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2018年03月23日 12時19分 JST | 更新 2018年03月23日 12時19分 JST

「怒り」と「地政学」の新時代に日本はどう対応すべきか--杉田弘毅

グローバリズムを体現するリーダーの不在

 共同通信社論説委員長の杉田弘毅氏が上梓した『「ポスト・グローバル時代」の地政学』(新潮選書)に、ますます注目が集まっている。長年国際報道の第一線に立ち続けた杉田氏が、「地政学」と「怒り」というキーワードで、現在そして未来の国際社会を読み解いたという労作だ。

 杉田氏は1957年生まれ。一橋大学を卒業後共同通信社に入社し、テヘラン支局長、ニューヨーク特派員、ワシントン特派員、ワシントン支局長を務めるなど、豊富な取材経験に裏打ちされた確かな目が、この本の隅々にまで行き届いている。

 そんな杉田氏に、この本の狙いについて話を聞いた。

新しい時代の到来

 私はこれまで30年、記者として国際情勢の取材を続けてきました。そこで得た結論が、この『「ポスト・グローバル時代」の地政学』で詳細に論じた、「地政学」と人間の「怒り」が相互に作用し合って世界を動かす、新しい時代が到来したという認識です。

 ではその地政学とはそもそも何か。これは19世紀後半にヨーロッパで盛んになったもので、地理や地形、自然環境、資源など人間の知恵をもっても変えられない不変の要素を基に、政治や戦略を分析し立案していくというものです。

 これ以前の時代は、ヨーロッパ地域におけるグローバルな時代があったわけですね。ハプスブルク家や他の王侯貴族がそうでしたが、国境や民族を超えて通婚し、統治するという形態がありました。

 ところが1789年のフランス革命に端を発し、1871年のドイツ統一へと至る中で、いわゆる「国民国家」が出現し、発展してきた。この国民国家が、私の言う「地政学」と人間の「怒り」の両方を生み出すことになります。

「ポスト地政学」から「ポスト・グローバル」へ

 まず地政学ですが、国民国家の誕生は、為政者だけでなく国民も、国家戦略を意識するようになります。地理や地形、資源が国力をどう決定し、その中で影響圏をどう拡大して国益の実現を図るのか、という戦略が必要になったわけですね。ただこの段階では、地政学のフィールドは主に「陸」で始まり、やがて「海」をも想定したものに移っていくわけです。

 その結果20世紀に入って、人類は2度の世界大戦を経験しました。

 ここで重要なのは、1945年の第2次世界大戦終結後、世界は「ポスト地政学」の時代になった、ということです。それは言い換えれば、グローバリゼーションの時代ということでもあります。どういうことか。

 ご存じのように、戦後世界は冷戦の時代に突入します。これは東=社会主義陣営と西=自由主義陣営とが対立したわけですが、少なくともそれぞれの圏域においては、国家よりも思想を重視していたわけですね。つまり、それまでの地政学を乗り越えた、半分グローバルな世界が2つあった、と言うことができるのです。

 この冷戦も、1989年に終結します。ジョージ・H・W・ブッシュ米大統領(当時)が「新世界秩序」を高らかに宣言したように、これでようやく本格的なグローバリズムの時代が到来するのではないか、という期待がありました。日本国憲法の前文にあるようなグローバリズムの精神、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」できる世界が来るものだと考えられていたわけです。

 でも私は、やはり人々は国家を意識して動くのではないか、地政学というものを無視したグローバルな世界になっていくのはなかなか難しく、実現するとすればもっと先の時代になるのではないか、という思いを抱いていました。その予感が今、現実のものになったというように思います。結局現代は、本のタイトル通り「ポスト・グローバル」の時代、すなわち地政学の時代に逆戻りしたのです。

民主主義に解決能力はない

 一方、国民国家の誕生は、民主主義の発展プロセスの開始でもありますので、指導者は国民の声を政策に組み込んでいかなければならないことになります。しかしそれは、国民の感情を基盤にしたポピュリズムが政治や外交に反映されるようになることでもあります。

 冷戦終結後の世界が19世紀後半の地政学の草創期と比べて違うのは。「格差」が大きな問題として浮上したことと、まさにグローバルの時代を象徴するように、国境を越えていろんな国に入り乱れて入って生活する人々が激増し、文化的衝突が起こるようになったということです。

