英国での元スパイ毒殺未遂事件に、なぜ欧州は強く反応したのか

当然のことながら、ロシア政府は自らの関与を強く否定している。

2018年3月4日、英イングランド南部の、大聖堂を中心とした人口5万人弱の小さな街、ソールズベリーで事件が発生した。元ロシアスパイのセルゲイ・スクリパリ氏と、同氏を訪ねてきた娘のユリア氏が市内のショッピングモールで意識不明の状態で発見されたのである。そして、2人からは極めて毒性の高い神経剤が検出された。

英国のメイ首相は3月12日の議会での声明で、使われたのは冷戦時代に旧ソ連が開発した兵器級の神経剤、ノビチョーク(Novichok)の一種であったことを明らかにした。そして、今回の事件がロシアによるものである可能性が非常に高く(highly likely)、他のあり得る説明がない(no plausible alternative explanation)とした。事件からほぼ4週間で、スクリパリ氏の容体は安定しながらも依然として重体、娘のユリア氏は回復してきているという。なお、当然のことながら、ロシア政府は自らの関与を強く否定している。

冷戦後最悪の関係に

この事件を受けて英国政府は23名のロシア人外交官を国外追放する決定をし、その後、3月末までに、米欧を中心に27カ国とNATO(北大西洋条約機構)が計150名以上のロシア人外交官の追放を決定するなど、英国との連帯の輪が広がった。多数のロシア情報機関関係者が外交官の身分で各国に駐在しており、彼らが追放の対象となった。

追放人数としては米国が60名で最多だが、ドイツ(4名)、フランス(4名)、イタリア(3名)といった欧州主要国の他、親露的といわれるハンガリー(1名)、チェコ(3名)、さらには、スウェーデンやフィンランド(各1名)といったいわゆる中立国も参加している点が注目される。こうした動きに対し、ロシアは報復として同数のそれら諸国の外交官の追放を決定し、ロシアと欧米諸国との関係は冷戦後最悪といわれる状況になった。

他方で、この事件とその後の一連の動きに関して、日本での問題意識や議論は低調であるようにみえる。政府も、化学兵器の使用は非難されるべきとしつつ、まずは事実関係の解明が必要であるとの立場で、具体的な行動はとっていない。しかも、正式な声明の発出ではなく、記者会見で聞かれれば答えるという扱いである。

一部には、13名が犠牲になった1995年の東京での地下鉄サリン事件に比べて規模の小さな今回の事件で、英国が過剰反応しているのではないかといった議論さえ聞かれる。スパイや元スパイといった特殊な世界での出来事といった感覚もあるのかもしれない。

しかし、今回の事件をきっかけとした欧米諸国とロシアとの対立状況は、今後しばらく続くことが予想され、そうである以上、そもそも今回、なぜそれら諸国が厳しい反応を示したのかを理解する必要がある。それは、日本の立ち位置を考える材料にもなるだろう。少なくとも、「欧米とロシアが対立している」という他人事ですむ話ではない。そこで以下では、今回の事件の深刻さと欧州における受け止め方を中心に検討することにしたい。

犯罪事件ではなく化学兵器使用

今回の事件が深刻である第1の理由は、使われた神経剤が、兵器級・軍事レベルだったことである。ノビチョークは、冷戦末期に当時の超大国であったソ連が製造した化学兵器であり、毒性はVXの5倍から8倍とされる。一般にいわれる有毒物質とはレベルが違うのである。

そのため、NATOの最高意思決定機関である北大西洋理事会による3月14日の声明では、「NATO創設以来初めてとなる加盟国での神経剤の攻撃的使用」であると言及された。また、3月22日のEU(欧州連合)の首脳会議である欧州理事会の結論文書は、今回の事件が「我々共通の安全保障への深刻な挑戦」であり、化学兵器の使用は「我々全てにとっての安全保障上の脅威である」とした。

つまり、今回の一件は、有毒物質が使用された犯罪というカテゴリーではなく、化学兵器が使用された軍事・安全保障上の事案だということになる。

国内テロでははなく外国政府による敵対行動

第2に、今回の事件が、国内のテロや犯罪ではなく、外国政府による行為だったことの意味を理解する必要がある。英国政府は、「国家による敵対的活動(Hostile State Activity)」という言葉を使っている。行為が国内勢力によって行われたか、国外勢力かは、重要な違いである。

