私立大学に取って死に至る病とは?

一昨日ハフィントンポスト経由公開した、2014年7月17日、早稲田大学は死んだに対し下記コメントを頂戴した。私がこの記事で訴求したかったのは、今回の異常ともいえる早稲田大学の対応の背後にある私立大学に共通する病理であった。従って、率直にいってこのコメントは不本意である。しかしながら、この方の背後には同様の疑問を持つ多くの読者がいるに違いない。この事が、今回「私立大学に取って死に至る病とは?」のテーマで新たに記事を書く事にした経緯、背景である。既に公開した内容と重複する部分が多々あるかも知れないが、何卒ご寛恕願いたい。

一昨日ハフィントンポスト経由公開した、2014年7月17日、早稲田大学は死んだに対し下記コメントを頂戴した。私がこの記事で訴求したかったのは、今回の異常ともいえる早稲田大学の対応の背後にある私立大学に共通する病理であった。従って、率直にいってこのコメントは不本意である。しかしながら、この方の背後には同様の疑問を持つ多くの読者がいるに違いない。この事が、今回「私立大学に取って死に至る病とは?」のテーマで新たに記事を書く事にした経緯、背景である。既に公開した内容と重複する部分が多々あるかも知れないが、何卒ご寛恕願いたい。

山口氏が私学を目の敵にしている理由がよく分からないが、早稲田大学の調査委員会が日本の大学全体の博士号の値打ちを毀損したことは確かだと思います。

そもそも、早稲田大学建学の精神とは?

1937年に下記教旨の碑文が早稲田大学正門前に設置され、今日に至っているとの事である。

早稲田大学は学問の独立を全うし 学問の活用を効し

模範国民を造就するを以て建学の本旨と為す

早稲田大学は学問の独立を本旨と為すを以て

之が自由討究を主とし

常に独創の研鑽に力め以て

世界の学問に裨補せん事を期す

早稲田大学は学問の活用を本旨と為すを以て

学理を学理として研究すると共に

之を実際に応用するの道を講し以て

時世の進運に資せん事を期す

早稲田大学は模範国民の造就を本旨と為すを以て

個性を尊重し 身家を発達し 国家社会を利済し

併せて広く世界に活動す可き人格を養成せん事を期す

この碑文が示すポイントは、説明にある通り国立大学と一線を画す「学問の独立」、詰まりは「在野精神」といっても良い、国家権力から一定の距離を置いての自主独立の精神培養と科学的な教育・研究の実践であり、私立大学の持つべき正しい理念と理解する。しかしながら、早稲田大学が実際に今やっている事はこれとは真逆である。これでは、早稲田大学は一体何のため?、誰のため?、どちらの方向に向かい?、何をするのか?分らなくなってしまう。ずばりいって、今回の誤った判断は「早稲田大学が迷走しているから」というのが私の見立てである。

私学助成補助金という名の麻薬

平成24 年度時点で881 校に対し総額で3,239億円が補助金として交付されている。早稲田大学への補助金は慶応大学に続き第二位で95億円である。これだけでも本来国立大学と一線を画すべき「学問の独立」、「在野精神」は霧散してしまう。

そして、問題を更に重篤にしているのは「天下り受け入れ私大」ワーストは日大・早稲田という悍ましい実態である。大学教育の本来目的は有為な人材の育成である。有為な人材とは就職市場で価値のある人間といっても良いだろう。そういうミッションを背負った大学が文科省で使い物にならず、就職市場でも全く評価されず、転職出来ない官僚のゴミ捨て場と成り下がっては最早「学びの場」とは言えない。そんな腐臭の漂う校舎で学生が勉強する気になるとはとてもではないが思えない。早稲田の学生が学校に来なくなるのは当然である。

何故、教育・研究の実践が巧く行かないのか?

それでは、何故早稲田大学建学の精神に則り、教育・研究の実践を進めるのが難しいか?である。二つの理由が頭を過る。第一は、ブラック早稲田大学を刑事告発-教員の6割占める非常勤講師4千人を捏造規則で雇い止め|松村比奈子氏、である。大学教育の中核に位置する大学教員の6割が非常勤講師というのは、流石に開いた口が塞がらない。上述した、文科省よりの大量天下り受け入れに起因する腐臭同様これでは授業に魅力がなくなり学生が来なくなる。

今一つは、早稲田大・非常勤講師の給与明細が語る"大学内搾取"の構造、である。幾ら何でも経費込みで年収250万円はあり得ないだろう。高級レストランであれ、ラーメン屋であれ、材料費を削れば取り敢えずの利益は上げる。しかしながら、味と顧客の満足は確実に急降下する。大学教育も同じ事ではないのか? 教員を安く雇えば教育の質が下がり、当然学生の質も下降する。その結果、自力で論文が書けず剽窃に走ったというのが今回の小保方氏学位論文問題の背景ではないのか?

早稲田大学は教育・研究分野での成果と、大学健全経営のどちらを優先しているのか?

