今年のクリスマスには、世界中で何千万人の子供たちが、サンタクロースなんてほんとうは存在せず、ママとパパと大人たちの口裏を合わせた嘘にすぎないことを知るのだろうか。
僕にもその日、その特別な日があったはずだ。
妹と二段ベッドに寝ていたころのことで、母に問い詰めたら「ああ、わかっちゃんたんか」と苦笑いして、それ以上の説明はしてくれなかった。
僕のふたりの娘たちにも、そんな特別な日があったはずだが、それも20年以上昔のことではっきりとは覚えていない。
その特別な日は、子供たちが、真実を、生きることと、死ぬことと、嘘と、物語と、現実を知る日でもある。
文化人類学者のマーガレット・ミードは、サンタクロースを通じて、それを教える良い機会でもあるという。
世の中にはたくさんのサンタクロースが存在する。
みんなが想像しているサンタクロース。
あるいは、サンタクロース伝説のもととなったといわれる4世紀ごろの教父聖ニコラオス(貧しさのあまり、三人の娘を嫁がせることの出来ない家のを真夜中に訪れ、金貨を投げ入れた。このとき暖炉には靴下が下げられていたため、金貨は靴下の中に入った。この金貨のおかげで娘の身売りを避けられたという伝説がある)。
あるいは、ロシアの伝説のバブーシュカ(イエスの誕生を知りベツレヘムへ向かっていた「東方の三賢人」がバブーシュカおばあさんの家に立ち寄る。生まれたばかりのイエス様に一緒に贈り物をしに行こうと誘われるが、用意ができていないからと断る。用意のできた彼女は3人を追って旅立つがいまだに追いつくことができない。だから、イエス様をみつけることができないバブーシュカは、クリスマスになると子どもたちの枕元にやってきて贈り物を置いていくのだ)。
あるいは、グリーンランド国際サンタクロース協会の公認サンタクロース(wikiによると現在世界で120人いるそうだ)。
あるいは、ケンタッキーフライドチキン店頭に立っているカーネルサンダースのサンタ姿。
あるいは、郵便局のおじさんたち(きのう、久しぶりに郵便局へ行ったら、局員たちが赤い上着を着ていた。僕の担当をしてくれた窓口の赤いジャケットを着たおじさんは、あろうことか、ハゲあがった額に円錐状の帽子を顎紐で固定していた)。
マーガレット・ミードは、そういうこの世のすべての、ややこしくて面倒くさい、サンタさんたちの存在の仕方、ないとはいえないが、存在そのものの仕方にさまざまなものがあるということを、教えてやるべき良い機会であるという。
あるものは想像上の存在だけどその物語がいかに多くの人に希望を与えているかとか、あるものは現実に触れる存在で、あるものは商業的なメリットのために作られたもので、あるものは、どこかのエライさんの号令でみんな嫌々赤いジャケットを着ているだけだ、とかいうことである。
たしかに、そのとおりだが、現在では、話はあまりにも入り込んでいて、その全体像を言い聞かせても、「嘘つき!」という返答しか返ってこないかもしれないので、よほどの忍耐が必要である。
まあ、しかし、心配することはない。
子どもたちは賢明である。自然と、世の中のことを学んでいく
妻が何かあるたびにいつももちだすので、当の次女が嫌がる話がある。
まだ、抱っこが必要だったころの話だ。
次女が急に心配して、こう言ったそうだ。
「ママは、死なないでね」
妻は言い聞かせた。
「誰でも、いつかは死ぬのよ。私もあなたも。それが私達なの」
次女はその言葉を聞いて、しばらく考え込んだ。
やがて、人間が死ぬ存在であることを理解したらしい、まだ小さな小さな次女がこう言った。
「じゃあ、ママも、死んでもいいわ」
そして、こう付け加えた。
「でも、私が死んでからにしてね」
サンタクロースがいようがいまいが、子どもたちはまだ小さなアタマで、この世界の現実を一歩一歩学んでいくのである。
(2014年12月19日「ICHIROYAのブログ」より転載)