というのも、これが国内勢力によるものであれば、どのような手段が使われても、どれだけの犠牲者が出ても、警察や司法が対応する犯罪事件である。英国でも、北アイルランド関連のテロが頻発し、多数の犠牲者が出た時期が長く続いたし、米国でも、168名が死亡した1995年のオクラホマシティ連邦政府爆破事件などが大きなものとして挙げられる。ただし、これらは外交・安全保障問題ではない。日本での地下鉄サリン事件も同様である。

それに対し、国外勢力によって行われるものは、そのまま外交・安全保障の問題となる。2001年の9.11テロはその代表例であるし、今回の毒殺未遂事件もこれに該当する。9.11テロに対しては、米国は個別的自衛権を行使したし、NATOは史上初めて集団防衛条項(北大西洋条約第5条)を発動した。

英国の説明と外交攻勢

ただし、外国政府による化学兵器の使用が判明したのみで、自動的にここまでの反応になったわけでもないだろう。今回は英国政府がさまざまなチャネルを駆使して、特にEU諸国に対して、英国の立場を支持するようにとの強い外交攻勢をかけたことが大きかった。

3月22日のEU首脳会議では、ワーキングディナーの席で深夜まで5時間にわたって、この問題が議論された。英国政府の説明に対して、さらなる検証が必要であるとして、ギリシャなどが当初慎重な姿勢をとったが、結果として、結論文書では、「ロシアによる行為である可能性が非常に高く、他にあり得る説明が存在しない」との英国の判断にEUが同意し、「英国と無条件に連帯する」との強い文言となった。

一連の外交攻勢のなかで、英国政府は史上空前といわれるレベルのインテリジェンスを提供し、各国への説明を行ったようである。ただし、対象国によって提供される情報のレベルは異なっていたといわれる。具体的に英国がどのようなインテリジェンスを保有しているかは不明だが、おそらく状況証拠ではあっても、ロシアによる実行を強く示す、密度の濃い生情報が含まれていたと思われる。そうでなければ、これだけの数の国がロシア人外交官の追放に踏み切ることはなかっただろう。

なお英国は、ロシア外交官の追放以外に、「公開できない措置」も実施している。これはメイ首相が議会で述べていることであり、具体的内容は不明であるものの、ロシアに対するサイバー攻撃ではないかとみられている。

また、英国にとって今回の外交は、EU離脱後に向けた予行演習でもあった。EU離脱を控え、欧州における英国の政治的影響力はすでに大きく低下しており、今回、EUの支持を得ることができるかが注目された。しかし、例えばEU首脳会議にしても、EU離脱後は出席は出席できないのであり、離脱後は今回と同じようにはいかないだろうとの現実も、リアリティをもって明らかになってしまった。

「やりっ放しは許さない」

今回の外交官追放という各国によるロシアに対する措置は、ソールズベリーでの事件への抗議だが、より大枠としては、「欧州各国におけるロシアの非合法・非公然活動には代償が伴う」とのメッセージであった。「やりっ放しは許さない」ということである。

今回の措置に参加した諸国においては、選挙への介入を含め、ロシアがさまざまな活動を行っており、各国政府の間で懸念や反発がすでに強まっていたとの背景も存在した。例えば2017年に大統領選挙や議会選挙を経験したドイツやフランスでは、情報機関首脳を含め、政府関係者がロシアの介入に関して繰り返し警告を行なっていた。ロシアの行動は、西側民主主義社会にとっての敵であるとの認識はすでに広がっており、今回の事件でそれがさらに強まることになった。

3月22日のEU首脳会議を前にして、ロシア側は、EUを分断させるためにさまざまな働きかけを行ったとみられる。しかし、ロシアに対して非常に厳しい結論文書が採択されたのは上述のとおりである。そして、多数の諸国が結束してロシア外交官の追放に踏み切ったことは、ロシアにとっても驚きだったと思われる。

