がん対策基本法改正案をめぐる疑問

いま、日本の政治は人命を最優先に動いていない。第190回通常国会に提出される予定だった、「がん対策基本法・改正案」は、土壇場でキャンセルされた。

<救える命を見捨てた国会議員たち>

いま、日本の政治は人命を最優先に動いていない。第190回通常国会に提出される予定だった、「がん対策基本法・改正案」は、土壇場でキャンセルされた。

この法案は超党派の議員らによって構成する「国会がん患者と家族の会」の議員立法として進められていたが、関係者によると、与野党の対立が深まり、審議日程の確保が困難となって提出が見送られたという。

2016年上半期は、熊本地震、沖縄の女性暴行殺害事件、TPP、消費税増税の先送りなど、様々な問題が起きた。とはいえ、何よりも政治が最優先に取り組むべきテーマは、「命を守ること」であるはずだ。

「がん対策基本法」は、がん対策の理念と方向性を定めた法律で2006年に成立したが、医療技術の進化に対応できていない部分が目立つ。特に患者数の多い5大がん(肺、大腸、胃、乳、子宮)に対策の重点が置かれたことで、他の希少がん、難治性がん、小児がん等が、置き去りにされてきた。

また、自治体や企業の対策型がん検診の受診率は低迷を続け、精度の低い検診手法で本来の目的を達成できないままだ。日本人で最も患者数の多い胃がんの対策型検診は、胃X線検査(=通称:バリウム検査)が現在も主流だが、見逃しが多く、がん発見の精度は低い。

また、バリウムが体内に固着して大腸に孔が開く事故が頻繁に起きており、昨年はバリウム検査中に検査台に挟まれた50代女性が死亡する事故も発生した。国は今年度から内視鏡検査を対策型検診に加えたが、内視鏡医の不足や、バリウム検査の利権を手放したくない“検診ムラ”の抵抗によって、先行きは不透明だ。

実は、胃がんの99%がピロリ菌感染者と判明している。そこで検査対象をピロリ菌感染者に絞り込む「胃がんリスク検診」(=通称:ABC検診)が確立され、これを導入した横須賀市や一部企業は、胃がんの早期発見数が大きく増加した。

しかし、“検診ムラ”の息がかかった研究者らの反対で、胃がんリスク検診の普及は進まない。

提出されなかった法案には、こうした状況を変える可能性があった。行動を起こさない政治家は、“検診ムラ”と同様に「救える命」を見捨てたことになる。

<患者団体の危機感>

「がん対策基本法」の成立から10年を迎え、超党派の議員連盟による「国会がん患者と家族の会(代表世話人・尾辻秀久参院議員)」が、4月22日改正案を公表、パブリックコメントを募集した。

胸腺がんで死去した、故・山本孝史議員が闘病中に命を賭して成立させた同法は、がん検診や診断、治療開発の方向性、患者の支援策などの論拠となる重要な存在となっている。

今回の改正案では、がん患者の雇用継続について事業所の責務を新設するなど、時代の変化に即した項目が盛り込まれた一方、基本理念として新設された第二条第五項をめぐって患者団体を中心に議論となっている。

「それぞれのがんの特性に配慮したものとなるようにすること」。

この基本理念に関しては、様々ながん患者団体によって組織された全国がん患者団体連合会が、「難治性がん」「希少がん」「小児がん」と対象を明記することを強く要望していた。そうした経緯がありながら、改正案では「それぞれのがん」という抽象的な表記になったのは、残念としかいいようがない。

<稀ではない“希少がん”>

日本のがん対策は、罹患数や死亡数の多い5大がん「肺がん、大腸がん、胃がん、乳がん、子宮がん」の対策に重点を置き、公費によるがん検診が進められてきた。日本の医療政策は、「最大多数の最大幸福」的な発想によってデザインされてきた歴史があるが、5大がん以外のがん患者は数多く存在している。

厚生労働省は、人口10万人あたりの年間発生率が6例未満、診療上の課題が他のがん種に比べて大きいものを「希少がん」と定義している。

該当する希少がんは、骨の肉腫、軟部肉腫、悪性脳腫瘍、メラノーマ、眼腫瘍、悪性中皮腫、小児がんなど100種類以上。 国立がん研究センターによると、全ての希少がんの合計は、がん全体の15%〜22%になるという。決して無視できない存在だ。

しかし、希少がんを取りまく現実は、患者数が少ない為に治療情報が少なく、医師などのマンパワーが慢性的に不足している。製薬会社も利益率が低い新薬の開発には消極的で、診療や研究体制は5大がんより大きく劣っている。命を救える可能性が、大きく閉ざされている状況なのだ。

