『ものごとの達成には二つの能力の結合が必要だと思う。』
先日、ミャンマーで長い手術を終えた深夜1時頃、スタッフたちを集め、話した内容だった。
こんな果てまで、お金と時間を使ってやってくる人たちがたくさんいる。
「人の役に立ちたい」「自分を変えたい」「もっと自分の能力を開花させたい」と願ってやってくるのだろう。
深夜まで働いて彼らはすっかり疲れ切り、私の話を子守唄に居眠りをはじめる者までいる...。
その様子を見てふと思うのだ。
この人たちは大して人の役に立つこともなく、自分をさほど変えることもできず、能力も大して開花などしないのだろう...と。
なぜかって?
それは、彼らが決定的に勘違いしていることがあるからだ。
スポーツの選手じゃないのだから、体力を鍛えても仕方がない。
もっというと、スポーツも究極は同じなのだが。
体を動かし働いたと勘違いしている。
満足している。
そりゃ、"感じ"としてはそうかもしれないが、歳をとれば体力なんてものは、当たり前のように落ちていく。
年もすれば、若い人たちに比べて働けなくなった自分を見て、きっと落ち込むことだろう。
昔は私もすごい働いた。
しかし、私はもう若くないから、、、、
と自分に言い聞かせながら。
それじゃ、何を鍛えればいいのか?
身体じゃなくて何を?
脳を鍛える!
これに尽きる。
脳を如何に鍛えるのか?
すべての人生の成果はこの一点にかかっているのだ。
ミャンマーの医療現場は、脳を鍛える場所であって、身体を鍛える場所ではない!
脳を鍛えるには?
脳を鍛えるには?
脳を鍛えるということは?
「この状況で、脳を鍛えるというのはどうすることなのか?」
といつも自問自答していなければならない。
身体をマニュアルや経験に沿って動かしているだけなんて、どうかしている。
そして疲れ切って居眠り...。脳を、ここぞ!というときに休眠させているなんて正気の沙汰ではない。
海を渡りここまできて、少なからずお金や時間を使って、この場所で自分の人生に向き合っていこうと本気で思っている人間に、私は、目先のテクニックや知識など、そんな安っぽいものを学んで帰ってほしいなんて、微塵も思っていない。
たとえそのとき、辛い思いをして、惨めになっても、あるいは挫折を味わったとしても、一生を通じて宝になるような経験や知恵を身につけてもらいたいと思っている。
そのためには、素直な心、謙虚な心、学ぶ姿勢を用意しなければならない。ねたみや比較など、つまらない過去の自分の殻に閉じこもって動かないような人間には、学ぶ資格すらない。
時間とお金がもったいない。
「ここを掃除しろ!」といわれれば、「なんで掃除しないといけないのですか?」と聞く前に掃除を始める。
掃除をしながら、なぜ私は「掃除をしろ!」といわれたのかを考える。そして、必死に考え、わからなければ聞く。
そういう姿勢が大切なのだ。
前置きが長くなったが、それを持っているという前提がなければ、以下、あえて読み進める必要はない。
『ものごとの達成には二つの能力の結合が必要だと思う。』
一つ目は「気づきの力」。
これが低いとその時点で成果は望めない。
気づきの力とは、情報力であり、感度であり、予想力である。自分の内部世界の変化を興す力。
これが突き抜けると、後に出てくるつ目の力が弱くても、まず成功すると思う。
しかしその場合の、突き抜けた気づきの力は、通常の力とは次元が違う。突き抜けたその力を例えるとすれば、いつもすごい占い師がついているような状態だといえるかもしれない。つまり、多くの人にはわからないし持つことはできないのだ。
ある手術を、経験豊富な医者と若い医者が行っている。
このとき、二人はほぼ同じ空間でほぼ同じ画面(光景)を見ている。
ところがその同じ光景から得ている情報量には、想像をはるかに上回る差が存在する。
その情報の差を元に、次の手技が行われるとしたらー。
結果も全く違うものとなることが理解できると思う。
一流の棋士とそうでない棋士との差も同じ。
何百手先まで読める人間と、そうでない人間が将棋を打てば、どうなるのか?
ある患者のベッドサイドへ行き診察したとき、能力、すなわち脳力が高い看護師とそうでない看護師では、どのような違いを患者にもたらすのだろう?
この力は鍛えることができる。
そして効率よく鍛える方法もある。
今時の人たちは、皆、恵まれて育ってきたのでこの力が弱い気がする。
この力の成長を妨げる最大の障壁は、"過去の自分"であると心得ておいたほうがいい。
また、経験の浅い人間、自分に自信がない人間、成功体験の少ない人間のほうが大きくこの力を手に入れることになる。
なんだか、浄土真宗の開祖、親鸞上人の悪人正機のようではないか。
そして二つ目の力、それは動く力。
これは、自分の外部世界を変える力。
この力の発動の大敵は、時間ということになる。
時間を空ければ迷いが生じ、力が弱まる。
思いや意志もエネルギーであるので、時間の経過とともに弱くなり、やがて崩壊する。
動き出すまでの時間、これは長くなってしまってはいけない。もちろん動き出してからも、そのスピードが遅いと、ゆっくり振り下ろした刀のように切れが悪いのだ。
心と身体がともに刀に乗り、一気に振り下ろす。そういうイメージのあり方がいい。
この二つ目の力も効率的に鍛える方法はある。
この一つ目と二つ目の力は別々に存在し、別々に鍛えることとなる。
この二つの力はまったく性質の違う別物なのだ。
だから、別々に鍛えなければならない。
だが、その合力で事を成す。
ネクラだとか、内気だとか、はずかしがりやだとかいって、嘆く必要もない。
やれば、どちらの脳力も上げることができる。
たとえば、うちの次男は一つ目の力は優れているのに二つ目の力がかなり平均を下回る。
ところが長男はまったく逆。
それぞれの性質や性格の違いからであろう。
それが理解できていると、どちらに重点を置いて導いていけばいいのか、どんなアドバイスや励ましを与えればいいのかもわかってくる。
本当に自己変革する、自己の可能性開花したい、目先の薄い成功や知識や技術ではなくて本当に役に立つ実力を付けたいというのならば身体以上に脳を使う必要がある。
身体以上に使える脳を用意する必要がある。
だからこそ、脳を鍛える。
脳を鍛えにきたのだと理解していない人間は、ただ身体を動かしてここを去っていくことになる。