ただし、問題はこれからである。化学兵器の使用についても、欧州諸国の内政への介入にしても、外交官の追放で問題が解決するわけではないからである。化学兵器はもとより、ディスインフォメーション(偽情報の意図的な流布)やサイバー攻撃などへの対処能力を向上させ、欧州社会の強靭性を高めるには、多分野での息の長い取り組みが必要になる。

日本が問われるもの

こうした欧米諸国の動きのなかで日本は、化学兵器の使用は許されないという立場は示しつつも、まずは事実関係の解明が必要であるとの立場である。このことは、「今回の化学兵器使用はロシアによるものである可能性が非常に高く、他にあり得る説明が存在しない」との英国政府の判断、さらにはそれに同意したNATOやEUの判断を、日本が共有していないことを意味している。

そうであれば、なぜ日本政府が異なる判断をするのかが問われることになる。G7諸国のなかでロシア外交官を追放していないのは日本のみであり、4月以降相次ぐG7の外相会合、首脳会合などの場で、日本がいかなる説明をするかは重要な課題である。

日本の場合、安倍晋三首相がロシアとの平和条約締結を優先的な外交課題にしている背景がある。そのため、今回の事件への反応についても、この文脈において、ロシアとの不必要な摩擦は避けたいとの考慮が働いたことは想像に難くない。

加えて、ロシアによる日本の選挙やその他内政への介入やディスインフォメーションなどの行為は、少なくとも表の世界では認識されておらず、警戒や懸念のレベルが低いという事情もある。

日本が独自の判断をすること自体は責められるものではない。そして、ロシア外交官の追放が唯一の選択肢ではない。しかし、何事も起きなかったかのようにロシアと「いままでのまま」の関係を続けるべきかは考えなければならない。そして自らの判断を国際的に通用する言葉で説明できなければ、日本は国家としての信頼性を損なうことになりかねない。

また、各国政府に対する英国政府からのブリーフィングは、国によって提供されたインテリジェンスのレベルが異なるとされ、おそらく日本には、密度の濃いものは提供されなかったのではないか。

これが、英国側のどのような考慮に基づくものであるかは不明である。しかし、一番核心のインテリジェンスが強力なものであるとすれば、そして、もし日本がロシア外交官追放などの選択肢を当初から排除していたとすれば、核心のインテリジェンスは「提供されなくてよかった」というのが実情かもしれない。知ってしまえば曖昧な姿勢をとることが難しくなるほど強力なものだったかもしれないからである。

英国という遠い地で起きた事件であり、日本において問題意識が低くなることは、一般レベルではやむを得ない。しかし、こうした事態を日本政府がどのように捉えるのかは、国際社会では厳しく問われることになるし、日本の対応は、英国や他の欧州諸国、米国のみならず、ロシアや中国も注意深く観察している。オーディエンスは多岐にわたるのである。

求められるのは、表面的には対外説明力であるが、その基礎となるのは、今回の問題に関して、日本がいかなる立場と行動をとることで、どのようなプラスとマイナスが見込まれるかに関する冷徹な計算である。具体的には例えば、今回ロシアに対して甘い対応をとることで、見返りとして何を得ることができるのか、何を失うのかという観点である。

連帯とは何か

日本として、G7などの各種会合をどのように「乗り切る」かも重要であるが、究極的に問われるのは、国家間の連帯とは何かという問題ではないか。「他人の問題に巻き込まれたくない」のは人間の本性である。困っている友人を助けることにコストやリスクが伴う場合はなおさらである。しかしそれでは同盟は成り立たない。

自分が被害者になることもあるため、友人が被害にあったときは、コストやリスクを承知で共に立ち上がるのである。これが連帯であり、国家間でいえば同盟の基本的原理である。各国が自らの外交官が報復で追放されることを予期しながら、ロシア外交官の追放に踏み切ったのは、まさにコストとリスクを受け入れての連帯であった。

公式な同盟ではないものの、アジアと欧州の間でも同じである。もし日本が、中国や北朝鮮をめぐる有事に際して欧州の理解と支援を期待するのであれば、日本の側にも、欧州の安全保障問題への貢献が問われると考えなければならない。今回の英国での事件と、欧米諸国、そして日本の対応が投げかける問題は極めて深いのである。

(2018年3月31日脱稿)

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