福島と京都の間で:古里の意味を問う「自主避難者」の旅(上)--寺島英弥

とどまるか、帰還か

京都市伏見を再訪したのは2017年2月26日。まだ冬のさなかの東北と違い、京都は梅が咲き誇る早春の候だった。東日本大震災の被災地を毎年応援している「もっと広がれ支援の輪from伏見」という地元の労働組合、市民らのイベントに3年ぶりに講演で招かれ、「大震災から6年 何も終わらない東北の被災地」との題で現状を報告させてもらった翌日、足を運んだ場所がある。近鉄・桃山御陵駅前の踏切を渡り、にぎやかな大手筋商店街のアーケードをくぐって両替町の小路を曲がると、その店は変わらず穏やかなたたずまいを見せていた。

焦げ茶の柱や板戸、白壁、銀色に光る瓦。京都の下町らしい古い町屋作りの店には「みんなのカフェ」の表札。立て看板のメニューには、手作りのシフォンケーキ、チーズケーキにまじって、東北のにおいのする「ずんだティラミス」や「わっぱ飯ランチ」も。あるじとして切り盛りするのは、福島市から自主避難している西山祐子さん。東京電力福島第1原子力発電所事故の後、同じく京都に移った同胞の家族らを支援する社団法人「みんなの手」の代表だ。伏見にある避難先から近い町屋を自ら借りて改装し、2013年5月に店開き。「みんなの手」の拠点でもある。3年前の講演の打ち上げ会場が偶然「みんなのカフェ」という縁で西山さんに話を聞かせてもらったのが2013年10月。それ以来の再会だった。

福島から京都へ自主避難

西山さんの自宅は福島市瀬上町。阿武隈急行という第3セクターの駅があり、のどかなリンゴ畑に囲まれた住宅地だ。京都に避難するまでの経緯を、筆者のブログ『震災3年目/余震の中で新聞を作る109~同胞をつなぐ、はるか京都の地で』でたどってみよう。

【「2011年3月11日の震災があり、福島第1原発事故による放射性物質の拡散で、原発から60キロ以上離れた福島市内でも3月15日に急激に放射線量が増えて、24.2マイクロシーベルト毎時まで上がった。(政府から)福島市に避難や屋内避難の指示は出なかったけれど、『自主的に避難した方がいい』と友人からメールをもらった」

「共同通信の記事(同16日)も、福島市で同日5時以降、『通常の約500倍に相当する毎時20マイクロシーベルト以上の放射線量を少なくとも5時間、連続して観測した』という県の発表と、『必要のない外出は避けてほしい』という呼び掛けを伝えていました」(注・17年7月12日現在の『福島県放射能測定マップ』で、同市瀬上町は0.1前後に低減)。

「両親や夫に反対されたけれど、避難しようと決め、そのころ2歳の娘を連れて18日に東京に行った。でも、都は自主避難する人の受け入れ、支援をしておらず、親戚を頼って都内でアパートを借り、3カ月滞在した」。夫は仕事のある福島に残り、二重生活となって経済的な負担も生じました。「5月の連休に一度帰ったけれど、放射線量の状況は震災前に戻らず、避難が長期化するかもしれないと感じて、受け入れの情報を懸命に集めた」。

福島県全域から自主避難する人々を独自の震災対策事業として受け入れていたのが、京都府でした。「対応がとても丁寧、迅速で、2、3週間の準備で避難先の下見をさせてくれた」と西山さん。府から提供されたのが、伏見区にある公務員宿舎でした。夫はやむなく引き続き福島に残ることを決め、「なじみのない西日本は心細いが、安心できるなら」という両親、娘さんと4人での京都の暮らしが始まりました。未知の土地ゆえに、福島から避難した人たちがどこにいるか、誰か知り合いが来ていないのか、知りたくなり、府に問い合わせましたが、「個人情報は教えられない」と壁に阻まれて、五里霧中だったといいます。

地元で市民らの支援の会が活動しており、「行ってみたら、たまたま同じ公務員宿舎に避難している人がいた。『声を掛け合って、集まってみないか』という話になり、8月に初めての集いを宿舎で開いた」。20人も集まり、西山さんら有志は「ふれあいの会」を旗揚げしました。京都新聞や全国紙の取材も入ってニュースが広まり、支援したいという申し出も寄せられした。府から必要な家財道具の支給はありましたが、「何かできますか?」と。 

「私がいる公務員宿舎とは別の場所で暮らす福島からの避難者とも出会った。府の宿舎以外には公的な支援がないことが分かり、『ずるい』と言われた。同じ避難者として、誰もがつながれることが必要だ、と感じた」といいます。「原発事故で故郷を離れた人、津波のために帰る家をなくした人、福島だけでない他県からの避難者も、とにかくそれぞれが孤立に陥らず、つながろう。支援をしたい、という地元京都の人もつなぐ。そんな場をつくりませんか」と西山さんは呼び掛け、12月に「避難者と支援者を結ぶ京都ネットワーク みんなの手」を立ち上げました。スタッフは、西山さんら福島からの避難者が2人、京都の有志3人。「自分はつなぎ役になろう」と決めて、拠点は公務員宿舎の自室に置いて月1、2回のニュースレターを発行し、避難先リストを持つ京都府に郵送を委託しました。発送便の届け先は435世帯に上ります。希望者にはメーリングリストを使った発信も始め、登録者は現在65人。「支援やイベントの招待など、いろんな情報が電話でも集まるようになり、それらを発信してきた」】

