小ネタ。先日シノドスに、スポーツ指導の際の体罰に関する文章を書いた。
「「体罰は許されない」では解決しない理由」(SYNODOS 2013年10月7日)
その際、ちょい話がずれるし長くなるし個人的な経験だし、ということでカットしたネタにちょいちょいと足したものをここにおいとく。
中学生のころ、学校で体罰を受けた経験がある。私が通っていた中学校の歴史の教師は、教科書など忘れ物をしたり、授業中に騒いだりした生徒に、チョークで上から頭を突くという罰を行っていた。軽い罰はチョーク1回。重くなると2回、3回と増えていく。私も何度かこれをやられたわけだが、そこそこ痛かった覚えがある。
体罰を行う教師は、私が通った区立中学では既に少数派だったが、体罰自体が問題としてとりあげられることはなかった。そのくらいの感覚だったということだろう。常識はずれという印象もなかったから、暴力に対する考え方が、社会全体として今よりかなり緩かったということなのだと思う。
もちろん、チョークを頭に落とされるのは痛いし恥ずかしいしでいやだったが、耐えられないほどにいやだったかというと、正直それほどでもなかった。そういう時代だったからといえばそれまでだが、ちょっとがまんすればすむ、ぐらいの認識だったような気がする。
それよりはるかにいやだったことがある。高校、大学にいた間、私は運動部に属していた。今でいうソフトテニス、当時の言い方では軟式テニスだ。運動部ではあるが、いわゆる弱小チームだったし、それほど練習の厳しい部ではなかった。どちらでも、体罰を受けたことは一切ない。だからその意味でいやなことはなかったが、1つだけ、嫌で嫌でしかたなかったことがある。
練習中に「ファイトー!」みたいな声を出すことだ。
今の運動部でこういうことをやっているのかは知らないが、少なくとも当時は、練習中にこうした声を出し合うことが一般的に行われていた。自分で声を出すこと、他人が出した声を聞くことで、互いを奮い立たせる目的だったのだと思う。合理的なやり方なのかどうかは知らないが、全員でそれを言い合うことで連帯感を高める効果、あるいは集中していることをアピールする効果なのかもしれないが、何がしかの「効果」があること自体は自分でも理解していた。
それでも、自分でそうした声を出すことには強い抵抗感があった。どのくらい強い抵抗感かというと、それを理由に辞めようとまでは思わないものの、そのために練習に出ることを疎ましくは思うレベル、といったところだろうか。見つかると怒られるので見つからないようにしながら、できるだけ声を出さないようにしていたのを思い出す。
今考えてみればどうでもいいようなささいなことであって、なんでこんなことにこだわっていたのか今ではよくわからない。運動部特有の閉鎖的なコミュニティゆえの同調圧力への嫌悪感だったのかもしれないし、「一生懸命」であることを恥ずかしく思う中2病的な自意識のせいだったのかもしれない。それも今となってはどうでもいい話だ。
スポーツ指導における体罰スキャンダルを聞いてすぐに思い出したのは、この2つの話だ。人が何を嫌い、何に傷つくかは人によってちがうだろう、と瞬間的に思った。くりかえすが、私にとっては頭にチョークを落とされる体罰より、練習中に声出しを強制されることの方がはるかに嫌だった。もちろん授業とスポーツの練習とはちがうわけだが、少なくとも私にとって、これらは同種の「避けたいこと」であり、かつ体罰はその「避けたいこと」の中で必ずしも「最悪」というわけではなかった、ということだ。
私のケースは私だけの特殊事情なのかもしれないが、まったく一般性のない話だとも思わない。世間の風潮で気になるのは、体罰は暴力だからいけないという理屈が、暴力、つまり物理的な力をもって行うものでなければいい、という意味にとられてはいないか、ということだ。叩かれるより厳しく口頭で言われることの方が嫌、という人もいるのではないかなあ、と。
先日、子どもが悪いことをしたとして親から怒鳴られると、抑うつ症状や攻撃的な行動のリスクが上昇するなど、たたかれたときと同じ問題が生じる可能性のある、という研究結果が発表された。
(ウォールストリート・ジャーナル日本版2013年9月09日)