 こうした動きに対して、本来ならば民主主義が解決を図らなければなりませんでした。また解決できると信じられてもいた。ところが、民主主義と市場経済を旗印としたリーダーたるアメリカが真っ先に、格差と文化的衝突に乗っ取られてしまったのです。

 たとえば格差で言えば、富の分配を優先すべきだというポピュリズム的な主張が一方にあり、もう一方ではお金持ちのグループが政治家を献金漬けにしてしまうという状況がある。文化的な面では、黒人政治家は黒人の、ヒスパニック系政治家はヒスパニック系の、女性政治家は女性の利害を代弁するようになる。そうなると、自分の支持者を喜ばせる政策を進めないと次の選挙で落選するので、より高所に立った政治などできなくなってしまうんですね。そうすると、民主主義というものはどうも、グローバル時代の弊害を解決する力がないのではないか、ということがなんとなくわかってきてしまうわけです。実はこの陥穽に、アメリカが落ちてしまった。

「怒り」という新たな要素

 その意味では、ドナルド・トランプがまさに典型例ですね。

 最近出版された暴露本『炎と怒り』によると、トランプは大統領選挙での自分の勝利をまったく予想していなかった、といいます。でも当選して就任してしまった。

 アメリカの場合、大統領は2期務めないと弱虫扱い、負け犬扱いされるという政治文化があります。

 戦後、選挙で負けて1期で終えた大統領にジミー・カーターとジョージ・ブッシュ(父)の2人がいます。この2人とも、2期目の選挙に勝てなかった。なぜなら、国際社会の事ばかり考えて、「アメリカ・ファースト」をやらなかったからです。そういう大統領は御免蒙ります、ということになるんですね。2期をまっとうするということは、大統領にとってはとても意味のあることなのです。

 トランプの場合、頑張ったけどヒラリー・クリントンに負けた、でもあいつはすごいという意識を国民に持ってもらうだけでよかったはずなんです。そのままテレビショーの司会に戻り、視聴率を稼いでお金を儲けられればそれでよかった。場合によっては、ホワイトハウスの主になるよりももっと影響力のある人物になれた可能性もあったわけです。

 ところが当選してしまったものだから、2期目の選挙も勝たないと負け犬になってしまう。では2期目を勝つにはどうすればいいか。

 それには、白人の心をわしづかみにするしかないのです。黒人やヒスパニック、女性、その他のマイノリティを糾合して、国民の和解と統合の大統領になるなどということは、トランプにはできない。

 そこで彼がとった方法は、マイノリティの伸張によって「奪われた」形になっている白人の権利を取りもどすことでした。米国内で人種問題が起きた時にまずは白人が謝罪しなければならない、白人が譲らなければならないという不満や怒りをすくい上げ、政策として進めることが、トランプの選挙戦略となっているわけです。

 ここではもはや、格差や文化的衝突が民主主義では容易に解決できないことが明らかになってしまったという現実があります。そのために国民の不満は高まり、やがてそれが「怒り」へと変わっていく。政治や社会を動かす大きな要因として、「怒り」という感情的なものが登場したのです。

グローバリズムを体現するリーダーの不在

 第2次世界大戦後のアメリカの大統領は、それがたとえ建前であっても、おそらく世界で一番グローバリズムを体現するリーダー、民主主義と市場経済を体現するリーダーでした。ところが当のアメリカ国内で民主主義の解決能力に疑問符が付き、市場経済が格差を拡大させていくとなると、大統領はグローバリズムを語るよりも自国の有権者を満足させるため内向きに、つまり「アメリカ・ファースト」と言わざるを得なくなる。

 実はそれを最初に表面に出したのが、バラク・オバマ前大統領でした。「アメリカは世界の警察官ではない」とはつまり、アメリカは自分たちとは関係ない世界からは身を引いていく、ということの表明ですから。これはたとえれば、中国やロシアといったガキ大将がぶつかり合う土俵での行司役だったアメリカが、自らその役割を捨てて同じガキ大将になってしまい、世界のことよりもアメリカの利益しか考えなくなったのです。これがオバマ時代の、アメリカの一番大きな変化でした。

