シバタアキラさん
何人分の人生だろう。そう感じさせる濃い人生だ。高校中退、英国での素粒子の研究者生活、渡米、コンサルタント業、そして、情報収集アプリ「カメリオ」の開発。一見バラバラなその要素が、白ヤギコーポレーションCEOシバタアキラさんと話すうちに見事につながっていく。「深く知ることは、生きること」。そう語るシバタさんの半生を聞いた時、彼の目指すものが見えた気がした。
シバタさんが手がけるカメリオは、「深く知ること」を支援するキュレーションアプリだ。300万以上のテーマから好きなものを選べば、ユーザーのこだわり理解して最新記事が届く。例えば「スタートアップ」や「マーケティング」といったテーマを選ぶと、自分が必要としている情報を深堀りできる。マイナーなテーマでも、そのジャンルに詳しい関係者が必ず目にする情報を拾ってきてくれるのが、マスへマスへと対応していく傾向のある最近のニュースアプリと異なる。
関心のあるテーマを選ぶだけで、ユーザーのこだわり理解して最新記事が届くという
「素粒子は宇宙の根源。でも自分の研究は世界とつながっていませんでした」と、研究者時代を振り返るシバタさん。「自分がやっていることに対するフィードバックが欲しい」と、起業を視野に入れてコンサルタントへ転身。その後、「コンサル的アプローチでは起業できない」という思いを抱えながらも、カメリオ開発に着手する。脈略もないキャリアがどのように結びついたのか。シバタさんが起業に至るまでの半生を聞いた。
パソコンの分解にハマった中学時代
初めてパソコンを買ってもらったのは中学時代。マッキントッシュ・カラークラシックⅡで、まだフロッピーの時代でした。
父がハードウェアのエンジニアでしたが、なぜか「これからはソフトウェアの時代」と信じていて、出張先で買って来てくれたんです。まだインターネットがない時代だったのでできることは限られていましたが、Mac関係の本を買っては中をいじってカスタマイズしていました。
14歳のころには、Cコンパイラを使ってプログラムを書いたりはしたのですが、まったくピンときませんでした。プログラミングにはハマらなかったものの、OSを酷使するのは楽しかったですね。どこまでやったら壊れるのか、っていう。壊れると爆弾の絵の入ったダイアログが出てくるのでハラハラしていました。
「好きなものを見つけたい」と高校退学
今から振り返ると、昔から集団行動が苦手でした。私がいたのは中高一貫のガリ勉が多い進学校。「将来は弁護士になる」と言っているような人が多い学校で、クラスメイトとは話が合いませんでした。
一方の私はサブカルチャーに影響を受け、また村上龍や島田雅彦が好きで、いろんな思想に染まったり、音楽が好きでバンドをやったりしていました。好きだったのは、レッドツェッペリンやオアシス、レディオヘッドとか。学校が終わるとCD屋で片っ端から視聴して、暗くなったら帰宅する生活を送っていました。
当時、映画『トレインスポッティング』が上映していて、18禁だったのですが年を偽って2回映画館で見たのを記憶しています。ユアン・マクレガーがいる世界に憧れて、転じて英語が話せるようになりたい、何を話しているのか知りたいと思うようになったんですよね。
そのころ好きだったパンクロックの発信していたメッセージは、「自分のやりたいことをやるんだ」というものでした。やりたいこと、知りたいことを学ぶのは苦ではないけれど、学校の授業のほとんどに興味を持てず、授業中は睡眠時間として使ってました。その結果、英語は95点なのに、社会は20点、数学は3点とかになってしまう。
大学に行く理由も分からなくて、結局高校は辞めてしまいました。退学は自分の中でも大胆なことでしたが、とにかく時間を無駄にしたくなかったんです。運命的に何か強くやりたいことが見つかるまで行動したくない。そのためには「とりあえずここを出ないといけない」と考えたんです。
日本一パスタ作りがうまい起業家
それから2年くらいはフリーター生活でした。最初に働いていた渋谷のシェーキーズは食べ放題をやっている店で、1時間に200枚くらいピザを作っていました。そのほかにはコーヒー屋、スパゲッティの店などでも働きました。そのころかなり作ったので、パスタは今でもたまに作ったりします。パスタを作るのが日本一うまい起業家かもしれませんね(笑)
そういう環境だと、接する人たちもかなり違います。「世界にはこんなやついるんだ」という驚きの連続でした。世界の広さを感じて、刺激がたくさんありました。
バイト生活の最後の半年くらいは、留学するための準備をしていました。中学のころからずっと海外に行きたかったんです。学校の夏のホームステイでカナダに行った時の異世界体験から、まだ見ぬことに満ち溢れている世界に憧れを持っていました。
英国留学生活、物理学への転向