このテーマは全ての私学経営者が頭を悩ませている問題だと思う。私学と雖も教育・研究での成果が出なければ、そもそも存在意義がない。日本から消えて下さいという結論になってしまう。とはいえ、教育・研究に身の丈以上の投資を行えば赤字が累積し経営は破綻してしまう。公表された資料を見る限りでは、早稲田大学は天下りを受け入れても補助金を取りに行き、一方、人件費の安い非常勤講師の人数を異常とも思える程に膨張させ経費の圧縮を図っているから健全経営重視の姿勢と理解する。

そしてその副作用として教育・研究が疎かになり、今回の小保方氏博士論文問題が起こってしまった。従って、この問題は飽く迄氷山の一角であり、早稲田大学の抱える体質的な問題が具現化したという話と理解されるべきである。露骨にいってしまえば、これからも早稲田大学が早稲田大学である限り何度でも繰り返されるという事である。

教育とは畢竟無慈悲に「切り捨てる」事

私は自分の体験から、「教育とは畢竟無慈悲に「切り捨てる」事」と考えている。私は40年近く前に自宅から一番近所の国立大学、阪大工学部に進学し何とか4年で卒業した。入学して直ぐに驚いたのは必修科目の授業に2年生の数が矢鱈に多い事であった。試験に落ちて再履修を余儀なくされている訳である。2年生の秋に工学部に晴れて進めるのか?それとも教養部に留年するのか?振り分けがあり、留年率が随分と高い事も知った。教養部は特に理系に対し厳しかったとの思いが今尚強い。

今でも当時と余り変わっておらず、大阪大学は、他の旧帝国大学・東京工業大学に比べて4年卒業率が極めて低いですけ...との事である。工学部は特に留年率が高く40%程度に達していたと記憶している。矢張り、同じ大学といっても入学金と授業料をきちんと振り込めば卒業させてくれる私大とは大きく異なる。大学の使命は無慈悲に学生を「切り捨てる」事と心得ているからである。

私は幸いな事に単位を落とす事なく無事4年生の4月に卒業研究のために研究室に配属された。その時に体験したのはまるでインドのカースト制度の様な序列であった。同級生の2人は学者志望で大学に残る積りでいた(後述する企業奨学金は辞退)。事実、その後も大学院に残り、2人共40才前後で母校の教授に昇進している。そして、成績優秀者上位3名への企業奨学金支給が公示された。

4年生となり卒業研究のために研究室に配属される頃となると、同期といっても2留、1留、ストレートが混ざり合う。一方、3年前に入学した時は確か40名の定員だったはずだがこの頃になると25人程に目減りしている。先生方の頭にあるのは多分大学に残る2人と企業奨学金が支給される事になった3人、合計5名程度だと推測する。

更に、半年後の9月に大学院の入試が行われ20名程度が合格した。そして、この20人の内7名に半年後の大学院修士課程進学後の企業奨学金支給が告知された。この7名は修士課程修了後、企業奨学金を支給する各企業に幹部候補生として入社したはずである。3年半前に40人の定員で入学した同期のコントラストは下記の通り鮮やかなものとなる。

成績上位5名:母校の大学教授及び奨学金支給元企業幹部候補生

成績準上位7名:奨学金支給元企業幹部候補生

成績下位8名(奨学金は支給されず):取敢えず大学院修士課程でチャンスを与えるといった程度の認識・扱い

学卒で就職5名:私もこの内の一人。馬鹿でどうしようもないが卒業はさせてやるといった程度の認識・扱い

退学者15名:医学部を再受験した者、行方不明等様々。

研究室に取っての戦力は飽く迄上位12名、そして大学での教育成果もこの上位12名という冷徹な事実である。私も含め切り捨てれれたものは、ある者は早いタイミングで大学を去り、ある者は大学院進学を諦め自分で就職先を探す。そして、大学4年で社会に出て行く自信のない者は、自身が評価されていない事を自覚しながら、それでも大学院にしがみ付く。一件冷酷で無慈悲な様だが競争させるためには多分最良の施策であろう。

英高等教育情報誌「TIMES HIGHER EDUCATION(タイムズ・ハイアー・エデュケーション)」が毎年秋に公表している世界大学ランキングのベースになる、World Reputation Rankings 2014が公表されている。東大が11位、京大が19位、阪大が50位という結果になっている。東大と阪大の入学時における学生のレベルには大きな乖離があり、阪大はそれを乗り越え随分健闘しているというのが私の印象である。その分、学生(特に理系)は大変な訳であるが。

「教育とは畢竟無慈悲に「切り捨てる」事」といっても私学の場合は学生は授業料を支払ってくれる大事な「お客様」である。阪大工学部の真似をしたら学生数が減り授業料収入が激減する。更に、志願者数も激減するかも知れない。従って、私学は学生を何時まで経っても「お客様」扱いし、甘やかし厳しく鍛え様とはしない。金になるから、本来は切り捨てるべき小保方氏の様な出来損ないでも大学院博士課程に受け入れてしまう。受け入れた以上は博士号を授与せねばならず、結果、今回の如き仕儀に至るのも必然である。一方、学卒で就活しても中々内定が取れないのも同様の理由である。

死に至る病は果たして治療可能か?

率直にいって難しい問題だと思う。やれる事から一つづつ手を付けるしかない。先ずは、監督官庁である文科省と大学の癒着の温床となっている私学助成補助金は早急に廃止すべきである。次いで、高校生の進路に大きな割合を占めている私立大学の学生受入数を正常化(縮小)すべきであろう。具体的には「職」に直結する「技能教育」、「職業教育」にシフトすべきと考える。

例えば、私学助成補助金を廃止し、これを原資に医療技術を学ぶ専門学校学生に奨学金を貸与してはどうだろうか?そして、3年後の卒業時に国家試験に合格すれば貸与した奨学金の三分の一を返済不要とする。更に病院など医療機関に3年勤務すれば、立派な医療技術者に育ったと認定し更に三分の一を返済不要とする。仮に、JICA専門家として政府開発援助案件で海外に一定期間赴任する場合は残り全額も返済不要とすべきであろう。税を今の様に天下りの紐付きで各大学にばら撒くのではなく、学費を必要とする貧しい若者に直接貸与し、国家試験合格やJICA専門家の如き国家への貢献に応じインセンティブを与えるのである。

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