10月は大国間の大きな「戦略的」動きがくっきりと見えた月だった。
日米など12カ国による環太平洋経済連携協定(TPP)が、5年半に及んだ難交渉の末まとまった。と、思いきや、中英が7兆円超という経済協力で合意した。中国は英国で原発を建設、国外で初の人民元建て国債発行をロンドンで始める。「一帯一路」と呼ばれる中国の新シルクロード構想と密接につながる動きだ。
TPPが日米を軸とする経済大戦略なら、「一帯一路」は欧州とつながろうとする中国の大戦略だ。
その中国の南シナ海での強引な海洋進出に対し、アメリカが「待った」をかけた。中国が人工島をつくり、12カイリの「領海」を主張する海域に、イージス駆逐艦を送り込み航行させた。中国の有無を言わせぬ海洋進出に抗議はすれども、なす術もなかった近隣諸国は快哉を叫び、溜飲を下げたが、さて、このあとアメリカはどう進むのか......。
中国に対しては押しに出たアメリカだが、目を西に転じれば、中東ではロシアに追い込まれている。泥沼化したシリア内戦はロシアが軍事介入したことで新たな局面に入り、ロシア主導で周辺各国を巻き込んだ和平への動きが活発化している。アメリカの中東での統率力がかすんでいる。
中ロを向こうにするアメリカのグローバル覇権の現状をコンパクトにまとめたのが、英誌『エコノミスト』10月17日号の巻頭論説「新たなゲーム」だ。【The new game, The Economist, Oct.10】
シリアと南シナ海で起きていることは、「(冷戦を終結させた)ソ連の崩壊以来、もっとも重要な大国関係における変化」だと、エコノミスト誌は位置づける。南シナ海ではアメリカが、シリアではロシアが王手をかけたように見えるが、行く手はまだ濃い霧の中だ。同誌の判断はちょっと早計にも思えるが、「アメリカの優位が揺らぎ」、中ロが外へ打って出てきてアメリカと「せめぎ合う世界に、まだ米外交が適応できていない」のは事実だ。比類のない軍事力を持ち、同盟関係を世界に張り巡らせながら、利権政治と予算強制削減が指導力の足を引っ張っているアメリカに、エコノミスト誌は苦言を呈する。
「海軍力」拡大競争への危惧
同誌は同じ号でアジアにおける海軍力の現状を特集している。【Who rules the waves?, ibid】
中国海軍はいまや300隻の艦船を持つ。それに対するに、日本・インドネシア・マレーシア・フィリピン・ベトナム5カ国併せても200隻ほどだ。世界で5番目の海軍と評価される日本の海上自衛隊を除けば、他の国の艦船は老朽化したものが多い。中国と他の諸国の差は開く一方だ。
ただ、中国に対抗する側にはアメリカが付いており、続々と新鋭艦をアジア太平洋に投入している。米海軍のレベルに追いつくには30年かかると中国側は見ている。さらに中国に対抗するインドのモディ首相は、2027年までに3つの空母機動部隊に原潜も含め、海軍を200隻規模に拡大する計画を打ち出している。
海軍力で2番手につくと壊滅的誤算をしかねないと、同誌は20世紀の歴史から説く。ドイツの海軍力は20世紀はじめに英海軍に迫ったが、第1次世界大戦で結局、英の海上封鎖を破れず敗退。日本は真珠湾攻撃から半年でミッドウェーでの決定的敗北を見た。シーパワーの競争は「ついには戦争に行きつくことが多い」。同誌は『海上権力史論』の著者マハン提督の言葉を引いて自重と警戒を促す。
「残忍で、腐敗した共産党独裁者」
かつて強大な海軍力で世界の海を支配したのは英国だ。その英国がついに中国の経済力の前に卑屈にも叩頭(こうとう)か――。そう世界に印象づけたのが習近平の英国公式訪問と、そこで発表された大型経済協力だ。
「中国の独裁者らに叩頭するのは道義的に誤っているし、経済的にも合理性はない」。キャメロン首相の側近だったスティーブ・ヒルトンは英紙『ガーディアン』への寄稿で、中英「蜜月」を徹底的にこき下ろす。【Kowtowing to China's despots is morally wrong and makes no economic sense, The Guardian, Oct.18】
