袴田事件再審開始の根拠とされた“本田鑑定”と「STAP細胞」との共通性

多少なりと「科学」に関わった人間にとって、本田鑑定が「科学的鑑定」とは到底言い難いものであることは明白だ。

2014年3月に静岡地裁(村山浩昭裁判長)が出した袴田事件の再審開始決定(以下、「地裁決定」)に対する検察官の即時抗告について、6月11日、東京高裁(大島隆明裁判長)は、地裁決定を取り消し、再審を開始しない旨の決定(以下、「高裁決定」)を行った。

マスコミからコメントを求められ、高裁決定を入手して全文を読んだ。

これまでの多くの事件に関して、検察の捜査・処分を厳しく批判し、美濃加茂市長事件などの冤罪事件で検察と戦ってきた私である。社会的に「冤罪事件の象徴」のように受け止められ、地裁の再審開始決定に対する検察の即時抗告でも、検察側と弁護側が激しく対立してきた袴田事件に関して、再審開始を取消す決定が出たことについて、検察側コメントと同趣旨の「適切・妥当な決定」との意見を述べることに、内心複雑なものがあることは事実だ。

しかし、高裁決定を読む限り、その根拠となった本田克也筑波大学教授のDNA鑑定(以下、「本田鑑定」)が、凡そ科学的鑑定と評価できない杜撰なものであり、それを根拠に再審開始を決定した静岡地裁の判断も、全く合理性を欠いており、再審開始決定が取り消されるのは当然としか言いようがない。

今回の高裁決定を担当した大島隆明裁判長は、菊池直子殺人未遂幇助事件での無罪判決、横浜事件での再審開始決定などの、いくつかの著名事件も含め、公正・中立な裁判で高く評価されてきた裁判官である。一般的には、検察の主張に偏り、検察にもたれかかる刑事裁判官が多い中で(元裁判官森炎氏との対談本【虚構の法治国家】講談社)、大島裁判長は、検察側、弁護側どちらにも偏らず、公正な裁判が期待できる裁判官だということは、袴田事件の支援者にも認識されていたはずだ「【浜松 袴田巖さんを救う市民の会「即時抗告審の大島隆明裁判長って、どんな裁判官?」】)。

高裁決定は、本田鑑定の手法の科学的根拠の希薄さ、非合理性を厳しく指摘しているが、それを読む限り、過去に、多少なりと「科学」に関わった人間にとって(私は一応「理学部出身」である。)、本田鑑定が「科学的鑑定」とは到底言い難いものであることは明白だ。

本田DNA鑑定の「非科学性」についての高裁決定の指摘

「衣類のうちのシャツの血痕から袴田さんとは異なるDNA型を検出した」として、地裁の再審開始決定の根拠とされた本田鑑定について、高裁決定は、

当裁判所は、検討の結果、A(本田克也氏)の細胞選択的抽出法の科学的原理や有用性には深刻な疑問が存在しているにもかかわらず、原決定は細胞選択的抽出法を過大評価しているほか、原決定が前提とした外来DNAの残存可能性に関する科学的原理の理解も誤っている上、平成23年12月20日付けのA鑑定書添付のチャート図の解釈にも種々の疑問があり、これらの点を理由としてA鑑定を信用できるとした原決定の判断は不合理なものであって是認できず、A鑑定で検出したアリルを血液由来のものとして、袴田のアリルと矛盾するとした結果も信用できず、A鑑定は、袴田の犯人性を認定した確定判決の認定に合理的な疑いを生じさせるような明白性が認められる証拠とはいえないと判断した。

として、本田鑑定の信用性を否定した。

その詳細な理由について述べている部分の中で特に注目すべきは、鑑定資料の「チャート図」に関する以下のような判示だ。(下線は筆者)

原決定は、その説示に照らせば、本件チャート図によれば、対照試料からアリルが全く検出されていない点を、血液由来のアリルを検出したものであるとするA鑑定に信用性を認める最大の根拠としていることは明らかである。しかし、本件チャート図については、以下のとおり十分な信頼性を確保できないような事情が存在する。

