前回筆者は、安倍晋三首相が提唱する「9条加憲」、つまり現行9条はいじらず、第3項として自衛隊の存在を明記する、という案について、一定の評価をしたうえで、これはファーストステップに過ぎない、さらなる国民的議論が必要だ、と述べた。それは国際法の観点からの議論だ。
戦争に関連する国際法は、「ユス・アド・ベルム(jus ad bellum)」と「ユス・イン・ベロ(jus in bello)」の2種類があるが、今回は前者について議論してみたい。
「武力行使」のシステムを担う「国連憲章」
武力行使を開始することの合法性を規定した国際法のことを、「ユス・アド・ベルム(jus ad bellum)=開戦法規」と呼ぶ。
現代の国際法体系では、武力行使の合法性を各国家に無条件に付与してはいない。第2次世界大戦後の現在、「武力行使」が合法とされるのは、国家の自然権としての当然の権利である「自衛権の行使」(国連憲章第51条)と、国連憲章に基づく「集団安全保障体制」による「武力制裁」(国連憲章第42条)の場合、ということだ。
国連安全保障理事会常任理事国を中心に「国連決議」のレベルを上げていき、最後は「武力制裁」をしてでも平和を守る。すべての国はこれに従う義務を負っているのである。ちなみに、国連憲章第42条の条文は以下の通りだ。
「第42条 安全保障理事会は、第41条に定める措置では不充分であろうと認め、又は不充分なことが判明したと認めるときは、国際の平和及び安全の維持又は回復に必要な空軍、海軍又は陸軍の行動をとることができる。この行動は、国際連合加盟国の空軍、海軍又は陸軍による示威、封鎖その他の行動を含むことができる。」
この「集団安全保障体制」による「武力制裁」こそがメインの考えであるため、「自衛権の行使」に対しても、前回説明したように、無条件に認められているものではない。国連憲章には、"国連が集団安全保障措置を取るまでの間だけ認められる"限定的なものと規定されている。つまり現代の「ユス・アド・ベルム」は、国連憲章が担っているのである。
"教科書"通りに進行した「湾岸戦争」
このシステムが機能したもっともわかりやすい例が、1990年のイラクによるクウェート侵攻に対し、翌91年に勃発した湾岸戦争だ。
1990年8月2日、イラクは突然隣国クウェートに侵攻し、8日には併合を発表した。
安保理は侵攻開始の当日、即時無条件撤退を求める決議を採択、さらに8月6日には国連全加盟国に対して、イラクへの全面禁輸の経済制裁を行う決議を採択した。
だがイラクは撤退しようとしない。それどころか、「人間の盾」作戦などで抵抗したため、安保理は11月29日、翌91年1月15日を撤退期限とし、これに従わない場合は武力行使を始めるという、いわゆる対イラク武力行使容認決議を採択したのである。
そして1月17日、すでに編成済みのアメリカ軍を中心とする多国籍軍は、イラクへの爆撃を開始(「砂漠の嵐」作戦)。2月24日に空爆を中止すると、今度は地上軍がイラク領に侵攻し(「砂漠の剣」作戦)、27日にはクウェート市を解放、28日には戦闘が終結したのだった。
イラクの侵略行為に対して、まさに国連憲章通りに、「非難」「経済制裁」そして「武力制裁」と安保理で順次決議され、この決議を実行する組織として多国籍軍が編成され、集団安全保障措置としてイラクに対して武力を行使し、クウェートから排除したのだった。
日本ではこの湾岸戦争を、「アラブの理論を無視した、アメリカによる多国籍軍の戦争」と位置付け、「アメリカ中心とした多国籍軍は国連軍ではない」とする報道もあったが、これは国際社会の常識とはまったく違う。当時の多国籍軍は、安保理決議を「授権」した形で発動されており、いちいち国連軍を作らなくとも、この「武力制裁」は実施されなければならなかったのだ。
先に"国連憲章に基づくシステムは、すべての国が従うべき義務を負う"と説明したが、この時日本は130億ドルを拠出しただけだった。お金しか出さなかった日本が、国際社会からまったく評価されなかったのは、義務を果たさなかった以上当然のことだったのだ。そしてこの「義務を負わない」という姿勢は、基本的には今も変わってはいない。
「域外派遣」を決めたドイツ
一方、日本と同じ敗戦国で、湾岸戦争に人的参加をしなかったドイツは、その後どうしたのか。
