フランス国民戦線「父娘戦争」(上)「高級」か「カジュアル」か

右翼本来の思想の旗を掲げてコアな部分での影響力を保つか。現実と妥協して大衆の支持を集め、政権への道を目指すか。父が高級路線を、娘がカジュアル路線を目指した。

 昨年の欧州議会選での大躍進、その後の世論調査での好調ぶりと、最近は向かうところ敵無しだったフランスの右翼「国民戦線(FN)」が、思わぬ内紛で立ち往生している。前党首で現名誉党首の父ジャン=マリー・ルペンと、現党首の娘マリーヌ・ルペンとの間の確執だ。きっかけは、反ユダヤととれる父親の発言。これを、党勢拡大の支障になると見なした娘は、父親の征伐に乗りだした。今年12月の地方選で当選が有力視された地域の候補から父親を外し、意気消沈した高齢の父親は入院――。フランスの各メディアが伝えるてん末である。

 父娘2人の態度の背景には、右翼ポピュリズム政党が抱えるジレンマが横たわっている。大衆に迎合することなく、右翼本来の思想の旗を掲げてコアな部分での影響力を保つか。現実と妥協して大衆の支持を集め、政権への道を目指すか。つまり、父が高級路線を、娘がカジュアル路線を目指したどこかの家具会社の「骨肉の争い」と重なる構図なのだ。今回の出来事は、右翼の伝統に固執した「高級路線」の父親が、大衆に訴える「カジュアル路線」の娘に鉄槌を下された、と読み解くことができる。

 フランスの右翼の歴史を振り返りつつ、騒ぎの本質と今後の行方を考えてみた。

「人生最大の愚行」

 そもそもの発端は、1987年9月13日にさかのぼる。国民戦線の党首だった父ジャン=マリー・ルペンはこの日、ラジオなどのインタビューに応じていた。暑い日で、父ルペンは体調が優れなかった。それでも、1週間後に党のイベントを控えており、党首がメディアに登場して参加者を集める必要があった。

 質問者のジャーナリストたちは、第2次世界大戦の話題を振った。父ルペンはいつものように、やや皮肉っぽい表情で持論を展開した。

「私は第2次世界大戦に大いに関心を持っている。いくつもの疑問も抱いている。ガス室がなかった、などとは言わないよ。自分自身でそれを見ることはできなかったし、この問題を特段研究したわけでもない。第2次世界大戦の歴史の中の細部の点だと私は思う」

 これを聞いた質問者は色めき立った。

「600万のユダヤ人が死んだんだ。それが細部と言うのか?」

 興奮した声だったからか、ルペンは聞き損ねた。

「いいや、えーと、すみません。600万の死者の何だって?」

「ユダヤ人だ。600万の死者を細部と見なすのか」

「違う。質問は、人々がどうやって殺されたか、というのだっただろう」

「それだって、やはり細部とは言えない」

「いやいや、戦争の中での細部だ。それが神による真実で、誰もがそう信じているとでも言いたいのかね。そうするのが道徳的義務かね」

 念のため、この会話は今回の騒ぎでなく、1987年のものである。

 ユダヤ人差別は欧州にとって、決して忘れてはならない汚点であり、本来だと軽々しく口にするテーマでない。ルペン自身、言った後で「しまった」と思った節がうかがえる。彼は後に、複数の側近に「これまでに自分がしでかした最大の愚行だ」と漏らしたという。反発は極めて大きく、国民戦線は以後20年以上にわたって、他の政党から徹底的なボイコットを受けることになった。

かみ合わなかった会話

 そして28年近く前の時のこの発言が、今になって蒸し返されたのである。

 今年4月2日朝、フランスで最も影響力の強いメディアの1つである『RMCラジオ(ラジオ・モンテカルロ)』とニュース専門テレビ局『BFMTV』に、父ルペンが出演した。司会者はこのガス室発言を取り上げ、後悔しているかと畳みかけた。質問者の明らかな挑発だが、ルペンはまんまとはまってしまった。28年前と同じように皮肉っぽい表情で「全然していない。ガス室は戦争の歴史の中の細部だ」と繰り返した。

「誰もそのことを疑っていない。これを利用して私をおとしめようとする人が、私を反ユダヤ主義などと言う」。そう主張するルペンに質問者が息巻いたのも、以前と同じパターンである。

「何百万もの死者を細部というのか」

「百万の死者の話ではない。ガス室のことだ」

「何千万もの死者だぞ」

「確認したい。私が話しているのは、死者の数ではない。装置だ。戦争とは恐ろしいものだ。爆弾で頭を飛ばされたりもする......」

 ここでも1987年の場合と同様に、質問者とルペンとの会話はかみ合っていない。質問者がホロコースト全体を問題にしているのに対し、ルペンは「ガス室を使ったこと」について話している。ただ、ガス室がホロコーストの象徴的な存在であることを考えると、彼の発言がホロコースト自体を軽視したと受け止められても仕方ない面がある。

