もともと香港社会は1989年6月4日の天安門事件をめぐり、2つに分断されていた。犠牲者を追悼し、共産党を批判し、中国の民主化を要求する人々と、そのことに積極的な関心を示さない人々である。政治勢力において、前者は民主派と呼ばれ、後者は親中派(建制派)と呼ばれる。
しかし、いまは3つに割れている。なぜなら、いま香港では2014年の雨傘運動に参与し、「香港の独立」まで主張に含める若者を中心とする「本土派」に、天安門事件に対して、親中派とは全く別の思想から、あえて追悼する必要がないのではないかと疑う考え方が広がっているからだ。
そのことがくっきり浮き上がったのが、事件から27年目を迎えた2016年6月4日の香港の夜だった。
ある種の夏祭り
午後に激しいスコールが降ったお陰で、暑さはそこまでではなかった。
例年と同様、今年も香港・コーズウェイベイにあるビクトリアパークで4日午後8時から2時間にわたって開催された追悼式典の参加者は、主催者統計では12万5000人。昨年より1万人以上は減ったが、例年と比べても、少ないという数ではない。しかし、そこに漂っていたのは、熱気というよりも、慣習化したイベントの静けさであった。
最後の盛り上がりのはずの15分は、舞台上で、今後の運動の計画について主催者である「支聯会」のリーダーたちが語っているなか、参加者はどんどんと立ち上がって帰ろうとした。
「六四(天安門事件)を忘れるな」という壇上からの呼びかけに、声を上げる人も少なかった。私は過去の追悼式をすべて見ているわけではないので、完全に自信を持って言えるわけではないが、その場の空気を形容すれば、白けているというのではなく、毎年やっていることを、ある種、夏祭りのように楽しみに来ている、という感じである。
香港人のエモーションを実感したのは、むしろビクトリアパークの外だった。地下鉄のコーズウェイベイ駅からビクトリアパークに向かう200メートルほどの道に多くの政党が陣取り、会場に向かう人々に対して、政党への支援を懸命に呼びかけていた。これもまた恒例の光景ではあるのだが、例年と違うのは、そこに陣取った政党の数が圧倒的に増えたことだ。
従来、香港における政党は、親中派諸政党、民主派諸政党の二者択一だったが、今年はここ1年で相次いで結成された多くの「本土派」政党が、今年9月に行われる立法会(議会)選挙の宣伝をかねて必死にビラを配り、演説を行っていた。親中派や民主派の方も含め、重点は「選挙」であり、「六四」ではないのは明らかだった。
「香港人であり、中国人ではない」
ビクトリアパークでの追悼式で人々がロウソクを掲げた夜、ほぼ同じ時間に、香港島の香港大学と大陸側の新界にある香港中文大学で、それぞれ、学生会が主催するイベントが開かれた。私は香港中文大学に足を運んだ。
香港中文大学のイベントは、香港にある合計11の大学が合同で催した。開催前から多くの若者が行列をつくり、1500人が入る大ホールはほぼ全席が埋まる形だった。日本の大学でこういう政治的なイベントをやって、これほどの動員があり得るだろうかと思った。香港の若者が燃えていることを実感する。
彼ら学生会はビクトリアパークでの追悼式典の中心的存在の1つだったが、今年から正式に「脱退」を表明した。11大学の学生会トップが並んで読み上げた「宣言」は、天安門事件への批判や追悼には一定の意味があることは認めつつ、「民主中国の建設」を、従来の民主派を中心とする人々がその追悼の中心意義に掲げていることに強い疑問を呈した。それは、中国の民主と香港の民主を切り離す表明でもあった。
学生たちの論理は、「自分たちは中国人ではない。中国で起きたことは、自分たちにとって、中東やアジアで起きた民主化運動の犠牲と同じことであり、追悼することには反対しないが、香港であえて毎年これだけの規模で集まってやる必要があるとは思わない」というものである。
これは主に「雨傘」後に台頭した本土派の思想からは、自然に導き出される結論かもしれない。なぜなら、香港のアイデンティティにおいて「中国人であり、香港人でもある」から「香港人であり、中国人ではない」への移行が始まっているからである。
世代的な対立という構図
香港における天安門事件への抗議・追悼の活動は、単に香港だけにはとどまらない世界的な意義を持つものだ。
事件発生当時、香港は英国の植民地だったが、1997年に中国の一部になった。その香港で、中国の共産党指導部が犠牲者の「平反(名誉回復)」を認めない天安門事件に対する抗議の声が発せられていることの重要性を、世界も香港の人々も認めてきた。中国はこれを苦々しく思い、世界の華人は「香港がある限り」という思いを抱いてきた。