福島県が支援打ち切り

それから6年。西山さんをはじめ福島県内から全国各地へ自主避難を続けてきた人々の境遇は、大きな転機を迎えようとしていた。

筆者の京都訪問のほぼ1カ月後、政府は福島第1原発事故の被災自治体に発した全住民の避難指示を、2017年3月末(富岡町は4月1日)に解除。それを以前から見据えたように同県は2015年6月、放射能への不安などから自らの判断、選択で避難した県民の生活を支えてきた住宅無償提供(家賃全額補助)の支援を打ち切る方針を決めていた。その時点で古里を離れて県内外に避難した人は4万3700世帯、10万1900人、うち自主避難者は9000世帯、2万5000人に上る。同県の意向は「除染や災害公営住宅の整備が進み、生活環境が整うと判断」「災害救助法に基づく応急的な支援から新たな生活再建策に軸足を移す。県外の借り上げ住宅から県内への引っ越し費用を補助するなどして帰還を促す」(同月16日の『河北新報』)と報じられたが、政府のスケジュールと軌を一にしていたことは明らかだった。

復興庁も同じ時期、自主避難者らを対象に「子ども・被災者支援法」の基本方針を改定する案の説明会を東京都内で開き、(1)自主避難に関する支援を縮小する(2)古里への帰還支援などに比重を移す――という方針を伝えた。東日本大震災から5年の節目であった2015年度末で政府の「集中復興期間」が終わることを踏まえ、「福島県内の多くの地域で空間放射線量が大幅に低減した」「避難指示区域以外の地域から避難する状況にない」などを根拠に、法律の上でも自主避難者への支援を打ち切る内容だった。「避難者の切り捨てではないか」という反発や疑問が会場の自主避難中の人々から相次ぐ中、政府は同年8月25日、「幕引き」を急ぐかのように閣議決定した。

翌9月15日の『河北新報』には、「住宅無償提供 延長を 自主避難者 増す負担」という見出しの記事が載った。

【「母の願いはただひとつ、子どもを守りたい。そのためにもう少し山形で子育てさせてください。どうか住宅支援の延長をお願いします」。4日、山形市で開かれた「住宅支援の延長を求める会」の発足式。原発事故当時、3歳の娘と福島市から山形市に母子避難したパート従業員の女性(42)が切々と訴えた。長距離通勤、母子避難、二重生活...。自主避難者の環境はさまざまだが、避難生活で家計の負担が増す中、住宅無償提供は大きな支えになる。中には貯金を取り崩しながら生活する家庭もあり、切実な問題だ】

福島県は支援打ち切りの方針を決定した後、担当者に各地の自主避難者を戸別訪問させた。だが、「職員が訪ねてくるなり一方的に通告された」「打ち切りありきで被災者と接している」といった当事者の声が、「原発被害者訴訟原告団全国連絡会」「原発事故被害者団体連絡会」などを通して明るみに出た。2016年に入り、多くの避難者を受け入れた山形、米沢両市の議会が撤回を求める請願を採択するなど、住宅無償提供の延長を訴える活動は全国に広がったが、内堀雅雄知事は再考に応ずることなく、「県全体で丁寧に対応する」と語るのみだった。これらの決定の積み重ねは、避難指示解除を境に、自主避難が「原発事故のため強いられた決断」から「自己都合」へと扱いが変えられてしまうことを意味した。当時の今村雅弘復興相が2017年4月4日、「(もはや自主避難に政府の責任はなく)本人の責任、本人の判断」と突き放した「自己責任」発言も、自主避難者を切り捨てる流れを代弁したものと言えた。

とどまるか、帰還か                   

「京都府、京都市とも、自主避難者への支援を2年間、延長してくれた」と、西山さんは語る。京都には2016年末現在で福島県などから計95世帯、257人の自主避難者が暮らしていた。冒頭の被災地支援イベントのように、地元では福島県からの自主避難者への市民の受け入れが温かく、支援打ち切りに反対し避難者の窮状を訴える署名集め活動なども行われた。両府市は足並みをそろえて「入居から6年間」の避難者を無償で受け入れ、それを過ぎた後も独自に2019年3月まで有償ながら提供を続けると決めた。全国の多くの自治体では政府の要請を受け、自主避難者の公営住宅への優先入居枠を設けて住み替えを求めたが、京都ではそのまま住み続けることができる、良心的な対応が生まれていた。