 今回のルペンの発言は、前回の失言とは異なり、ある程度の確信犯だった可能性がある。それに続く騒ぎが用意されていたからだ。

急きょ入院

 ガス室発言の数日後に出た右翼系の週刊紙『リヴァロル(Rivarol)』で、ルペンは再び、インタビューに応じた。『リヴァロル』は右翼の中でも強硬派の立場で知られ、現在の国民戦線の大衆向け路線や党首マリーヌの改革を公然と批判している。父ルペンはここでも、自らのガス室発言を擁護するとともに、「ペタンを裏切り者だと思ったことは一度もない」などと述べた。ペタンとは言うまでもなく、対独協力ヴィシー政権を率いた元帥フィリップ・ペタン(1856-1951)で、ナチスに協力したことから国賊扱いされる人物だ。

 国民戦線内にはネオファシストや対独協力者の潮流が残っている。反ユダヤ的立場をにおわせ、彼らに対してそれなりの配慮を見せるのは、2011年に娘マリーヌに党首の座を奪われ名誉党首に祭り上げられた父ルペンにとって、党内で一定の人気を保つ手段となっているからだ。

 しかし、抗議の声はまたもあちこちで噴出した。大手機関Ifopが公表した世論調査では、国民戦線支持層の67%が「ルペンは離党すべきだ」と答え、74%が「彼の存在は党にとって障害」との立場を示した。

 国民戦線内部でも、特に若手を中心に批判が出た。その急先鋒は、党ナンバー2の副党首フロリアン・フィリポである。まだ33歳のフィリポは、官僚養成機関「国立行政学院(ENA)」を出たエリートで、2011年に娘ルペンが党首に就任して以降急速に影響力を増した人物だ。4月10日に出演したラジオで「いつ出ていくべきかをわきまえるべきだ」と述べ、父ルペンに対して政界から引退するよう求めた。しない場合は党からの除名も考えられる、とも主張した。

 それ以上に頭を抱えたのは、娘マリーヌだっただろう。父親の発言を「形式上も、本質的にも、全く同意しない」と切って捨てた。

 父ルペンにある程度の理解を示す声も、党内でないわけではなかった。大御所の1人、元副党首のブルノ・ゴルニッシュは「騒ぎすぎだ。誰にでも言論の自由はある」と述べ、懲罰や除名に反対した。

 最終的に、娘マリーヌは父に対し、今年12月に予定されているプロヴァンス・アルプ・コートダジュール(PACA)地域圏議会選への立候補を断念させることで、問題を収束させた。この地方では右翼支持が根強く、勝利を収める可能性が十分あった。もし勝てば、州知事にあたる地域圏議会議長の座を彼は得るはずだ。その夢が潰えて、父ルペンは急きょ4月16日に入院した。「心臓に小さな問題がある」との理由だったが、娘を含む党の厳しい対応にショックを受けたからだと受け止められている。

当初は「傀儡」だった父ルペン

 父ルペンの行動には、娘に家督を譲った途端に党が興隆モードになったことへのやっかみが含まれていたに違いない。それだけなら、単なるお家騒動だ。ただ、国民戦線の歴史をひもとくと、長年にわたる深刻な路線対立が背後に浮かび上がる。

 国民戦線は1972年、様々な右翼の潮流――旧対独協力者、アルジェリア独立反対派、反共主義者ら――を結集して発足した。当時はまだ、学生運動が華やかなりし頃だ。参加した面々の中には、左翼学生との抗争や右翼同士の内ゲバで体を張った人が少なくなかった。テロや暗殺も頻繁で、多くの党員が「いずれは右翼革命による体制転覆を」と目論んでいた。

 結党の中心となったのは、ネオファシスト的傾向の強い右翼指導者フランソワ・デュプラが率いる「新秩序(Ordre Nouveau)」だった。ただ、暴力的な側面をカムフラージュするために、有力な支持基盤を持たないながらも演説のうまい元国民議会議員(下院議員)を見つけ出してきて、党首に据えた。それが、ジャン=マリー・ルペンである。少なくとも当初、父ルペンは「新秩序」の傀儡であり、形式だけの党首だった。いわば、「新秩序」こそが高級路線であり、父ルペンの方がカジュアル路線だったのである。

 ちなみに、暴力組織の主導で傀儡の政党が生まれるケースは各地にあり、スペイン北部の武装組織「バスク祖国と自由(ETA)」とその政党「バタスナ」などが有名だ。国民戦線も、「『新秩序』の政治部門」という側面を多分に持っていた。

 しかし、いったん党首の地位を手に入れると、父ルペンは巧みに立ち回った。「新秩序」の力を削ぎ、党内の各潮流を競わせ、自らを標的としたテロをかわして生き延びつつ、ヘゲモニーを確立した。彼は以後、反ユダヤ主義や反共主義に代表される右翼「高級路線」の代弁者を務める一方、大衆の不満を吸収するポピュリスト「カジュアル路線」の役割も担った。両者のバランスを取りながら、ルペンは党を運営した。(つづく)

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国末憲人

1963年生れ。85年大阪大学卒。87年パリ第2大学新聞研究所を中退し朝日新聞社に入社。富山、徳島、大阪、広島勤務を経て2001-04年パリ支局員。外報部次長の後、07-10年パリ支局長を務め、GLOBE副編集長の後、現在は論説委員。著書に『自爆テロリストの正体』(新潮新書)、『サルコジ―マーケティングで政治を変えた大統領―』(新潮選書)、『ポピュリズムに蝕まれるフランス』『イラク戦争の深淵』(いずれも草思社)、共著書に『テロリストの軌跡―モハメド・アタを追う―』(草思社)などがある。

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(2015年4月25日フォーサイトより転載)

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