親からは「大学に行け」と言われていて、イギリスの大学に行くことにしました。アメリカはみんな行くので行きたくなかったんですね。人と違うことがしたかったし、イギリスのバンドが好きだったのもあります。
イギリスには国立大学しかなく、現地の学生には学費が安価でした。ただし留学生からは無制限にお金が取れるので、入学基準が緩かったみたいです。英会話学校にも長く通っていたので、英語には自信がありました。でも、実際に留学生活が始まると、なまりも激しいし、授業の内容も難しくて苦労しました。
イギリスにはイギリスならではの作法があって、お作法をわきまえない外部者には入っていくのが難しいところです。もともと日本文化の堅苦しさがイヤで出て行ったところがありましたが、イギリスはその点あまり変わらない堅苦しさを持っています。ビール文化なのに私はほとんど飲まないこともあったり、カルチャーの合わなさを感じました。
電子工学を専攻したのですが、ソフトウェアが一番面白かったですね。何というか、分かる。1聞くと10わかるので、自分にはセンスがあるかもしれないと感じました。そうするうち、基礎として習った物理学の授業が面白くなってきました。
物理学は、歴史上最も古いサイエンスの一つです。イギリスにはニュートンをはじめ、学問の先駆けとなる人物が多く、物理学を学ぶには恵まれた環境でした。そこで、途中から物理学に転向することにしました。
素粒子は最高にクール!
物理学では、素粒子を専攻しました。素粒子とは物質を構成する最小の単位です。つまり、ここより深いところはない。それがめちゃくちゃクールだと感じました。「素粒子よりかっこいいものはない、一番根源のところに来た」と。
素粒子の世界はビッグデータサイエンスの花形でした。「これこそ私のやりたいこと」と感じて、シミュレーションしたりデータ解析したりして日々を過ごしていました。
就職も考えましたが、授業料は大学が出してくれるし、少ないながらも給料が出るところに引かれて、博士課程に進みました。2004年のことです。お金をもらって面白そうなことをできるならいいと考えていたんですよね。
それからしばらくして、尊敬していた共同研究者の方が教授になってニューヨーク大学に行くことになり、彼にアシスタントに来ないかと誘われて、二つ返事で行くことにしました。2007年のことです。
研究は続けていたものの、研究者生活2年目くらいから行き詰まりを感じていました。大きい意味ではやりたいことがやれているはずなのに、楽しめていない。一方で、教授にならないかと誘われるなど、辞めるのが難しい状態になっていました。
CERN(欧州原子核研究機構)にあるコントロールルームにて(2008年当時、写真は本人提供)
世界からフィードバックがほしい
そんな時期に、コロラドからユタ、ネバダ、アリゾナあたりを車で旅しました。そこには地球じゃないみたいな光景が続いていました。旅行中のある時、朝にパンクして、昼は池にはまって、電波も通じなくて……。子どもと妻もいっしょでしたが、本気で泣きましたね。そこに通りがかりの人が来てくれて、「干上がっているけれど、普段はここは湖なんだよ。先週は車がひっくり返ってたよ」と。すっかり人生観が変わる体験でした。
その体験は大変だったんですけど、すごく刺激的で。人生ってこんなに楽しくなるんだ。これまでやっていたことも楽しかったけれど、ここまでは楽しくなかった。生きるってこんなに楽しくなり得るなら、今やっていることは辞めて、もっと楽しめることを探さなきゃ、と。
「自分の研究は宇宙のことだからみんなに関係している」と信じていたものの、実際はそうじゃなかったんです。2008年のリーマンショック時、私はマンハッタンに住んでいました。毎日多くの人がクビを切られて、すぐそこでは警備員に怒鳴り込んでいる人もいるのに、私には何も起きなかった。新聞もいろいろと書き立てているのに、自分は隔離された世界にいる。私がやっていることに対して世界から得られるフィードバックはない——。そう感じたんです。
その頃、ニューヨーク大学でIT系のスタートアップイベント「ニューヨークテックミートアップ」がありました。新しいアイディアやプロダクトが生まれる熱気に触れて、「自分もやりたい!」と起業に憧れを持ったのです。2010年のことでした。
起業を視野に入れてコンサルタントへ
実は、アメリカで3人で起業したことがあります。写真を撮っても撮りっぱなしになっている状況を改善したくて、画像認識技術を使って、見るべき写真とそうではない写真が分かるプロダクトを考えていたんです。でも、本業が別にあって片手間だったこともあり、短命で終わってしまいました。会社はどういうものか分からなかったし、集団行動が苦手で喧嘩ばかりしていたのもあります。