ア Aは、本件チャート図について、原審において、同チャート図に、Aが型と判定した以外にもピークのようなものがあるとの検察官の指摘に対し、正規のバンドの位置になくオフラダーの表示があったが、同チャート図のオフラダーの自動表示を手動で消去したことを自認しており、自らの判断等に従って同チャート図の表示を変えたものであって、同チャート図の正確性について、自ら疑われかねないような行為をしているほか、同チャート図には、同一の試料についても何回目かの表示もなく、同チャート図のみでは、各試料について行われたPCR増幅の回数や各チャート図に係る検査の順序等も不明のままである。加えて、本件チャート図は、本来カラー表示されるものであるのに、白黒で印字されたコピーを提出し、アリルピークの位置(塩基数bp)が読み取れる縦線も不鮮明なものが含まれているため、検出されたアリルピークが正確であるのか確認することが困難な状態となっているものも一部存在する。一方、Aが作成した鑑定書のうち、袴田の血液のDNA型を鑑定した平成24年4月12日付け鑑定書に添付されたチャート図は、カラーで鮮明に印字されているものであって、本件チャート図とは、余りに体裁が異なるものである。

イ 細胞選択的抽出法については鑑定の手法として大きな疑問がある以上、それにもかかわらずA鑑定の結果を支持できるというためには、その鑑定のデータの信用性が十分検討されなければならないが、本件チャート図には前述したとおりその信頼性を疑問視せざるを得ない点があり、本件チャート図の信用性判断のためには、元となるデータや実験ノート等の原資料をも確認する必要性が高いといえる。

ところが、Aは、本件チャート図の元となるデータや実験ノートの提出の求めに対し、血液型DNAや予備実験に関するデータ等は既に原審時点において、見当たらない又は削除したと回答しており、その他のデータや実験ノートについても、当審における証人尋問の際に、すべて消去したと証言するに至っている。しかし、事件が係属中で、前記のとおり、A自身が、その鑑定は法医学の分野ではおそらく世界的にも例がない劣悪な条件下でのDNAの抽出や型判定に成功したものであることを自認しているにもかかわらず、DNA鑑定に関するデータや実験ノートを一切保存していないということは、余りにも不自然というほかなく、消去した理由に関するAの説明にはプライバシー保護や記録保存のシステム上の困難性をいう点を含め、納得しかねる点が余りにも多いというほかない。

このような本田鑑定の「チャート図」についての疑問を踏まえれば、果たして鑑定資料に付着した血液中に含まれていたDNAを抽出したものなのかどうか疑問に思うのが当然である。即時抗告審では、鑑定の手法の信頼性の有無を確認するための事実取調べとして、本田鑑定の「再現実験」を行おうとしたが、結局、弁護人の協力が得られず断念したとのことだ。

確立された科学的手法ではない鑑定であれば、鑑定の経過やデータ・資料が確実に記録されていることや、再現性が確認されていることが、鑑定の信用性を立証するために不可欠と考えられるが、本田鑑定は、データ・資料が保存されておらず、再現実験による確認もできなかった。このような鑑定に客観的な証拠価値を認めることができないのは当然である。

「STAP細胞」問題との類似性

袴田事件で静岡地裁の再審開始決定が出たのとちょうど同時期、社会の注目を集めていたのが「STAP細胞」をめぐる問題であった。2014年1月末に、理化学研究所の小保方晴子氏、笹井芳樹氏らが、STAP細胞を発見したとして、論文2本を世界的な学術雑誌ネイチャー(1月30日付)に発表し、生物学の常識をくつがえす大発見とされ、若い女性研究者の小保方氏は、「リケジョの星」などと世の中に大々的に報じられた。

が、論文発表直後から、様々な疑義や不正の疑いが指摘されていた。

4月1日には、理化学研究所が、STAP細胞論文に関して画像の切り貼り(改竄)やねつ造などの不正があったことを公表した。その際、研究の過程の裏付けとなる実験ノートについては、3年で2冊しか残されておらず、小保方氏が残したノートには、日付すら記載されておらず、実験ノートの要件を充たしていなかったことも明らかにされた。

これを機に、STAP細胞をめぐる研究不正疑惑が大きな社会問題となり、理化学研究所では、STAP現象の検証チームを立ち上げ、小保方氏を除外した形で検証が行われ、論文に報じられていた方法でのSTAP現象の再現が試みられるとともに、7月からは、それとは別に小保方氏にも単独での検証実験を実施させた。

