弦の引きがなければ弓矢は前に飛ばないように、ジャンプするときの屈曲がなければ高さが望めないように、人が成長するためには必ず成長の方向と逆方向の力が必要となる。
これについて大切なことがある。
それは、逆方向の力がかかるのは、必ずその初期の段階であるということ。
そして逆方向の力を長く引きずると、必ず失速するという事実。
経験上、ストレス、たとえそれが、ある時期の学校でのいじめ、入社してからあるいは職場が変わってからの上司からのパワハラなどでも、見方を変えれば人生や能力アップのためのバネになるということである。
そのストレスが、どのように結果に作用するか、人生がめちゃくちゃになるのか、それともその経験がもとでより成長し上手くいくのか?
問題は、そのストレスのかかる時間の長さにあると思う。
例えば、長く弦を引きすぎるとどうなる?
ジャンプ時の屈曲を長時間するとどうなる?
と考えれば良い。
弦を長く引きすぎると弦が切れるか、腕が疲れて弦は緩む。結果、前への飛距離は著しく損なわれる。ジャンプ時の屈曲を長くすると、疲れて立てなくなるか、膝がこわばんで伸びなくなる。結果、ジャンプ時の高さが失われる。
それと同様に、虐待やいじめ、パワハラは長時間行われてはいけない。そこから早めに救い出す必要がある。良いタイミングで救い出された人は、それを受けなかった人より、この理屈からいうとより成長することになる。
「虐待」「いじめ」「パワハラ」は、適切なタイミングとそれを受ける時間によって、「しつけ」「注意」「指導」と意味をかえ、その経験は次へのバネとなるのだ。
人生、成果と損失は裏表。
鹿児島の離島、徳之島から出た日本最大の医療グループのひとつ、徳洲会病院をつくった徳田虎雄の成果を成し遂げさせたのは一体誰なのか?
私は、彼がいなかったら、日本の救急医療の発展は10年ほど遅れていたのではないか?と思っている。
その彼を初期の段階でしきりに潰そうとしたのは誰だったか?
それはなんと日本医師会だった。
徳田虎雄自身は、この医師会との闘いによって成長したと思う。多分、相手が強敵ゆえ医者を辞めて国会議員にもなったのではないだろうか? だから私に言わせれば、現在の徳洲会グループを生み出したのは、皮肉にも日本医師会だったということになる。
最初から、徳田虎雄を無視しておけば、彼は地方の巨大病院のいち経営者程度に収まって、全国にまたがる今の徳洲会グループはなかったかもしれない。
しかし、彼は少し長く医師会と闘いすぎた感がある。
その期間をもっと短くしていたら、今頃どんな組織になっていただろうか?
翻って、自分にその理屈を当てはめてみたときに、軍政下のミャンマーに単身乗り込み、それなりの苦労をしてここまで来たのだが、どうしても自分でなければならない、自分がやらなければならないと意気込んでここまで来てしまった。
ミャンマーの医療レベルのお粗末さに時に怒りを覚え、気の毒なこの人々のためにもっとがんばろうと、どんどん自身を先鋭化してここまでやってきた。そしてそれなりに仲間や支援者たちを得て、それなりにやってきた。
しかしある時、ふと、時間の流れの中に何か大切なものを忘れてきたのではないか?と感じたのだ。多分、長く弦を引きすぎた。
だから決心したのだ。
できるならばもう一度、弦をゼロ点に戻して引きなおそうと。
大きな人間になりたいと思いながらここまでやってきたのに、その疲れや必死さから気がつけば時に人を傷つけ、仲間を信用することもできずに、心から大切にもできていなかったのではないか。
家族は、分かってくれる、信じてくれているはずと勝手に都合よく思い込み、妻や子どもたちに迷惑をかけここまでやってきたのではないか。
こんな人間が、大きな人間であるはずがない。
大きな人間になりたかったのに、なんとちっぽけな人間に成り下がっていたのだろう。
そう気付いた。
そう気付いたとき、心に一つ、フレーズが思い浮かんだ。
"オープンマインド"
心開けば、世界が違って見えた。
自分がやらねば、自分しかいない、と信じ込んでいた頑なな心を開いてみたら、そこに多くの才能ある人々を発見した。
自分が一番がんばっていると思っているその思いを手放したら、自分はなんと多くの人に支えられているのか、そしてその向こうにそれぞれがんばっている多くの人たちの顔もはっきり見えてきた。
私がいない間の日常を、苦労しながらも生きてきてくれた妻や子どもたちの姿、それを支えてくれていた自分の母親の姿も見えてきた。
私は長く屈曲しすぎていた。
だからもう一度、今度こそ高く飛ぶために、いいタイミングで膝を伸ばして見せるのだと誓った。
心をオープンにし、多くの才能ある人々を発掘し、サポートしていくと決心した。
それこそが社会を最も潤すことになると心底、分かったのだ。
そして今度こそ、ビッグな人間になろうと決心している。ビッグな人間とはより多くの人々のその才能を開花させ、成長させた人に与えられる称号かもしれない。私の本心が大きな人間になりたいと言っている。
そのためには、心を開き、世の中のあらゆることを見ていきたい。
心を開き、多くの人たちに接していきたい。