マクルーハンと「メディア論」をソーシャル時代に改めて考えてみる

マクルーハンのアフォリズム/キーワードでは、「メディアはメッセージである」のほかに、「ホットとクール」「グローバル・ヴィレッジ(地球村)」などが広く知られている。さらに、「メディアは人間の身体の拡張」「人間は機械の世界の生殖器」など、テクノロジーの進化と人間、社会の有機的なかかわりについての洞察の宝庫だ。

「メディアはメッセージである」など、数々のメディアにまつわるアフォリズム(箴言)で知られるカナダの英文学者、マーシャル・マクルーハン(1911―1980)。

その代表作『メディア論―人間の拡張の諸相(Understanding Media: The Extensions of Man)』の出版から、今年で50周年を迎える。

出版当時の「マクルーハン旋風」から数えると〝第四の波〟ともいえる、ソーシャル時代を迎えての再評価のタイミングだ。

ポイントは、「テクノロジー=メディア」の激変をどう理解し、行動するのかという「視点」のようだ。

●「メディア論」50周年

16日には東京・赤坂のカナダ大使館E・H・ノーマン図書館で「マクルーハンの跡を追って:『メディア論』刊行50周年」の記念イベントが行われた。

イベントのスピーカーには、マクルーハンの元授業助手で、トロント大学のマクルーハン・フェロー、デイヴィッド・ノストバッケンさんと、『マクルーハンの光景 メディア論がみえる』の著書がある青山学院大学教授の宮澤淳一さんが登壇。

さらに、ドキュメンタリー映画「マクルーハンズ・ウェイク(McLuhan's Wake)」(2002年 カナダ映画制作庁)が上映された

マクルーハンの基本的なコンセプトから、最後の著作『メディアの法則』で提示したメディアの4法則「テトラッド」(拡張/衰退/回復/反転)までを網羅した93分の作品だ。

この映画の日本語字幕は、宮澤さんが学生らとを手がけたものだという。

定員233人の会場には、幅広い年齢層の来場者が詰めかけ、マクルーハンへの関心の高さを伺わせた。

●マクルーハンとは

マクルーハンのアフォリズム/キーワードでは、「メディアはメッセージである」のほかに、「ホットとクール」「グローバル・ヴィレッジ(地球村)」などが広く知られている。

さらに、「メディアは人間の身体の拡張」「人間は機械の世界の生殖器」など、テクノロジーの進化と人間、社会の有機的なかかわりについての洞察の宝庫だ。

マクルーハンは、人間の機能が拡張されたあらゆるテクノロジーを〝メディア〟と捉える。

そして、新しいテクノロジー/メディアの登場は、人間の感覚を変化させ、社会を変化させる、と説く。

そのテクノロジーの進化のコンセプトは、サンタフェ研究所の経済学者、W・ブライアン・アーサーさんの『テクノロジーとイノベーション』やワイアードのケヴィン・ケリーさんの『What Technology Wants』など、テクノロジーをめぐる現在の議論にも直結している。

中世文学からジョイスやフロイト、さらにはポップカルチャーまで、多彩なアイディアや引用をモザイクのように組み合わせる。それらが互いにリンクしているかのような著作のスタイルは、理論というよりはアフォリズム(箴言)集のようだ。

まさにメディア向きといえるキャッチーなフレーズの数々によって、メディア研究のロックスターのようにもてはやされたマクルーハン。だがその一方で、著作の奥行きと幅広さ、複雑な構造が、難解と言われる原因の一つにもなっていた。

●マクルーハンの価値

このイベントの開演前、ノストバッケンさん、宮澤さんを含む専門家が出席したラウンドテーブル(円卓会議)が同図書館で開かれた。

司会は私の朝日新聞者の同僚、服部桂記者(『メディアの予言者―マクルーハン再発見』)、出席者は元金城学園大学教授の中田平さん(『マクルーハンの贈り物―インターネット時代のメディアを読み解く』)、ブロガーとして知られる日立コンサルティングの経営コンサルタント、小林啓倫さん(『今こそ読みたいマクルーハン』)、立命館大学准教授の粟谷佳司さん(『音楽空間の社会学―文化における「ユーザー」とは何か』)、北海学園大学教授の柴田崇さん(『マクルーハンとメディア論: 身体論の集合』)、早稲田大学教授の有馬哲夫さん(『世界のしくみが見える「メディア論」―有馬哲夫教授の早大講義録』)、京都造形大教授の竹村真一さん(『地球の目線』)。