学者だったので、起業がどういうものかが分かりません。やはり会社を作るにはビジネスを知らねばということで、ボストン・コンサルティング・グループというコンサルティング会社に入りました。アメリカの会社でしたが、日本で働くことになりました。
さまざまな会社の手伝いをするので、短期間でいろんな人と仕事ができて刺激もありました。フィードバックが早いから、何かやったらすぐに反応ももらえました。クオリティが高い仕事をしなければならなくて大変でしたが、それがその後、自分の仕事における基準になりました。
コンサル視点では起業できない
弊社COO渡辺賢智とはコンサル時代からの付き合いです。半年くらい同じプロジェクトを担当して一日中ずっと一緒にいたのですが、気が合ったんですね。「起業したい」という思いが一致しました。やがて起業が現実的になってきて、毎週末、オフィスの会議室でビジネスのアイディアについて戦略会議を開いていました。
いろんなアイディアが出るのですが、コンサル的に見ると全部ダメに見えてくるわけです。カネ、ヒト、モノなど、我々で想像がつくのは最初の3カ月まで。それ以降は想像も及ばないことが広がっている。コンサル的アプローチでは絶対に起業できないと思いました。二人とも家族がいて制約があったので、待てば待つほどできなくなると思い、とにかく会社を退職することにしました。
どちらかというと、先のことはあまり考えない方です。先が見えると面白くなくなっちゃうから。経営者としてはダメなので、今はきちんと先を考えるようにしていますが(笑)
自分の宇宙をカメリオに乗せて読んでほしい
起業したのは2013年5月です。はじめは人の仕事を手伝ったりしながらアイディアを考えていましたが、そのうち、「情報収集」というアイディアが生まれました。
前職は仕事が猛烈に忙しくて、世の中で起きている情報を取りにいく余裕がありませんでした。たまに週末が休みだと、本当は自分の興味がいっぱいあるはずなのに、何をしていいかわからない。後で気がついたら、好きなアーティストが3カ月前に来日公演していたということもよくありました。
仕事でも同じです。例えばクライアントから、その日に発表した新製品の話をされても、分からないととても恥ずかしい。コンサルは3カ月ごとに担当するプロジェクトが変わり、業界も変わったので、日経新聞だけ読んでいたらいいというわけではなく、追わなければいけない情報が追い切れていませんでした。
人間の幅を持ちたいと思ったら、もっといろんな情報を追わなければいけません。たとえ忙しくても、大切にしたいものを持つエッジある人間でありたい。そういう面白みを求めている人たちを増やしたいというのが、「カメリオ」のテーマでもあります。やりたいことを見つける体験を提供していきたいですね。
カメリオのデザインは亀がモチーフとなっています。神話では亀の上に宇宙が乗っていたことになっていて、亀は宇宙の象徴です。リオはビブリオ、つまり本や書物という意味の言葉からきています。「あなたの宇宙をカメリオに載せて読んでください」という思いを込めてつけたのです。
深く知ることは生きること
コアなユーザーに「カメリオを見せてほしい」と頼んだら、「パンツをおろすようなものだ」と言われたことがあります。「そんなプライベートな単語まで入れて使ってくれているのか」と、最高に嬉しかったですね。
ユーザー数は約20万人です。今の収益源は広告とカメリオAPI。今後、使っている人のテーマに合わせた広告を出せる仕組みを構築していきます。テーマを企業がスポンサーできる広告商品を先日発表したところです。
カメリオに登録できるキーワード数は30個なのですが、あるコアユーザーにお会いした時、端末2台持ちでそれぞれ上限まで登録していてもう追えないから、もっと上限を増やしてほしいというリクエストを受けました。そこで、カメリオをシェアしたり、長く使ってくれる人には上限をアップすることも考えています。
研究者時代は、世界とつながれませんでした。今は苦労の連続ですが、すべての筋肉を使ってビジネスできていることを感じます。コンサルの時の仕事が子供相手に遊んでいたことに感じられます。今は相撲取りと戦っているような感覚ですね。過去の経験を総動員して、それでもどうなるかわからない。ただ、何をやっていても新しい学びがあり、全部楽しいです。
深く知ることは生きることです。まだ人の人生を変えられるまでには行っていないけれど、最終的に目指すのはその領域。人が新たな興味をが見つける瞬間には大きな価値があるし、人生を変える力がある。少しでも多くの人がやりたいことを見つける体験を手助けできればと思っています。
コアなユーザーに「カメリオを見せてほしい」と頼んだら「パンツをおろすようなものだ」と言われたことがあるという。画面はシバタさんのカメリオ
(2015年6月8日「HRナビ」より転載)