その発言に世界の市場関係者は一瞬身構えた。1月のダボス会議(世界経済フォーラム年次総会)に出席したスティーブン・ムニューチン米財務長官が、「弱いドルは米国の国益」と語ったからだ。「強いドル」をモットーとしていたはずの米国が、為替政策を180度転換したのか。そんな解説も流布したが、今のトランプ米政権にそんな立派な大戦略があるはずもない。
「ボケと突っ込み」でドル安誘導
ムニューチン氏はゴールドマン・サックス出身なので、背景に米金融界の思惑があるなどというのは、過剰な解釈というものだろう。同氏はパートナー(共同経営者)でゴールドマン・サックスをやめ、その後はエンターテインメント系の仕事に携わっているからだ。とはいえ、今回のダボス会議の米国使節団の団長を務めているから、発言にはそれなりの重みがある。
為替市場ではムニューチン発言を受けてドル安が進み、円相場は1ドル=110円を突破した。ドル安の加速を懸念してか、翌日にはドナルド・トランプ大統領が「強いドル」を語った。ボケと突っ込みさながら、財務長官と大統領は漫才のコンビのようでもある。昨年4月にもドル相場をめぐって、よく似たやり取りが演じられた。だがその時はボケと突っ込みが逆だった。
つまりトランプ大統領が米中の貿易不均衡を念頭に、ドル高に不満を鳴らした。大統領のドル安容認発言に為替市場は色めき立ったが、その直後にムニューチン財務長官は強いドルの方針を再確認し、ドル安の加速を食い止めた。今回はその役回りが反対になっている。ここから言えるのは、大統領も財務長官も、自らの発言に一貫性を持たせることなどに関心を払っていないことである。
むしろ年が明けて、トランプ政権が意識しているのは、苦戦予測が伝えられる11月の中間選挙に向けて、いかにして経済を浮揚させるかである。幸いにも2017年の実質成長率は2.3%と、2016年の1.5%に比べれば大分上向いた。失業率も4%すれすれと、完全雇用と言ってよい状態にある。企業業績も良好だ。しかも昨年12月には総額1兆5000億ドルの減税も成立にこぎ着けた。
ドル安で米株式は史上初の大台
ここで問題なのは、米国の最終需要の拡大は海外からの輸入を増やし、貿易収支や経常収支の赤字を広げてしまうという点だ。当たり前と言えば当たり前で、トランプ政権以前ならば、対外収支の赤字は海外からの資本流入でまかなえばいい、と割り切っていた。ところがトランプ氏は大統領選で、貿易赤字を米国の雇用を奪う元凶として非難してきた経緯がある。
ラストベルト(主要産業が衰退した米国の工業地帯)の有権者はその主張に期待し、大統領選で1票を投じた。それなのにトランプ政権下で貿易赤字が広がれば、「何をしていたんだ」という批判を浴びかねない。そこでドル高をけん制し、緩やかなドル安を演出しようとしているのである。現に為替市場もそうした大統領の意向を忖度し、主要通貨に対するドルの値打ちを示すドルインデックスは、節目とされる90をも下回っている。
ドル安は米企業の国際競争力を高めるので、米国の輸出を後押しする。エコノミストはおなじみの呪文を唱えるが、企業経営者の感覚は違う。輸出にせよ海外事業の売り上げにせよ、ドルが安くなれば収益はその分だけ増加する。営業の苦労をしなくとも、為替の換算レートが自分に対して有利になり、利益が増すのだからこれほど愉快なことはない。
アベノミクスによる円安で、日本企業の収益がかさ上げされたのと同じ構図である。トランプ政権のドル安の魔法で、米企業の収益が高まれば、その分だけ国内の雇用も好転する。否、国内の雇用に配慮しない企業には、ツイッターで陰に陽に圧力をかける。ドル安による収益補填と米企業による雇用増進は、大統領の思考回路では表裏の関係にある。
米国株市場はそれに乗った。ニューヨーク・ダウは史上初めて2万5000ドルの大台に乗せた後、わずか8営業日で2万6000ドルの台替わりを演じた。ビジネス・フレンドリーな大統領の中間選挙対策に、株式市場も乗ったのである。
長期金利上昇で株価にブレーキ
だが、このまま2018年のマーケットは宴を謳歌すると思いきや、1月末になって思わぬ逆風が吹いた。米国債利回りがはね上がり、米国株に冷水を浴びせたのだ。
米国債の利回り(長期金利)が上昇すれば、債券との比較で株式が割高になる。だから株高にブレーキがかかったのだが、フリーランチ(タダ飯)は存在しない、という経済原則を地で行く展開である。なぜなら、そうでなくても財政赤字の中、トランプ減税で大盤振る舞いすれば、財政赤字はさらに広がる。国内総生産(GDP)比で1%くらいの赤字拡大が予想される。
その分、歳入不足をまかなうために、国債の増発が必要になる。一方で、米連邦準備制度理事会(FRB)は昨年10月から国債などの保有削減を始め、国債の買い手から売り手に転じている。しかも2018年は政策金利を3回引き上げるもくろみとなっている。国債市場の需給関係が悪化するのは火を見るよりも明らかで、債券相場の下落、つまり長期金利の上昇は必至の情勢だった。
ところが、今年に入るころまでは、政権も金融関係者ものほほんと構え、債券と株式の適温相場を楽しもうとしていた。
さざ波を立てたのは、1月9日の日本銀行による超長期国債の買い入れ減額。日銀が大規模な金融緩和の微調整に動く、との観測がパッと広がった。次いで1月11日、欧州中央銀行(ECB)の2017年12月の理事会の議事要旨が公表され、ひょっとすると2018年内に利上げに踏み切るとの観測が台頭した。
