なかなか興味深いプライバシー事案が話題になっている。
〝匿名で本音が投稿できる〟というモバイルアプリ「ウィスパー(Whisper)」を巡る騒動だ。
2年半前に登場、若い女性を中心に人気の広がったアプリだが、「実はユーザーを追跡している」と英ガーディアンがかみついたのだ。
しかも、ガーディアンはこれまで、ウィスパーとは協力関係にあり、このサービスを使った記事を掲載していた、という経緯もある。
ウィスパー側は当初、業界注目の〝編集長〟が「悪意に満ちたウソ八百」と全面的に反論した。
だが、2日後には一転、最高経営責任者(CEO)が「我々が完全でないことは理解している」と振り上げた拳を収める事態になる。
「匿名」「位置情報」とプライバシーの関係について、学ぶところがあったようだ。
●〝本音〟を共有する
ウィスパーがリリースされたのは2012年3月末。
ニューヨーク・マガジンなどの記事によると、今年1月には月間ページビューが30億を超す勢いで成長。
1日に260件のメッセージが投稿され、ユーザーの7割は女性、9割が18歳から24歳の年齢層だという。
その特徴は、〝匿名〟と〝本音〟だ。
アプリをダウンロードすれば、メールアドレスなどの情報の登録も必要なく、アカウント名も自動生成されて(変更も可能)、すぐに使うことができる。
ウィスパーには、近隣からの投稿を表示する機能があり、1マイルから50マイルまで、その距離も設定できる。
この機能の利用のためだとして、初回使用時に、位置情報の使用許可を求めてくる。
投稿の際には、文面を書き込むと、その内容に関連した背景画像の候補が表示される。背景画面を確定すると、グリーティングカードのようなレイアウトで投稿される。
日本語も問題なく通る。
投稿の内容は、ツイッターやフェイスブックのような、ニュースへのコメントといったものとは、やや趣が違う。
「元彼が私の親友とつきあい始めたけど、私ともよりが戻ってしまい、彼女はそれを知らない」といった、告白系の内容が目につく。
これらの投稿に、「ハート(お気に入り)」をつけたり「返信」したり、フェイスブックやツイッターで「共有」したり、といったソーシャル機能がついている。
〝匿名〟の〝本音〟サービスたるゆえんだろう。
「インターネットで最も安全な場所」――それがウィスパーのうたい文句のようだ。
●ユーザーの〝追跡〟
筆者のポール・ルイスさんは前特別プロジェクトエディターで現ワシントン特派員、ドミニク・ラッシュさんはテクノロジーエディターで、いずれもスノーデン事件報道にも携わってきたベテランだ。
記事のポイントは、ウィスパーが使っている内部向けの投稿管理ツールだ。
この管理ツールは、ユーザーの投稿と全地球測位システム(GPS)による位置情報を、グーグルマップ上で一覧できるというものだ。
米国防総省や米国家安全保障局(NSA)といった特定の場所からのすべての投稿を、位置情報からチェックすることが可能だという。
そして、実際に特定の組織に所属していると自称するユーザーを継続的に追跡しており、軍関係者やヤフー、ディズニー、連邦議会関係者が含まれるのだという。
ただ、GPSによる位置情報については、実際の地点から半径500メートルの範囲にまで精度を落としていると、ウィスパーは説明しているようだ。
ウィスパーのユーザーは、位置情報の利用を拒否することもできる。
約2割が位置情報の利用を拒否しているというが、その場合でも、GPSではなくIPアドレスから、おおよその位置情報を把握することがあるという。
さらに、利用規約には、ユーザーの利用データや投稿コンテンツの保存は〝短期間〟とあるが、実際にはサービス開始時からのデータが保存されているのだ、という。
これに加えて、米連邦捜査局(FBI)や英情報局保安部(MI5)への情報提供手続きも、他のテクノロジー企業に比べてハードルが低い、と専門家が指摘している。
また米国防総省と提携し、米軍関係施設からの自殺や自傷行為に関連した投稿について、研究者とも共有している、という。
ガーディアンが報道を事前通告した4日後、ウィスパーはその利用規約を突然書き換えた、とも指摘しているのだという。
●メディアとの連携
そもそもガーディアンは、ウィスパーとは協力関係にあった。
今年2月以降、ウィスパーでの投稿をベースに、バレンタインデーをめぐる投稿、イラク戦争の帰還兵たちの「イスラム国」への思いや、未登録移民のオピニオン投稿、などの記事を掲載してきた。
9月には関係強化の可能性をさぐるため、今回の記事の筆者であるルイスさんとラッシュさんの2人が、3日間にわたってロサンゼルスのウィスパー本社を訪れたという。
だが、内部の運営状況について理解するにつれ、関係強化ではなく、報道による告発へと判断がシフトしたのだという。2人が訪問した際には、秘密保持の同意などは一切していない、としている。
そして、ウィスパーの追跡対象というのが、目をひく。
ガザ侵攻中のイスラエル軍兵士、自称セックス中毒のワシントンのロビイスト――。
このロビイストについては、同社の役員はこうコメントしたという。
彼は生涯にわたって我々の追跡対象になるだろう。しかも、我々が追跡していることを、彼は気づきもしないのだ。