 そしてトランプが大統領になって、「アメリカ・ファースト」はさらに強く熱烈に押し出されるようになりました。そしてグローバリズムからはどんどん遠ざかっていく。先のたとえで言うなら、土俵の上にはウラジーミル・プーチン露大統領、習近平中国国家主席というガキ大将に加え、トランプというガキ大将が加わった、ということになります。

 プーチンも習近平も、言ってみれば19世紀的な地政学の人です。相手の弱みに付け込んで勢力圏を広げていく。トランプも今やガキ大将の1人ですから、同じように相手の弱みに付け込んで勢力を拡大したり、あるいは今までやってきたことから手を引いていく。

 こうして、冷戦終結後グローバリズムを体現してきたリーダーがいなくなってしまったわけです。私の国際政治に対する認識はまさにこれで、つまりは冷戦後のグローバル時代が終わり、この本のタイトルでもある「ポスト・グローバル時代の地政学」世界になった、ということなのです。

最大の敗者になる?

 19世紀的な地政学世界と、ポスト・グローバル時代の地政学世界の最大の違いは、先に述べた国民の「怒り」が大きな要素として存在する、ということです。

 19世紀的地政学では、外交も政治も少数のエリートが担っていました。ところが現代のリーダーは、国民の意思を考慮しなければリーダーでいられなくなる。人々の「怒り」というものに突き動かされて行動せざるを得ないのです。

 ではそんな時代を、日本は生き抜いていけるのでしょうか。

 私は、この本にも書きましたが、ポスト・グローバル時代の地政学世界では、日本は最大の敗者になる可能性がある、と考えています。

 まず言えるのは、日本が今から地政学的なパワーを持ちえない、地政学という土俵には、アメリカ、ロシア、中国という3人のガキ大将が上がっていますが、日本は4人目のガキ大将にはなれない。なぜなら国力がない、軍事力もない、核兵器は持っていない、経済力はシュリンク(縮小)しつつあるからです。さらにお得意だったはずの技術はいくらでも盗まれて、世界中に広まっている。ガキ大将になるだけの力がないのです。

 ではそんな日本にどういう選択肢があるのか。とりあえずアメリカにくっついていく、という方法があります。

 ところがアメリカは今や巨大な地政学パワーと化しており、かつてのように自由や人権、民主主義といった価値観に重きを置いていない。日本はこれまで、自由と民主主義を共有しているという「価値観同盟」ということで、自分をアメリカに売ってきたわけです。でもアメリカは今、それはもういらないと言っているに等しい。むしろアメリカは、自分の実利――その中には自由や民主主義、人権というものは入っていません――から考えて日本がどれくらい使えるのか、という観点でしか日本を考えていないわけです。

日本にとって「グローバル」が最善

 ではアメリカに対して何が売り物になるのか。それは沖縄も含めた地理、つまりは「不沈空母」的な要素でしかない。しかしそれだって、日本はアメリカに裏切られる可能性はあるのです。

 地理的な立地条件としては、これが日本の強みではあるのですが、一方で中国ともロシアとも近すぎて、アメリカべったりだとどうもまずいのです。特に中国とはうまくやっていかなければならない。でも、アメリカの意向を常に気にしていなければならない。今の、ポスト・グローバル時代の地政学世界が続くならば、日本はこれからもずっと綱渡りを強いられるということになり、日本にとっては決していい時代ではないということになると思います。

 だいたい日本にとっていい時代とは、むしろグローバル時代なんですね。先に挙げた憲法前文のような世界、核兵器をみんなでなくしていきましょう、核なき世界を作りましょうということを言い出せる時代が一番よかった。なぜなら、日本は核兵器を持っていない、持てないからです。世の中にある核兵器をなくそうという方向に世界が動けば、相対的に日本の地位は上がる。

 ところが現実は、北朝鮮が核を持つ。アメリカは新しい核戦略を作って核兵器の能力を向上させようということになると、日本は結局アメリカにぶら下がるしかなくなっているのです。だから大変なことになっていく。

 繰り返しますが、日本は土俵に上がってガキ大将とのけんかにも加われないし、ユーラシア大陸に近いからいつも中国の動きに対してびくびくしなくてはならない。同時にアメリカに守ってほしいから、結局は地政学の奴隷にならざるを得ない。