英語による2時間の議論から見えてきたのは、メディア環境が激変する中での、マクルーハンの〝価値〟だ。

マクルーハンは、メディア環境の変化にともなって、繰り返し再評価の波が訪れる。

竹村真一さんの父、評論家竹村健一さんの『マクルーハンの世界』による紹介などをきっかけとした60年代後半の最初の「マクルーハン旋風」は、テレビ、広告の隆盛期だった。

80年代のニューメディアブームの中で、『メディア論』の新訳が出版されるなど、見直し機運が高まる。そして90年代から00年代にかけて、インターネットの広がりとともに、マクルーハンの〝第三の波〟が訪れる。

われわれはその中枢神経組織自体を地球規模で拡張してしまっていて、わが地球にかんするかぎり、空間も時間もなくなってしまった。

『メディア論』の「はしがき」のこの有名な一節は、インターネットの〝予言〟のようにも受け止められた。

今の再評価の動きは、2011年の「マクルーハン生誕100年」から、今回の「『メディア論』出版50周年」などを契機として、ソーシャルメディアやウェアラブル・コンピューティングといった新しいメディア、テクノロジーの台頭の中で、改めてマクルーハンの価値を問い直そうという潮流だ。

●次の段階

ラウンドテーブルでは、これらマクルーハン再評価の波について、出席者の〝マクルーハン体験〟とともに、様々な見方が披露された。

特に、90年代からのマクルーハンの再評価について、「まさにマクルーハンの理論が、インターネットのつくり出す状況にマッチしていた」と有馬さんは指摘する。

分野をまたがる多彩なアイディアを並列的に扱うマクルーハンのスタイル自体が、本人は目にすることのなかった「インターネットのよう」(服部さん)に映る。

そもそもマクルーハンの〝価値〟とは。

「マクルーハンが提供するのは実践的アドバイスではなく、新たな視点やアイディア。それによって企業に再考を促す。そこにこそマクルーハンの価値がある」

マクルーハンとともに、IBMなど企業に対するコンサルティングに携わった経験を持つノストバッケンさんは、そう述べる。

「誰が水を発見したかは知らないが、それが魚でないことだけは確かだ」――このマクルーハンの言葉は、メディア環境の変化の渦中にある当事者が、その変化を把握することの難しさを表現する。

それだけに、「グーグルグラスなどまさに〝人間の拡張〟となる新しいテクノロジーの理解に、マクルーハンのアプローチや視点は役立つ」と小林さん。

デジタル地球儀「デジタルグローブ」で知られる竹村さんは、自身の作品をグローバル・ヴィレッジの一つの提示の仕方、と位置づける。さらに「50年前、マクルーハンはテレビを取り上げて、〝メディアへの参加〟というコンセプトを唱えたが、まさにソーシャルメディアの時代になって、それがリアルになってきている」と話す。

では2010年代の、新しいマクルーハンの理解とは?

「マクルーハンも(同じトロント大学の教授だった)ハロルド・イニスの業績の上に理論を築き上げた。それをアップデートし、次のレベルへと超えていかなければならない」と、ノストバッケンさんは指摘する。

●バックミラー越しの現在

「われわれはバックミラーを通して現在を見ており、未来に向かって後ろ向きに進んでいる」

これも、現在の捉え方についての、マクルーハンの有名な言葉だ。

「マクルーハンにはまだ大きなポテンシャルがある。時間をかけてしっかりと読み返したい」と柴田さんら専門家は口をそろえる。

ならば門外漢としても、まずはマクルーハンを読み直し、そのバックミラーをもう一度、まじまじと見ておきたい。

(2014年4月17日「新聞紙学的」より転載)

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