そこに輪をかける形になったのが、中国が外貨準備で運用する米国債枠を圧縮する、との米『ブルームバーグ』の報道(1月10日)だった。米国が利上げに動いているにもかかわらず低金利の宴を謳歌していられたのも、海外の中央銀行が金融緩和を続け、中国などが米国債を買い続けてくれればこそだ。その前提が揺らぐことを警戒したからこそ、米国債市場には不穏な空気が漂い始めた。
債券市場に蟻の一穴
景気が回復しても低インフレは続き、FRBも本格的な引き締めには動かない――そんな株式市場のいいとこ取りシナリオだったのだが、債券市場に蟻の一穴が開き始めたのである。2月4日にジャネット・イエレン氏からジェローム・パウエル氏に議長が交代したFRBも、債券市場の動きには気が気でない。ポール・ボルカー氏からアラン・グリーンスパン氏にFRB議長が替わった2カ月あまり後のブラックマンデー(1987年10月19日に起こった米国発の世界同時株安)が有名だが、議長交代期にはマーケットが動揺しやすいからだ。
今回、FRBが神経を尖らせている要因は3つある。1つは、資産圧縮や利上げに動いているのに、昨年末まで米国債市場が馬耳東風だった点(債券バブル懸念)。2つ目は、その低金利を前提に株価が企業価値に比べて割高なところまで買い上げられている点(株式バブル懸念)。3つ目に、大きな声では言えないが、トランプ政権が何をしでかすか分からない点(政権への懸念)である。3日間で事なきを得たものの、1月20日には与野党の衝突から政府機関一部閉鎖にも見舞われている。
先に述べたムニューチン財務長官のドル安容認発言が、じわり冷や酒のようにマーケットを揺さぶり始めたのも、こうした背景があったからだ。米国は経常収支と財政収支がともに赤字であるが、トランプ政権の下で「双子の赤字」は深刻になりつつあった。本来なら、海外からの資本流入に支障を来さないように、強いドルを唱え続けなければならないのに、その逆の発言を繰り出したからだ。
そもそも米国が強いドルをマントラ(呪文)のように唱え出したのは、ビル・クリントン政権のロバート・ルービン財務長官から。1995年1月に就任したルービン氏は、「強いドルは米国の国益」「為替を通商政策の手段としない」と明言し、それまでのドル安路線を転換した。ルービン氏はゴールドマン・サックスの共同会長出身で、金融市場の機微に知悉していた。強いドル路線は世界の資本を引き寄せて米経済を再生した。その半面で金融の肥大化を招き、後に米国はリーマン・ショックに見舞われた。
インフレ再燃への不安
トランプ政権は、片方で金融界や大企業の利益を追求する共和党本来の路線をとりつつ、もう片方では自らを大統領に押し上げた、競争力を失った製造業の人々にも配慮してみせる。その意味で、「強いドルは米国の国益」とばかり言ってはいられないし、為替を「通商政策の手段」とすることにも躊躇しない。問題は政権のドル安志向にマーケットがどう反応するかだが、債券市場がまず拒否反応を示した。
米国債の利回りが上昇するには、それなりの合理性がある。1つは、低インフレの呪文にとらわれて、昨年まで債券が買われすぎていたことである。グローバルな投資家は債券でお腹いっぱいなのである。そんな中で少しでもインフレ懸念が生じれば、あるいは中央銀行が思ったより金融緩和にご執心でないと見れば、水鳥の羽音に驚く平家のような債券の売りが起きる。
10年物米国債の利回りについては2.6%が上限とされてきたが、すでにその水準を突破し、2月2日には米雇用統計(1月分)の発表を機に利回りが2.8%台に。30年物米国債は3%の大台乗せている。米国ばかりでない。ドイツでも5年物国債の利回りがマイナスから、わずかながらプラスに転じた。日本でも国債の利回りに上昇圧力がかかりだしている。
慌てたのは日銀である。1月9日に超長期国債の買い入れ減額を発表したのが騒動の発端と言われては元も子もない。2月2日には0.110%の利回りで10年物国債を無制限に買い入れる「指し値オペ(公開市場操作)」を7カ月ぶりに実施。国債利回りの上昇防止に必死の様子をみせた。日銀にとっての救いは、米雇用統計が好調だったのを受け、米長期金利がハネ上がった際に、ドル相場も持ち直したことだろう。
それにしてもマーケットの一連の動きは、経済運営の無茶振りを慎むようトランプ政権に対して求めるというシグナルである。幸いにも米経済は好調だし、企業業績も良好だ。世界全体で見ても、実質成長率は2016年の3.2%から2017年には3.7%に上向き、18年と19年には3.9%になるだろう、と国際通貨基金(IMF)では見ている。リーマン・ショック後10年にして、世界経済はようやく健康体に戻ったと見てよい。
トランプ大統領のダボス会議での講演や、米連邦議会での一般教書演説を聞いても、好調な経済を反映して、尖ったところを削って丸みを出しているように思える。
だが、最後に残る最大の問題は、米国でインフレが再燃しないかどうか。そしてFRBの金融政策がビハインド・ザ・カーブ(後手後手)に回らないか、である。米国のインフレ率は春先にかけて徐々に上がるだろうが、時の政権は債券市場の不安心理にきちんと向き合う必要がある。その点が心もとないのが悩ましい。とくに春の賃上げ交渉が山場を迎える日本にとっては。
青柳尚志