全国がん患者団体連合会が、今回の法改正で基本理念の対象に「希少がん」を入れてほしいと要望してきたのは、こうした状況を打破したいという切実な思いが背景にある。

<スキルス性胃がんに対する医療者の誤解>

次にスキルス性胃がんを例に、「難治性がん」の置かれている状況をお伝えしたい。

日本人のがん患者数では最も多い「胃がん」は、「ピロリ菌感染が胃がんの主原因」と判明し、ピロリ菌の除菌による胃がん予防や、胃がんリスク検診という手法による効率的な早期発見の体制が構築されつつある。

これまで、国が唯一胃がん検診として推奨してきたバリウム検査(胃X線検査)は、早期胃がんの見落し、バリウムの誤嚥性肺炎や大腸穿孔などの副作用事故、放射線被曝など多くの問題点を抱えている。胃がん発見率が胃X線検査の3倍にもなる内視鏡検査は、この4月から公的な胃がん検診として推奨された。

一方、胃がんの一割といわれる「スキルス性胃がん」は、「検診での早期発見は困難。治療は極めて難しく、致死性が高い」という認識が固定化された。その影響で、「難治性がん」として諦める風潮が医療現場に蔓延している。

さらに、「スキルス性胃がんは、内視鏡検査よりも胃X線検査のほうが見つかる」と発言する古い認識の医師も少なくない。先日、「がん名医50人が明かす新事実」というキャッチコピーをつけた民放テレビ局の情報番組で、あるベテラン医師が次のようなコメントをしていた。

「私の経験でも、内視鏡を年二回繰り返しても、スキルス胃がんという外に広がるがんがあるんですね。結局、内視鏡で組織を何回も取っても、がんが出なかったのに、実はバリウムで撮ると胃がだんだん硬くなって細くなる、そういう特殊なケースがありますから、内視鏡の良いところとバリウムの良いところ両方あるんです」(コメントのまま)

この医師は実体験を話しているだけで、その言葉に嘘はないのだろうが、肝心の部分に触れていない。「バリウム検査で発見できるのは、進行した状態のスキルス性胃がんであり、完治できる可能性は低い」という現実だ。

大半の胃がんは胃粘膜に凹凸の変化が現れるが、スキルス性胃がんは胃粘膜に凹凸が現れないまま、胃壁の中を這うように広がっていくので、発見が難しい。だが、内視鏡ではスキルス性胃がんを早期発見できないわけではない。

内視鏡検査のエキスパートとして世界的に知られる、日本大学消化器内科・後藤田卓志教授の内視鏡検査を取材したことがある。その時、後藤田教授が発見したのは「印環細胞がん」だった。

「印環細胞がんは、スキルス胃がんに進行すると考えられています。凹凸はないけれど、僅かに白く変化しているので、印環細胞がんと判別可能なのです。検診の専門家の中には、印環細胞がんが100%スキルス性胃がんになるわけではないと主張する人もいますが、私はがん細胞を確認したら、完治できる段階で確実に取るべきだと考えます」

また、胃壁に太い襞(ひだ)が現れている場合は、胃がんを推察可能だ。ピンポイントで組織を採取する検査では、がん細胞が確認できない場合があるので、エコー検査を行うこともある。

胃がん診療の第一人者、国立国際医療研究センター・国府台病院の上村直実院長は、このように指摘する。

「バリウム検査で発見できるスキルス性胃がんは、胃壁が硬くなり、膨らまない状態になったものです。つまり、完治が難しいステージ。この状態でスキルス性胃がんを発見されて誰が喜ぶのでしょうか。ピロリ菌検査と合わせて内視鏡検査のスキルを高め、完治できる段階の早期発見が重要です」

すべての医療に、不確実性が存在する。検診においても、早期発見が極めて難しいケースもあるし、画像診断にはヒューマンエラーは避けられない。しかし、「難治性がん」を理由に早期発見を諦めてしまうことは、命の可能性を最初から閉ざすことに繋がる。

<患者当事者の声を尊重する必要性>

「小児がん」についても同様に、早期発見や新たな治療法の開発に無限の可能性が秘められていながら、マンパワーの配分は決して十分とは言えない状況が続く。

小児がんで我が子の命を失った家族は、精神的なダメージから意見を述べることができないことも多いため、その厳しい現実はあまり知られていない。

前述のスキルス性胃がんは、二十代や三十代の女性が多く、母親を失い、幼い子供が残されるというケースも起きている。こうした悲劇を防ぐには、最大多数の最大幸福の概念では対処できないことは明らかだ。これから超高齢化社会を迎えるにあたって、私たちは医療政策の論拠や、優先順位を考え直す時期にきている。

いま、救える命を救うために必要なのは、「難治性がん」「希少がん」「小児がん」を決して諦めないことであり、まず医療現場の意識を変革することだ。

がん対策基本法の改正案は、秋の臨時国会に提出される可能性が残されている。その際には、患者数の多いがんを中心にした、従来のがん対策から脱却した理念が盛り込まれることを期待したい。

(2016年6月7日「MRIC by 医療ガバナンス学会」より一部加筆修正のうえ転載)

注目記事