しかし、その「香港の六四」が直面する事態は、その前提を根底から変えかねないものだ。雨傘運動を1つの転換点として、香港の人々のアイデンティティが「中国人」から「香港人」に変わりつつあり、「外国(中国のこと)の事件に対して、そこまで深い思い入れを持てない」という思いが急激に広がっているのである。これは単なる「記憶の風化」や「運動のマンネリ」という話ではなく、天安門事件の追悼に対する積極的な拒否なのである。
香港において、1人1票の「真の普通選挙」など1国2制度による香港の自治の実現を中国に求めているという点では、基本的には、民主派と本土派では変わりはない。しかし、民主派が「同胞として、中国の民主化を求める。それゆえに、天安門事件に関心を寄せ続ける」と考えているのに対して、本土派はその前提である「同胞=中国人」という概念を否定しているのである。
香港におけるこのような本土派の台頭の理由は、決して単純ではない。「雨傘」の盛り上がりがあったことは確かだが、それ以前に、大量の中国人観光客や移民の流入が引き起こした文化的な反感もある。彼らは、中国から戦前戦後の混乱期に香港に逃げてきた第1世代からみるとすでに第3世代であり、中国に対する直接的記憶を持たない人々だ。第1世代やその影響を受けた第2世代を中心とする民主派との間には、世代的な対立という構図も見て取れる。
奇妙なパラドックス
今回、香港大学のイベントにもおよそ1000人の人々が参加した。その人数を合計すれば、もちろんビクトリアパークでの追悼イベントのほうが大きい。しかし、現場にいて勢いを感じさせるのは学生の方だった。
そしてまた、いま香港では、天安門事件を追悼する民主派よりも、むしろ親中派のほうが内心、本土派への動向に警戒心を募らせ、天安門事件への追悼が続くことすら望んでいる。
というのも、本土派のように中国人であることそのものを否定されてしまうより、中国人として天安門事件を批判してくれたほうがまだ有り難い、という、奇妙なパラドックスが起きているのである。そんな事情もあり、中国政府はいま民主派の一部を取り込もうという動きも見せている。だが、民主化とは逆行する傾向を強める習近平体制と近づけば、民主派は事実上、親中派との区別がつきにくくなり、存在理由を喪失していくだろう。
香港で若者に影響力のある評論家である陶傑氏は、若者のイベントにゲストとして参加して、その後、筆者に対して、このように語った。
「追悼イベントをやるかやらないか、出るか出ないかは本人の信念の問題であり、若者が出たくないならば出なければいいし、出る人を批判すべきではない。しかし、時代の趨勢は明らかに本土派にある。彼らのような若者は今後の香港でも増え続ける。彼らが中国人のアイデンティティにUターンする可能性は薄い。本土派を取り込まなければ、いずれ民主派は先細りしていく」
運命の十字路
本土派の香港アイデンティティはまだ多数派でもなく、成熟した思想にもなっておらず、内部対立を繰り返し、多党が乱立している。その結集にはしばらく時間がかかるだろうし、9月の立法会選挙での苦戦は避けられない。
しかし、今日の台湾を見てみても、民主化から20年以上を費やして中国アイデンティティを台湾アイデンティティに圧倒され、「本土化(台湾化)した台湾」となって、今日の民進党の時代に至っている。香港の本土化(香港化)の速度は台湾のそれよりはるかに速い。
10年後の香港は、果たして天安門事件を追悼するのだろうか。
そして中国は「本土化(香港化)した香港」を受け入れる政治的な枠組みを提示することができるのだろうか。
香港はいま、1997年の香港返還以来とも言える運命の十字路にさしかかっているように見える。
野嶋剛
1968年生れ。ジャーナリスト。上智大学新聞学科卒。大学在学中に香港中文大学に留学。92年朝日新聞社入社後、佐賀支局、中国・アモイ大学留学、西部社会部を経て、シンガポール支局長や台北支局長として中国や台湾、アジア関連の報道に携わる。著書に「イラク戦争従軍記」(朝日新聞社)、「ふたつの故宮博物院」(新潮選書)、「謎の名画・清明上河図」(勉誠出版)、「銀輪の巨人ジャイアント」(東洋経済新報社)、「ラスト・バタリオン 蒋介石と日本軍人たち」(講談社)、「認識・TAIWAN・電影 映画で知る台湾」(明石書店)、訳書に「チャイニーズ・ライフ」(明石書店)。
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(2016年6月7日フォーサイトより転載)