米国ではおしりをたたくことがタブーになっている共同体が多い一方、怒鳴ることはそれほどには世間体が悪くない。
研究者たちは、親たちが体罰はいけないが怒鳴ることは許されると思っているのではないか、と警鐘を鳴らしている。どちらも悪い影響があるのに、片方は問題ないと思われているのだとしたら、その方が深刻なのではないか、というわけだ。
スポーツ指導の現場での体罰は少なくなっているのかもしれないが、怒鳴りつける指導は、あまり問題視されていないのではないかと思う。テレビなどでも「鬼コーチ」みたいなのが出てくるとたいてい大声で怒鳴っていて、よく聞くとけっこうひどいことを言っているケースも散見される。それらが平気で放映されているということは、世間的にもさほど問題ないと思われているということだろう。
それは本当に、問題ないのだろうか。横浜市が中学生のスポーツに関して行った調査の中で、スポーツをやめた生徒に対してその理由を尋ねる質問をしている。
(横浜市・市民スポーツ環境調査 2005年3月)
民間・地域のスポーツクラブをやめた生徒は、試合・大会での成績、練習内容のレベル、技術が上達しないなど、競技そのものに関する理由を挙げているのに対して、学校の運動部・クラブを退部した生徒は、仲間・指導者との人間関係、練習日数などを理由として挙げている。
ここでいう「仲間・指導者との人間関係」が何を意味するかはいろいろなケースがあるだろうが、ひどいことをいわれて嫌気がさした、などという例がないはずはないと思う。学校の運動部・クラブは、民間・地域のスポーツクラブと比べてコミュニティとして閉鎖的だし、指導者の立場も強い。そうした圧力を前提としたことばは、そうでない場合に比べて、相当に強くのしかかってくるだろう。場合によっては、一般的には「やさしいことば」とされるものですら強迫めいて聞こえたりするかもしれない。
もちろん、スポーツ指導の際の暴言は、体罰と同様、やってはいけないこととされている。シノドスの記事でも引用した文部科学省の「運動部活動での指導のガイドライン」でも、ことばによる暴力は禁じられている。
(運動部活動の在り方に関する調査研究協力者会議2013年5月27日)
体罰等の許されない指導と考えられるものの例
③パワーハラスメントと判断される言葉や態度による脅し、威圧・威嚇的発言や行為、嫌がらせ等を行う。
④セクシャルハラスメントと判断される発言や行為を行う。
⑤身体や容姿に係ること、人格否定的(人格等を侮辱したり否定したりするような)な発言を行う。
⑥特定の生徒に対して独善的に執拗かつ過度に肉体的、精神的負荷を与える。
とはいえ実際の現場で、何がここで許されないものにあたるのかを判断するのは、そう簡単ではない。人間は1人1人体力もちがうのと同様、考え方も感じ方もちがう。私にとって体罰より声出しの強制の方が苦痛だったように、ある選手にとってまっとうな指導の範囲内であることが、別の選手にとっては耐えがたい苦痛であったりすることも充分考えられる。科学的、客観的には適正な範囲であったとしても、それが不適切な結果につながることは充分ありうる。
とはいえ、別に、あれもだめだこれもだめだといいたいのではない。いちがいに判断できない部分が多いのだから、単純なルールで一刀両断にするようなやり方ではだめだと主張したいのだ。ガイドラインが「様々な条件を総合的に考え、個々の事案ごとに判断する必要があります」としているのはまさにそのためだろう。同様のことは体罰についてもいえるが、ことばの方が判断はより難しいと思う。
そうであれば、必要なことは、まわりからあれはだめだこれはだめだと騒ぎ立てるのではなく、科学的、社会的な許容範囲や適切な方法はこれと示しつつ、外部の目も導入しつつも、現場の指導者にある程度の裁量の余地を残しておくことなのではないだろうか。それぞれの選手の事情を最もよく理解できる立場にいる専門家である指導者をがんじがらめに縛ってもいいことはあまりない。それより、体罰に走ってしまわずにすむような環境の整備に努めた上で、ある程度のところまでは信じて任せるという態度の方がいい効果を生むのではないかと思う。
(2013年10月16日の「H-Yamaguchi.net」より転載しました)