「でも、わたしは去年の3月、府から避難先に充ててもらった公務員宿舎を自分の判断で出て、父と母、娘と一戸建ての家を借りている。もう去年から住宅の支援を受けていないのです」と西山さん。なぜですか?と問うと、「そのころは京都でも支援が打ち切りになりそうな空気だった。2017年初めの時点で『支援は終わりです』と京都府からも言われていた。それが、2月になって急に『支援を延長します』に変わった」。その間の市民たちの応援が行政を動かしたとも言えたが、西山さんは、「仲間たちにも『もう支援に甘えず自立しよう』と言ってきたのに」と複雑な気持ちだったという。「京都での行政の支援もあと2年という先が見え、『みんなの手』の活動をこれから1年、1年どう続けていくか、思い悩むところもあります」

避難生活の苦労を共にしてきた家族にも、思いもかけぬ悲しい出来事があった。「京都の暮らしになじめない部分があり、ストレスに苦しんでいた」という83歳の母親が亡くなったのだ。「福島の家が大好きだったんです」。同市瀬上町の自宅では、1歳上の父親が160坪の畑を借りて家庭菜園を作っており、夏になると家のブドウ棚の下にビニールプールを広げて、娘真理子さん(現在8歳で小学3年)を遊ばせたという。その楽しさを真理子さんもよく覚えていて、「早く帰りたい。京都より福島の方がいいと話すんです」。

自宅の周りの地域でも除染作業が行われ、放射線量は低減したが、「安全と言われても、安心はできない。『ホットスポット・ファインダー』で見ると、まだ高い所がある。子どもを住まわせてもいいのかどうか、悩みます。低線量被ばくの危険をぬぐえないのに、『安全』と決めつけないでほしい」と西山さん。サラリーマンの夫は仕事のため福島に残り、二重生活が続いてきた。2年前に東京の企業に再就職し、以前より距離は縮まったが、家族分断の現実は変わっていない。

駆け抜けてきた4年

「みんなの手」の活動も4年になる。「つながってくれている避難者は、京都府に登録している約250人。3年前の600人からずいぶん減りました。でも、住宅探しなど、さまざまな支援情報などのニュースレターを毎月送っている先は、関西の他府県にいる人も合わせて、いまも650世帯ある」。情報の発信だけでなく、京都での交流会も年7回ほど催し、古里の東北らしい芋煮会や紅葉狩り、餅つき大会など、家族で楽しめるレクレーションを企画してきた。避難者の身の振り方を検討する一助として、京都への移住を希望する人を応援する団体「京都移住計画」と共にランチ交流会なども。

「ふるさととつながろうツアー」は2011年12月、避難先の京都と福島に離れた親子らをつなぐ夏休みや年末の「家族再会プロジェクト」として始め、その後福島県の交通費助成も得て、2013年から現在の名称で避難者の参加を募って続けている。「今年(2017年)のお正月には30人が参加しました。次の3月のツアーは40人くらいになりそう」。本拠とする「みんなのカフェ」も、西山さんが避難先の伏見の古い町家を見つけて改装したが、助成金が数百万円不足し、最後は自費で賄った。「スタッフは6人。南相馬市など福島県からの避難者の仲間も働いてくれたけれど、それぞれ古里に帰って、いまは京都の人だけになった」。

西山さんは原発事故前、福島や仙台で英語の講師、通訳のキャリアを積んでいた。それらを捨てての避難生活は、「マイナスからの出発になった。先のゴールは見えず、今日のことしか考えず、自分はただ髪を振り乱して駆け抜けてきた」。避難者の誰もが「帰還するか、京都に残るか」の選択を迫られていた中で、すでに福島に家を造って再出発した人も、古里を思いつつ放射能への不安で京都定住を決めた人もいるという。自身も同じ当事者でありながら、同胞の支援活動に奔走し、「就活に役立てて」とカフェの2階でパソコン教室などを始めたり、避難家庭の子どものための英語教室でも教えたりしている。

「自分を後回しにし、いろんなことをやって疲れてしまったところがある。娘も大きくなってきた。いつまでも避難者の支援でなく、そこから新しい生き方を探したい気持ちもある」。

そんなチャレンジで4月から京都外語大の大学院に通い、再び英語の勉強を始めた。

この数年が最後の活動になるかもしれない「みんなの手」の代表として、いま取り組むのは、京都の地で避難生活の苦楽を共にしてきた仲間たちの証言集づくり。「古里を離れねばならなかった自主避難者の痛みと真実を、みんながばらばらになって、忘れられる前に書き残し、多くの人に伝えたい」。

西山さんは忙しい活動を縫って仲間からの聞き取りを始めていた。京都にとどまり、あるいは古里へ帰還した仲間を訪ねて。(つづく)

寺島英弥 ジャーナリスト。1957年福島県生れ。早稲田大学法学部卒。河北新報元編集委員。河北新報で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)、「時よ語れ 東北の20世紀」などの連載に携わり、2011年から東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として2002-03年、米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』(同)。3.11以降、被災地における「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を更新中。

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(2018年2月28日
より転載)

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