昨日、報じられたこの件について、少し。クラウドファンドで上映資金を募集していて、いくらか出した程度の「プチ当事者」でしかないので、内容の是非を論じれる立場にはないのですが。
関係者によると、やらせを強いられたのは同町の仮設住宅に暮らす70代の女性。梅村監督らに対し、女性は当初、出演を断ったが、撮影班が何度か訪ねるうちに承諾したという。数回目の撮影中、女性はラジオを聴くよう求められた。普段聴いていないことを伝えたが、撮影班は「聴いてるふりをしてください」と指示したという。
映画「ガレキとラジオ」は宮城県南三陸町の災害FMラジオ「FMみなさん」の活動を追ったドキュメンタリー。ラジオの製作者はみなさん素人の方々で2011年5月17日から2012年3月31日まで続けていました。財政難で終了してしまいましたが、被災した多くの方を勇気づけていたとのことです。
問題となっているのは、この映画に登場するある女性が実際にラジオの電波を受信できない地域にお住まいにも関わらず、映画の中ではラジオのリスナーとして登場していたこと。やらせ、過剰演出と媒体によって書き方の差異はありますが、報道を見る限りですが、ラジオを聴いていない女性に対して、映画の制作側がラジカセとCDを用意して聴いてもらい、いくつか台詞の指示をしているようです。
やらせと過剰演出の境界線をここで考えるつもりもあまり無いのですが、この映画の製作陣の姿勢に気になる点があります。
朝日新聞と梅村太郎監督との一問一答に如実に現れていますが、なんだかやたら泣かせたがっているように思えます。
女性はリスナーさん候補で、いろんな方に聞いているなかで出会いました。いろんな苦しい方がいらっしゃるけど、ちょっと話すだけでワンワン泣いちゃうというあの人の苦しみも、ちゃんと切り取らないとなと。
<中略>
――震災の遺族を捜していたんだと思うんですが、女性でなければいけない理由はないのでは?
女性の悲しさで僕らも泣いたくらい、悲しい人だったから。
これが件の女性を登場人物として選択した理由だとしたら浅はかな考えでは。お客さんを泣かせればいいと考えているように感じ取れます。
梅村監督は、阪神・淡路大震災で被災されてオウムなどの事件があって震災が風化してしまったことに危惧を感じたと語っています。映画は寿命が長いから記録として価値があるだろうとも。
しかし、「記録」というのなら、そこに製作者の作り物を混ぜ込ませてどうするのか、と。ドキュメンタリーを作る時にも仕掛けを施すことはありますが、(台詞などの)リアクションまでもし指示していたのなら、純粋に記録と呼べるかどうか。
それに映画なら寿命が長いという認識にも違和感があります。映画だから長く愛されるのではありません。忘れられた映画なんていっぱいあります。分厚い中身があって素晴らしいから後世に残るだけです。
一問一答を読む限りでは、悲しみや泣いたことに捉われているような印象を受けます。もしかしてその涙を誘う「物語」に作り手自身が魅せられているのかもしれない。
涙はカタルシスなので、時に思考を曇らせます。こういう姿勢はとても大事なこと。
以前ブログでも紹介しましたが、ホロコーストについてのドキュメンタリー「ショア」を作ったクロード・ランズマンはスピルバーグのシンドラーのリストを批判する時にこう云っていました。
「涙を流すべきではない。シンドラーのリストは多くの人の涙を誘うだろう。だが、涙はカタルシスだ。感情浄化によってホロコーストの本質まで流されていってしまうのではないか。」
涙はすぐ乾きます。風化を止めるために有効なのでしょうか。本当は何を伝えたかったのでしょうか。
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(2014年3月6日「Film Goes With Net」より転載)