ヒルトンは言う。中国は偉大な国であり、関わりを持つべきだ。しかし、ひとつ困った点がある。「残忍で、腐敗した共産党独裁者らが国を治めていることだ」。反体制派に言論の自由を認めず牢にぶち込む。女性に不妊手術や中絶を強制する。腐敗は欧米の比ではない。そんな国にカネ儲け目当てで押し掛けるのはいかがなものか。本来なら、経済制裁を科すべきだ。表立って中国の人権問題を非難するのは賢明でないという人もいるが、有罪となった殺人者に公然と殺人の非道を説くのは賢明でないとでも言うのか......。
『ニューヨーク・タイムズ』紙と並び立つ英米のリベラル派新聞が掲げた、このオピニオンは激越である。さらに結論で言う。「カネか道義か、などという話ではない。中国の(独裁)体制に立ち向かってこそはじめて、良識が保てる」。商売の相手を変えなければ、安全保障にもリスクがある、と。
日本ではリベラルは対中穏健、右派は対中強硬となるが、英米ではそう単純ではない。そこはしっかりと押えておくべきだ。
「狭い経済的利益」を優先する英国
もちろん、英国内でも今回の習近平訪英の評価は割れている。保守系とされる『デイリー・テレグラフ』紙は、中国の勢力拡張で地政学的な懸念は広がっており、サイバー攻撃も問題だが、そうした問題は「友好と協力を通じてこそ」対処できる、と主張する(日本ではこの手の主張は左派である)。【It should be 'win-win' for China and Britain, The Daily Telegraph, Oct.21】
しかし、英国にとって最も重要な同盟国であるアメリカの代表紙『ワシントン・ポスト』でさえ社説で、習近平は「政治的批判と人権の主張に対し、ここ何十年来見なかったような激しい弾圧を加えているのに、中英首脳の共同声明には人権に一言も触れておらず、それどころか中英関係の『黄金時代』をうたい上げている」と落胆を隠さない。英国を貿易と投資で中国の上得意にしようと狙うキャメロン首相は、民主主義の価値観など忘れ、カネに目が眩んでいるだけだと手厳しい。【David Cameron sells out, The Washington Post, Oct. 23】
中国のカネに目が眩んだ英国に、世界から侮蔑の目が向けられている中で、米外交専門誌『フォーリン・アフェアーズ』最新号がタイミング良く「縮む英国」(Littler England)という論文を掲載した。論文タイトルは、19世紀、英国の領土拡張に反対した小イングランド主義(リトル・イングランド)をもじったものだが、内容は論文副題が示すように、グローバルな指導力を捨てて撤退する英国に批判の目を向けたものだ。【Littler England, Foreign Affairs, Nov./Dec.】
論文著者であるロンドン大学キングズカレッジの教授は、今回の習近平訪英の結果を見透かしたかのように「英国は国際安全保障を広く見渡して考慮することをせず、狭い経済的利益を優先している」と批判している。
背景には、伝統ある英外務省の予算がこの5年で2割削減され、さらに今後25~40%の削減を予告されたり、英陸軍が2010年の10万2000人体制から8万2000人体制へと縮小されたり、財政面で国際舞台から退かざるを得なくなっている状況があるという。
著者は、英国が中国に媚を売るばかりか、ロシアのプーチン大統領一派のロンドンでの投資も歓迎している状態を批判する。TPPと並んでアメリカが重視する環大西洋貿易投資連携協定(TTIP)の意味は、通商上の利益というよりは、中ロの政治的挑戦を受けるなかで米欧連帯を強めることにあると指摘し、そんな大事な時に欧州連合(EU)離脱などと騒いでいる英国は、大きな世界情勢から目を背け、繁栄追求の名の下で「地政学原理」を犠牲にしていると、やはり徹底的なこき下ろしである。
中国囲い込みの「悪魔の取り決め」
環大西洋のTTIPと並んで対中ロで重要な役割を持つTPPの意味を、比較的しっかりと書いていたのはシンガポールの代表紙『ストレーツ・タイムズ』が掲載したスイスの国際経営研究所(IMD)名誉教授ジャンピエール・レーマンのオピニオンだ。【TPP: The path to global fragmentation, The Straits Times, Oct.13】