敗戦後、軍隊を持たなかった旧西ドイツが再軍備を開始したのは、1955年のことだった。冷戦の激化、特に旧東ドイツが再軍備したことで米英仏の危機感が高まり、ソ連の侵攻に対する西側諸国防衛の主力となることが想定されていた。当然、再軍備の段階で北大西洋条約機構(NATO)に加盟したわけで、ドイツ軍は最初から、NATOの「コモンディフェンス(共同防衛)」に組み込まれ、ソ連の侵攻があった場合はNATO域内の他国に出動させて武力行使を行うことは、当時から合憲とされていた。
つまり、NATO域内においては交戦権を否認していなかったのである(因みに、このNATOや当時のワルシャワ条約機構は、どちらも国連憲章第8章の「地域的取極」に基づき認められた枠組みで、武力制裁する場合は、安保理決議に基づくように規定されている)。
ところが、湾岸戦争の現場はNATOの域内ではないため、ドイツ軍を多国籍軍に派遣することができなかった。そこでドイツではこれ以降、「集団安全保障体制の中で、ドイツ軍はNATOの域外に出動すべきか」について国民的な議論になった。
その結果1994年7月、ドイツ連邦憲法裁判所は画期的な判決を下した。集団安全保障体制の枠組における出動は合憲であること、武装兵力の国外出動の決定には、原則として連邦議会による事前の同意が必要なことなどを示したのである。
この判決をきっかけに、2001年米国同時多発テロ後のアフガニスタン戦争など、ドイツは集団安全保障体制下での、国連決議に基づく武力制裁活動に参加してきた。2005年には海外派遣に関する法律を制定し、解釈だけでなく法的にも大きくその方向を変えたのである。
今のままでは「常任理事国」は無理
ひるがえって再度、日本の現状を見てみよう。
先に述べたように、湾岸戦争は国連憲章第42条に基づく武力制裁だった。これに日本が参加できなかったのは、憲法9条2項後段の、「国の交戦権は、これを認めない」という条文があったからである。
だが湾岸戦争直後から、たとえば小沢一郎氏などは、「日本は現行憲法のままでも、国連憲章第42条の武力行使に参加できる」と主張していた。この場合の武力行使は、あくまで集団安全保障措置であり、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使」(憲法9条1項)にはあたらない、という理屈である。
だが、湾岸戦争から26年を経た今でも、この問題についてドイツのように真剣に議論されたことはない。前回明らかにしたように、有事法制や平和安全法制はあくまで「日本防衛」の形を作り上げたに過ぎず、7章型PKO(国民の保護を第1任務とした国連平和維持活動)だった南スーダンPKOにおける道路などのインフラ整備と「頼まれ警護」、またアフガニスタン戦争時におけるインド洋での給油など、「戦闘行為と一体化しない」後方支援つまりロジスティックサポートという形式でしか、国際社会に参加することができない。その意味で日本は、国際社会における自らの地位について、「失われた26年」を過ごしてきたといえよう。
本来憲法9条を見直すに際し、まず国民的議論をしなければならない最も重要なポイントは、"日本は「集団的安全保障体制」に直接的に参加すべきか否か"である。それは日本が、既にGDP世界第3位の大国として国際社会に大きく影響を与える立場にあるからだ。そのうえで「交戦権の否認」をどうするか考えることである。
「武力制裁決議には賛成だが、武力行使には参加しない」という国家は単なる卑怯者とみなされ、国際社会から信頼を得られることはない。日本以外の大国は、アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国そしてドイツも含め、当たり前のように武力制裁に参加する。「日本を安保理常任理事国にしたい」と考える人たちが多いが、常任理事国として武力制裁決議に票を投じることは、極めて重い責任を伴う。だが現在のような国家の姿勢では、日本は常任理事国になることは到底できないのだ。(つづく)
伊藤俊幸
元海将、金沢工業大学虎ノ門大学院教授、キヤノングローバル戦略研究所客員研究員。1958年生まれ。防衛大学校機械工学科卒業、筑波大学大学院地域研究科修了。潜水艦はやしお艦長、在米国防衛駐在官、第二潜水隊司令、海幕広報室長、海幕情報課長、情報本部情報官、海幕指揮通信情報部長、第二術科学校長、統合幕僚学校長を経て、海上自衛隊呉地方総監を最後に2015年8月退官。
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(2017年8月4日「フォーサイト」より転載)