みんなは「難民」と呼ぶかもしれないけれど、私にとってはおじいちゃんなのです

私の両親はイランの弾圧から逃げ回っていた。2人とも政治活動家で、死刑が宣告されていた。

トルコ、キャンプ・イェニシェヒル ― 私が生まれた日、それは、私が初めて難民と出会った日でもある。初めて見たのは、私の母だった。両親はイランの弾圧から逃げ回っていた。2人とも政治活動家で、死刑が宣告されていた。父の死刑宣告は2度目だ。私が生まれるまでの3年間、2カ月ごとに住む場所を変えながら、イラン国内を逃げまわっていた。

難民となった私たち一家は、アゼルバイジャン、紛争中のアフガニスタン、ウズベキスタンの3カ国を転々とした。その間、私は両親の本当の名前を知らなかったし、私たちがクルド人であることも知らなかった。

家と呼べる場所を見つけるまでに、10年かかった。やっとのことでスウェーデンの市民権を得た時、両親は初めて身の安全を確信し、私は初めて両親を本当の名前で呼ぶことができた。

その後、私はごく普通の子供として暮らすことができた。花火が打ち上げられるお正月には、その音が怖くてベッドの下に隠れてはいたけれど。アフガニスタンで体験した戦争とその花火の音は、私の記憶から消えることはない。

私が再び難民キャンプに戻ったのは、アフガニスタンへ戻った時のことだった。私は24歳で、スウェーデンテレビの放送ジャーナリストとして働き始めていた。それ以来、私はイラク、トルコ、シリアの数多くの難民キャンプを訪れてきた。幸いなことに、キャンプを訪問しているときには何も起こらなかった。私はラッキーだったと思う。

おじいちゃん

おじいちゃん、あなたは人生の最後の数年間を、こんなふうに過ごすなんて思わなかったはずだ。恐ろしいことに、IS(イスラム国)が村に攻撃を仕掛け、おじいちゃんの兄弟を殺し、娘たちを拉致した。

ISはおじいちゃんをシンジャル山まで追い詰め、そこで餓死させようとした。あれから1年が経ったが、おじいちゃんには家と呼べる場所がない。それでもおじいちゃんはまだ尊厳を保つことを望み、スーツを着用し続けている。おじいちゃんは私に隣に座るように言い、チャイティーをすすめてくれる。

みんなは彼を難民と呼ぶ。でも、私にとってはおじいちゃんだ。

お母さん

フィロウゼ、あなたは勇敢な母親であり、クルド人難民だ。24年以上もの間、あなたは故郷に戻ることができないでいる。24年間もだ。

あなたの兄弟はトルコでクルド運動に加わり、クルド人として生きる権利のために戦っている。クルド文化を守り、クルド語を話し、クルド人の名前を守るために。

このすべてが禁止され、そのためにあなたの家族と同様に、何千もの家族が処罰された。そして、あなたは家族と共に祖国を離れ、イラクで難民となった。しかし、その苦闘はいつになっても終わることがないように思う。

あなたの娘のうち4人は、クルド自由戦士に加わった。そのうちの3人が殺害された。あなたの悲しみは私にも分かるほど大きい。あなたは深くため息をつき、涙で頬を濡らし、送り届けられた娘たちの写真とデニムシャツにキスをしている。

彼女たちは難民キャンプを守るためISと戦い、4発の銃弾に倒れた。あなたの娘たちは、私たち皆のために戦っていたのだ。

かわいいローリン

昨日、トルコ東部・クルディスタンのヤズィーディー難民キャンプでこの写真を撮った。私の周りで時が止まり、同時に、これまで数年間、難民たちから聞いた話の全てを、あなたの目の中に見ることができた。

可愛い小さなローリン、あなたはまだたった4歳。「たぶん4歳だ」と、あなたは言った。あなたの人生最初の記憶は恐怖、死、悲しみとなるだろう。

昨年、数十万人のヤズィーディー教徒がISの攻撃を受けた。あなたはそのうちの1人の一人だ。あなたの村は包囲され、男たちは殺害され、女たちはさらわれた。逃げ延びた人は幸運だった。持ち出せたのは背中に背負った衣服だけだったとしても。

世界の人々は「なんてひどいことなんだ」と言いながら、ただ見ているだけだけど、私たちにできることは本当にそれだけなのか。

今、あなたはトルコ南東部の難民キャンプのテントで暮らしている。どのくらいいるの?とあなたのお姉さんに質問したら、その答えは「何カ月」とか「何年」などの、大雑把な回答ではなかった。彼女はその日を指折り数えてきていた。

「366日」。

そう彼女は答えた。367日目に私たちは手を差し伸べることができるだろうか?

もし、手を差し伸べてくださる方がいれば、こちらで支援してください

この記事はハフポストUS版に掲載されたものを翻訳しました。

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