レーマンは言う。TPPは実質的には日米協定であり、アメリカのアジア重視策の柱となって、中国のアジアインフラ投資銀行(AIIB)に対抗するようにも見受けられる。あまりにも中国に対し挑戦的だ。また東南アジア諸国連合(ASEAN)の視点から見れば、加盟国10カ国のうち4カ国だけがTPPに入っている状態で、米中対立がASEANの連帯に及ぼす影響にも懸念を示す。レーマンの立場は、通商を政治の道具にしてはならず、幅広く中国も加えて21世紀の通商を論議していくべきだというものだ。
一見常識的意見だが、従前示した英国のヒルトンのような「その前に中国の政治的現実にしっかりと目を向けよ」という議論が対置されていることは、忘れないようにしたい。
その中国内部でも、TPPについては議論が分かれているだろうことは、想像に難くない。香港紙『サウスチャイナ・モーニング・ポスト』が同紙編集委員のオピニオン「行き詰まった改革の活性化にTPPが必要だ」は、中国の改革派の意見の反映と見ることが可能だ。【China needs the TPP to jump-start stalling reforms, South China Morning Post, Oct. 20】
オピニオンは言う。懐疑派から見れば、TPPは中国囲い込みの「悪魔の取り決め」だろうが、悪魔を天使に変えることも可能だ。中国国内の改革派官僚やリベラル派学者が言うように、中国はTPP加盟の方向に向かうことで、環境保護・投資・労働基準などで改革を前進させ、国有企業の「アンフェアな優位性」を抑え込むこともできる。中国が今後も成長を続けるためには、「国家資本主義制度」の抜本的な改革が必要だ......。
1990年代末に朱鎔基首相(当時)が世界貿易機関(WTO)加盟交渉を通じて大胆な国内改革を成し遂げ、その後の大成長を導いたように、習近平・李克強に「歴史をつくる」用意はあるか、とオピニオンは結ぶ。
中東からの「創造的撤退」
こうした意見の改革派が、中国内でどれだけ力を持っているかは不明だ。中国をこの方向に進ませるのが、アメリカの狙いだが、そうなった場合、中国はどれだけ政治的に変われるのか。これも未知である。
しかし、その主導者のアメリカで、大統領選前の不安定な政治状況のため、候補者らがTPPと距離と置こうとしているのは、いただけない。特に民主党最有力候補であるヒラリー・クリントン前国務長官が、かつて強く支持を表明していたTPPに対し反対に回ったのは「あまりに政治的なのが見え見えだ」(ワシントン・ポスト紙社説)。【So Much for Principle, The Washington Post, Oct.9】
ただ、クリントンの反対には留保が付いている。「いま聞いているところでは......」という留保だ。大統領に当選すれば、うまく言い訳をして、また意見を変えるかもしれない。 「斜に構えた言い方になるが、それが希望だ」と同紙社説は結ぶ。
アメリカは英国を批判できない。アメリカにも、もはや世界中の問題に関与し続ける余裕がないことは、『フォーリン・アフェアーズ』最新号の巻頭論文「パックス・アメリカーナの終焉」でも、よく分かる。【The End of Pax Americana, Foreign Affairs, Nov./Dec.】
オバマ政権の国家安全保障会議で中東上級部長を務めたスティーブン・サイモンら2人によるこの論文は、アジアに米戦略の重点がシフトする中で、パレスチナ和平など実現しそうもない問題への深入りは避け、アメリカは中東から「創造的撤退」をするように求めている。政府を離れた元高官らの意見だが、政権の雰囲気を示すものと見ていいだろう。
本稿冒頭に描いたような、TPP・南シナ海で対中国政策に力を入れる一方で、シリアではロシアに追い込まれるアメリカの昨今の姿は、そうした雰囲気の帰結だと言える。
会田弘継
ジャーナリスト。1951年生れ。東京外国語大学英米科卒。著書に本誌連載をまとめた『追跡・アメリカの思想家たち』(新潮選書)、『戦争を始めるのは誰か』(講談社現代新書)、訳書にフランシス・フクヤマ『アメリカの終わり』(講談社)などがある。
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(2015年11月6日フォーサイトより転載)