の「11段線」に固執した馬英九前政権の路線修正を視野に入れて台湾内の合意形成を図ることも議論していた。そこでは「9段線」の否定は領有権の否定にまではつながらないというロジックを取り、国際社会との協調を目指しつつ、実効支配下に置く太平島などの現状維持は譲らない、という戦略を目指すことが検討されていたようだ。
しかし、今回の裁決では、当事国であるフィリピンと中国が争っているスカボロー礁やジョンソン礁などについてだけでなく、太平島まで「島」ではなく「岩」だとされてしまった。これに対しては、台湾側にも妥協の余地はなく、裁決そのものを否定する方向で反発を示すしかなくなった形である。
日本の沖ノ鳥島は......
今回の裁決が、大局的には中国封じ込めに大きな意義を持つことは言うまでもない。ただ一方で、「米国、日本、台湾、フィリピン、ベトナム」という第1列島線の関係国であり、かつ、東シナ海・南シナ海の領土・領海問題で中国と対立・利害関係を抱える国々の共同戦線から台湾が抜け落ち、中国と結びつく理論的余地を残すことになったことは、今後注目すべきポイントになるだろう。
また、筆者は判決文原文を詳細に読んでいないので「島」否定の論拠を十分に検討できたとは言えないが、常識的に考えても、日本の占領時代から長く軍事施設が置かれ、人間が生活し、植物もそれなりに広がり、わき水もある太平島が「島」でなく「岩」であるならば、日本の沖ノ鳥島はどう考えても島ではない、という自然の論理的帰結が導かれる。
少なくとも、「中国は今回の裁決に従うべきだ」と語った日本政府の言質を取って、「ならば日本の沖ノ鳥島はどうなのか」と突っ込んでくるだろう。蔡英文政権になって緊張状態が一時的に収束した沖ノ鳥島問題において、いったんは軟化した台湾の態度が今後再び硬化することも十分に予想される。
野嶋剛
1968年生まれ。ジャーナリスト。上智大学新聞学科卒。大学在学中に香港中文大学に留学。92年朝日新聞社入社後、佐賀支局、中国・アモイ大学留学、西部社会部を経て、シンガポール支局長や台北支局長として中国や台湾、アジア関連の報道に携わる。著書に「イラク戦争従軍記」(朝日新聞社)、「ふたつの故宮博物院」(新潮選書)、「謎の名画・清明上河図」(勉誠出版)、「銀輪の巨人ジャイアント」(東洋経済新報社)、「ラスト・バタリオン 蒋介石と日本軍人たち」(講談社)、「認識・TAIWAN・電影 映画で知る台湾」(明石書店)、訳書に「チャイニーズ・ライフ」(明石書店)。
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(2016年7月13日フォーサイトより転載)