医者の家族が患者になったとき

「医師にずっとそばにいてほしい――」。 東京大学医学部心臓血管外科の教授だった私は、儚くなりつつある命の妻を看病しながら、ただひたすら願っていました。

「医師にずっとそばにいてほしい――」。 東京大学医学部心臓血管外科の教授だった私は、儚くなりつつある命の妻を看病しながら、ただひたすら願っていました。

東大医学部教授の家族ならば、さぞかし充実した医療が受けられるに違いない。普通の人は当然、そう思われるでしょう。しかし、医療の世界は、そんなに簡単なものではありません。東大医学部教授の家族であれ、ひとりの患者であるという事実は変わりません。特別な治療が受けられるわけではありませんし、ましてや病気が手加減してくれるわけでもないのです。

妻の乳がんがわかったのは、彼女が50歳のとき。早期発見でした。乳頭からの血性の滲出を自ら認め、すぐに近くの病院で診察を受け、早期の乳がんだとの診断がくだされました。乳がんは、早期発見であれば死亡率はきわめて低かった。ひとまず安心したのを覚えています。しかし、そうした数字が落とし穴だったのかもしれません。

早速、乳がんに詳しい友人に相談しました。私は当時、関西の国立循環器病研究センターに勤務していたため、大阪にある病院を紹介してもらい、乳がん手術のベテランの医師が主治医になってくれることになりました。今から17年前、ちょうど乳房温存術(乳房を全摘出することなく、乳頭、乳輪を残し、がんを部分的に切除し、乳房の変形が軽度になるように形を整える手術)が大流行しはじめた時代です。主治医からは、早期なので乳房温存術を勧められ、妻もそれを望みました。女性にとって乳房をとらずにすむのなら、それにこしたことはなかったのでしょう。念のため紹介してくれた友人にも尋ねたのですが、同様に温存術を肯定する回答でした。

不安はありませんでした。主治医から手術が成功した旨を伝えられると、やれやれと重い荷物を降ろしたように気持ちが軽くなったことを覚えています。つづけて放射線治療を行い、経過も順調で、妻の乳がんは完治したものだと信じこんでいました。

ところが、術後5年目に入ったころの定期検診で、局所再発が見つかりました。

最初に妻の乳がんが分かった時には、国立循環器病研究センターの部長でしたが、当時は東大の教授に就任しており、親しい東京の医師に頼んで即刻、手術をしてもらいました。

がんの再発――それでも、私に危機意識はなかったと記憶しています。局所再発であったし、そういうこともあるだろうくらいの心持ちでした。術後、再度、放射線治療を実施、なんとかなったと思っていました。

予想もしない不幸が襲ったのは、その2年後でした。定期検診で、今度は、肝臓と頭蓋骨への遠隔転移が発覚したのです。すべての悪性腫瘍は脳に転移しうるのですが、脳転移はいわゆる全身転移とほぼ同値で、他臓器への転移をともなっている場合が多いと考えられます。 乳がんを発症してから7年。途中で再発したものの、早期発見なのだから治ると信じていたので、このときばかりは頭が混乱し、何が起こったのか理解できないほどのショックを受けました。

いったい、どうしてこんなことになったのか――。 曲がりなりにも医師である自分。その家族が病に倒れたときに行われる医療には、通常の場合よりも多少は慎重さが生じるだろうと思い込んでいた自分の愚かさに呆然とし、涙も出ませんでした。早期といえども、死亡率はゼロではない。誰かを恨む気持ちはありませんでしたが、あのとき温存術ではなく全摘(全部摘出)を選択していたら再発はなかったかもしれないと、後悔する気持ちが抑えがたく湧いてきました。温存術と全摘を比較すれば、全摘のほうが圧倒的に再発率は低くなるのです。

ずっしりと重い後悔を胸に、私は八方手を尽くしました。化学療法の名人と言われる人を頼り、妻を入院させました。最初のうちはよく効いて腫瘍マーカーが下がり、このまま改善してくれるのではないかと思った時期もありました。 腫瘍マーカーの数値を聞くたび、いつも祈るような気持ちでした。主治医の先生から結果を聞く私は、その瞬間、医師ではありませんでした。単なる患者の家族でしかなかった。心臓外科医である私にとってがんは専門外。神様に祈るしかすべを持たなかったのが現実です。

しかし、次第に効き目が弱くなり、腫瘍マーカーの数値はどんどん上がっていく――。そこで、ホルモン療法も試してみましたが、状況は好転しませんでした。

遠隔転移がわかってから、じたばたしながら4年ほどの月日がたったある日。骨盤に転移が見つかり、ついには脳に転移しました。よく、がんでは、5年生存率、10年生存率などの数値が病院から発表されます。その側面から言えば、妻は10年生存率をクリアしたわけです。 しかし、その「10年生存率」という表現に、なんとも言えない違和感を覚えました。

病院が競って出す生存率。その数字のむなしさを感じないではいられませんでした。生を全うして10年生きるのか。それとも、いろいろな治療を受けて、もがきにもがいて、なんとか10年生きるのか。同じ10年でも、それは天と地ほど違う。しかし、病院は、そんなことは関係なしに、成績の良いところは嬉々として、数字としての生存率を公にしているのです。