「世界の破局」の先を見据えて

 ならば、日本はその中でどうすればいいのか。

 残酷なことを言うと、私は世界の破局みたいなものが、いつかまた来るのではないかと思っています。それがどんなもので、どういう形で来るのかはわからない。それは経済の破綻かもしれない。その後に来る強烈な保護主義から、戦争へ向かうのかもしれない。ただそういう可能性を考えて、そこへの備えをしていくことが、まず重要だと思います。

 ただ私は破局の後に、もう一度グローバルなものをみんなで作っていこう、新たな価値観を作っていこうという時代がやってくるとも思うのです。

 それはなぜか。歴史は循環しているからです。今の地政学時代が破局という形で終われば、そのあとはまたグローバリズムなり、日本が戦後育ててきた価値観みたいなものの時代がやってくるのではないか。だからそこに向けて、今は日本の我慢の時期かなという気がします。

 日本が地政学的に恵まれているのは島国だということです。仮に朝鮮半島や北東アジアでとんでもないことが起きた場合、ミサイルは飛んでくるかもしれないけれど、周りに海があるので、陸続きで戦火の場になるのとはまったく違う。海を越えて地上部隊が攻めてくるのはなかなか大変だから。

 そんなに我慢するよりは、いっそ核武装すればいいではないか、という議論も当然出てくるでしょう。でも、やはりアメリカは日本に核兵器をくれないだろうし、日本の技術陣を集めれば開発は可能かもしれないけれど、ガキ大将の土俵に降りていって、「ウチも核兵器国だ」と言えるくらいのしっかりした核戦力、ミサイル、潜水艦、爆撃機などを米中露に匹敵するほど作り、持てるかというと、日本はそこまでの国ではないし、そうすべてきでもない。

 はじめから敗者だったら、しょうがないとあきらめもついたでしょう。ところが日本の場合、明治維新と戦後復興という成功体験が2回あったから、敗北感は一層募る。敗北を予想するのも、敗北に備えることもいやになる。若い人の中には、日本など大したことない、だから高望みせずに淡々と生きて行こうという人たちもいます。でも多くの場合、成功体験があるゆえに「国」を意識してしまうんですね。

ポスト地政学だが、ポストモダンではない

 つまりは、日本は「ポスト地政学」の存在なのです。ところが今世界は、「ポスト・グローバル」。

 ただ面白いのは、日本は島国なので、ポスト地政学ではあっても「ポストモダン」ではないんです。グローバル化が進み、国境がなくなり、世界中が仲良くなるという意味でのポストモダンではない。国家としてはポスト地政学だけれども、国民国家でもありポストモダンではない――この意味で日本は、極東におけるとても不思議なモデルなんですね。これを生かすことができるかどうか。

 以前、駐日ウクライナ大使と話をしたことがあります。お互い隣に大国があって大変だね、地政学の悲哀だね、というと、彼は「何を言っているんだ」という。「日本には周りに海があるじゃないか。海があるから、地政学なんか全然関係ない。いくら中国だって海を越えられないし、海を埋め立てることはできないでしょう。日本には地政学の悲哀はないんだ」と言うんです。

 それを聞いて思いました。日本は今のままでは、地政学世界で最大の敗北者になる、という考えは変わらない。でも地政学世界とはちょっと離れたところで暮らせる、ということもあるのだ、と。日本には弱点もありますが、一方でそんな強みもある。だからわれわれは地政学のプレーヤーにはならない、なる必要はない。今はつらい時期だけど。自由、人権、法治、民主主義、そして非核という価値観の旗手であり続けるべきだ、ということを知ってもらうことが、この本の眼目です。

杉田弘毅 共同通信社論説委員長。1957年生まれ。一橋大学法学部を卒業後、共同通信社に入社。テヘラン支局長、ワシントン特派員、ワシントン支局長、編集委員室長などを経て現職。安倍ジャーナリスト・フェローシップ選考委員、東京-北京フォーラム実行委員、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科講師なども務める。著書に『検証 非核の選択』(岩波書店)、『アメリカはなぜ変われるのか』(ちくま新書)、『入門 トランプ政権』など。
関連記事 (2018年3月22日フォーサイトより転載)