そして、すぐにもイラクに派遣されそうだという兵士の場合は、位置情報の利用は不可に設定していたが、IPアドレスから、アフガニスタンやカンザス州のフォートライリー基地などへの滞在を日付とともに把握していた、という。
追跡の目的は、ニュースになる話題をピックアップすることだ。
そして、その投稿内容が事実かどうか、位置情報や過去の投稿内容と照らし合わせてチェックをしているようだ。
ここに匿名の投稿が、プライバシーと絡む問題が生じる。
ウィスパーは、ガーディアンのほかにも、バズフィードなどウェブメディアとも提携。コンテンツ素材を提供している(ただ、ガーディアンの報道で、提携関係は見合わせることにしたという)。
ウィスパーのメディア戦略を中核を担うのが、〝編集長〟であるニーツァン・ジンマーマンさん。
ブログメディア「ゴーカー(Gawker)」で、トラフィックの大半を稼ぎ出し、バイラルコンテンツの〝マシン〟とも言われた、業界の有名人だ。
●〝バイラルマシン〟の反論
ガーディアンの記事に対して、ジンマーマンさんはまずツイッターで、徹底的に反論する。
ガーディアンの記事はウソのオンパレードだ。
その後、20本にわたる連続ツイートで反論をくりかえし、論点を整理した「ガーディアンへの回答」と題した声明を公表する。
ポイントは、この5ページ9項目にわたる声明文の中で、9回にわたって繰り返される表現だ。
特定個人の識別情報(PII)は、一切、収集も保存もしていない。
この表現を繰り返し使い、「ガーディアンの報道は間違っている」と同紙の指摘を否定していく。
ウィスパーは「特定個人の識別情報(personally identifiable information=PII)」の例示として、「名前、実際の住所、電話番号、メールアドレス」を挙げている。
そして、確かにこのアプリは「名前、実際の住所、電話番号、メールアドレス」の情報をユーザーに要求しない。
こういった情報を扱っていないのだから、プライバシーに関わるというガーディアンの指摘は当たらない――それがウィスパーのジンマーマンさんの論点になっている。
ただ、ガーディアンの記事によると、ウィスパーは、携帯電話の端末識別番号である「国際移動体装置識別番号(IMEI)」は取得しているようだ。
●「識別非特定情報」
ここで思い出されるのは、政府のIT総合戦略本部の「パーソナルデータに関する検討会」で話題になった、「識別非特定情報」という考え方だ。
昨年12月に出された「技術検討ワーキンググループ報告書」では、こう定義されている。
一人ひとりは識別されるが、個人が特定されない状態の情報(それが誰か一人の情報であることがわかるが、その一人が誰であるかまではわからない情報)。
ウィスパーの匿名投稿は、これに該当するように見える。
ホワイトハウスから匿名の誰かがこんな投稿をしている。だが、それが誰かはわからない――。
ただ、ホワイトハウスでウィスパーを使っている誰か、であり、その前後の位置情報や投稿の内容を追跡していけば、それがホワイトハウスのスタッフなのか、報道関係者か、陳情団か、絞り込んでいける。
同報告書は、こうも述べている。
一般的にインターネット等に公開されている外部情報との突き合わせによって識別非特定情報から個人を特定できる。
ガーディアンが指摘する米軍兵士の事例のように、アフガニスタンや米国内の基地への滞在履歴を位置情報として追跡していたのであれば、やはり個人を特定できる可能性は高まる。
ウィスパーは「PIIを収集も保存もしていない」と繰り返す。
ウィスパーいう「PII」とは、「技術検討ワーキンググループ報告書」のいう「識別特定情報」のことを指しているように読める。「識別特定情報」を、報告書ではこう定義している。
個人が(識別されかつ)特定される状態の情報(それが誰か一人の情報であることがわかり、さらに、その一人が誰であるかがわかる情報)。
●CEOは非難せず
ウィスパーは「PII」を扱っていない、と反論しているが、ガーディアンの報道では、そもそも位置情報とプライバシーの問題を指摘していて、名前や住所のような、最初から個人が特定できるような情報のことは取り上げてはいない。
この点では、事実関係に食い違いはないのだ。
そして、ウィスパーの共同創業者でCEOのマイケル・ヘイワードさんが、ガーディアンの報道から2日後の18日付けで、「メディアム(Medium)」にCEOとして初めての声明を投稿した。
この中でヘイワードさんは、こう述べている。
ガーディアンの対応には失望したが、私たちは議論を歓迎する。
さらに、こうも述べている。
我々が完全でないことは理解している。そして、ネットの匿名性のような新たな、急速に発展する分野について、分別のある人々が意見を異にすることもある、ということも。
そして、改めて「特定個人の識別情報(PII)は、一切、収集も保存もしていない」と繰り返している。
また、利用規約の変更については、ガーディアンの報道を受けたものではなく、以前から決まっていたものが、たまたまこの時期に重なったのだ、と。
だが、ガーディアンの報道については、反論も否定もしていない。
〝匿名〟を売りにしたサービスでは、「シークレット」や「イク・ヤク」などがしのぎを削る。フェイスブックも同種のサービスを準備中と言われている。
対応の遅れは命取りになる、との判断があったのかもしれない。
(2014年10月19日「新聞紙学的」より転載)