唯一の救いは、妻が「死ぬのは怖くない」と言ってくれたことです。おそらく、クリスチャンだったから。死に対して不安を見せたことは、一度もありませんでした。それは立派だった。

彼女に引き換え、私は、ヨレヨレでした。心臓血管外科の領域ではそれなりの実績を積み上げ、多くの人の命を助けてきた医師が、自分の妻の早期発見の乳がんをどうにもできなかった――。周囲の人からは「仕方ないよ」と慰められました。けれど口にはしなくても、本心では「どうにかできたのでは?」と多くの医師が思っていたことでしょう。

脳への転移が発覚した時点で、自分が勤務する東大病院への入院を決めました。東大が放射線を得意としているのも理由でしたが、なんといっても朝、回診する前に妻に会いに行けます。全脳照射とガンマナイフ(脳の疾患をピンポイントで治療する放射線治療装置)を行いました。脳に対しては効果があったものの、全身にひろがったがんに対しては思ったような効果は得られませんでした。効果はなかったけれど副作用が強く、辛そうにしていたのが気の毒で見ていられなくなりました。

打つ手がなくなり、ただ死を待つしかなくなったとき、東大病院の主治医から在宅での看取りを勧められました。妻も帰りたがった。ただ、当時、住んでいた官舎にはエレベータがなく、妻が移動するのに難儀だったので、取り急ぎエレベータ付きのマンションを借り、そこに帰宅させました。

在宅医療を始めるにあたっては、医師仲間から在宅医療に関する情報を収集し、知人の在宅専門の医師に主治医をお願いしました。通常は、在宅になると必然的に医療レベルが下がらざるをえないので、1週間から2週間で亡くなってしまう方がけっこういるらしいのですが、妻は1カ月半以上もちました。

この1カ月半に関しては、少しは医師らしいことを彼女にしてあげられたのではないかと思っています。昼間は仕事で不在にしていましたが、夜中は時々目をさましては痛み止め(麻薬)の点滴をこまめにコントロールしました。子供たちも入れ代わり立ち代わり顔を見せてくれ、家族の絆がいっそう深まったように感じました。

その間は、妻とともに生きたという感慨を持っています。たいへん濃密な時間でした。そういう意味で、在宅医療を選択したことは、間違っていなかったと思います。

妻の場合、在宅医療は終末期医療と同値です。しかし、私にその実感はありませんでした。妻は家に帰ると、気分が変わったのか少し元気になって、しばらくはトイレにもひとりで行けるようになりました。良くならなかったとしても、これ以上、悪くならないかもしれない。一縷の望みに賭けたい気持ちがありました。

そして4月に入り、桜の花が満開になり、あっという間に散っていくのと合わせるように妻は逝きました。マンションは、窓から桜の花が見える部分も気に入って借りたので、最後まで妻は桜の花を愛でていたそうです。

淋しくなりましたが、悲しくはありません。まだ、そのへんに妻がいるように感じています。

医師の家族が病気になったとき、それが自分の専門の疾患であれば、最高に近い医療を受けさせることもできるかもしれませんが、専門外であれば普通の患者さんと一緒です。病院で多少の扱いの差はあるかもしれません。しかし、そんな程度のものです。日進月歩で変化する医療に翻弄され、医師に頼るしかなく、見捨てないでほしいとひたすら祈る。医師であった私がそうであったのですから、そうでない一般の方の「見捨てないでほしい」との気持ちは、いかばかりか――想像するに余りあります。

私は、妻の死を通して、「我々医師は患者のそばに立ち続けなければならない」ことを、身をもって学びました。内科医と違って外科医は、手術が終わると、患者さんをご自宅の近くの近隣病院やかかりつけ医のところに紹介します。普通ならば、そこで一旦、手術をした医師と患者さんの関係はなくなります。

しかし、私は、自らの手を離れる患者さんに必ず言っています。 「何かあったら、いつでも来ていいよ」「何かあったら電話してください」。 そういうふうに言わないと、患者さんの中には「見捨てられた」という気持ちになる方もおられるでしょう。私は決して患者さんを見はなさない――。妻の看取りを経て、その思いは確固たるものになりました。(構成・及川佐知枝)

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髙本眞一

1947年兵庫県宝塚市生れ。73年東京大学医学部医学科卒業。78年ハーバード大学医学部、マサチューセッツ総合病院外科研究員、80年埼玉医科大学第1外科講師、87年昭和病院心臓血管外科主任医長、93年国立循環器病センター第2病棟部長、97年東京大学医学部胸部外科教授、98年東京大学大学院医学系研究科臓器病態外科学心臓外科・呼吸器外科教授、2000年東京大学医学部教務委員長兼任(~2005年)、2009年三井記念病院院長。東京大学名誉教授、日本胸部外科学会、日本心臓病学会、アジア心臓血管胸部外科学会各会長。アメリカ胸部外科医会(STS)理事、東京都公安委員を歴任。 手術中に超低温下で体部を灌流した酸素飽和度の高い静脈血を脳へ逆行性に自然循環させることで脳の虚血を防ぐ「髙本式逆行性脳灌流法」を開発、弓部大動脈瘤の手術の成功率を飛躍的に向上させたトップクラスの心臓血管外科医。

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(2014年11月29日フォーサイトより転載)