しかし、結局、STAP細胞の出現を確認することはできず、同年12月、理化学研究所は、検証チーム・小保方氏のいずれもSTAP現象を再現できなかったとして、実験打ち切りを発表した(検証が行われている最中の8月4日、世界的な科学者として将来を期待されていた笹井氏は自殺した。)

袴田事件で静岡地裁の再審開始決定が出されたのが2014年3月27日、理化学研究所が、小保方氏らの不正を公表したのが、その5日後だった。

本田氏のDNA鑑定は、「細胞選択的抽出法」によって、「50年前に衣類に付着した血痕から、DNAが抽出できた」というもので、もし、それが科学的手法として確立されれば、大昔の事件についてもDNA鑑定で犯人性の有無について決定的な証拠を得ることを可能にするもので、刑事司法の世界に大きなインパクトを与える画期的なものである。

「STAP細胞発見」には様々な疑惑が指摘され、小保方氏は実験の客観的データで疑問に答えることができず、「本当にSTAP細胞が生成されたのか」という点に深刻な疑問が生じた。それを受けて、小保方氏自身も再現実験に取り組まざるを得なくなり、結果「再現できず」で終わったことで、科学的には「STAP細胞生成」の事実は否定されるに至った。

それと同様に、本田鑑定で「細胞選択的抽出法」によって「DNAが抽出できた」というのであれば、その抽出の事実を客観的に明らかにするデータが提示される必要がある。ところが、本田氏は、鑑定の資料の「チャート図」の元となるデータや、実験ノートの提出の求めに対し、血液型DNAや予備実験に関するデータ等は、地裁決定の前の時点で、「見当たらない」又は「削除した」と回答しており、その他のデータや実験ノートについても、高裁での証人尋問の際に、「すべて消去した」と証言したというのである。そこで、STAP細胞問題と同様に、裁判所が弁護側に「客観的な再現」を再三にわたって求めたが、結局、再現ができず、「細胞選択的抽出法」によるDNAの抽出について、客観的に裏付けがないまま審理が終わった。

本田鑑定が用いたとされる「細胞選択的抽出法」によるDNAの抽出をめぐる経緯は、静岡地裁の再審開始決定とほぼ同時期に大きな社会問題となっていたSTAP細胞問題と酷似していると言えるのではないだろうか。

朝日社説の的外れな高裁決定批判

高裁決定の翌日(6月12日)の朝日新聞社説【袴田事件再審 釈然としない逆転決定】は、

地裁の段階で6年、高裁でさらに4年の歳月が費やされた。それだけの時間をかけて納得のゆく検討がされたかといえば、決してそうではない。この決定に至るまでの経緯は、一般の市民感覚からすると理解しがたいことばかりだ。

と述べた上、

別の専門家に再鑑定を頼むかで長い議論があった。実施が決まると、その専門家は1年半の時間をかけた末に、高裁が指定した検証方法を完全には守らず、独自のやり方で弁護側鑑定の信頼性を否定する回答をした。高裁は結局、地裁とほぼ同じ証拠関係から正反対の結論を導きだした。

身柄を長期拘束された死刑囚の再審として国際的にも注目されている事件が、こんな迷走の果てに一つの区切りを迎えるとは、司法の信頼を傷つける以外の何物でもない。

と、高裁での即時抗告審の審理経過や決定を批判している。

しかし、即時抗告審で4年の時間を要したのは、科学的な根拠に乏しい本田鑑定について、その信用性を裏付ける立証を弁護側に求めていたからである。STAP細胞問題と同様に、本田氏自らが、裁判所による再現実験に応じ、「細胞選択的抽出法」によるDNAの抽出を再現して見せることが何より本田鑑定の信用性を明らかにする確実な方法であるにもかかわらず、結局、それは実現しなかった。

本田鑑定がDNA鑑定に用いた「細胞選択的抽出法」は、科学的原理や有用性には深刻な疑問が存在していたが、地裁決定が、それを根拠に再審開始を決定し、「死刑囚釈放」という措置まで行った以上、その根拠とされる本田鑑定を軽々に扱うわけにはいかない。裁判所としては、弁護側に、信用性を裏付ける立証の機会を十分に与え、そのために長い期間がかかったのであり、それは、再審開始決定の取消という結論を導くに至るまでの裁判所の慎重さを示すものであったと言える。

「迷走の果て」などと高裁決定を批判するのは、全く的外れと言うべきであろう。

地裁決定の「論理の飛躍」

科学的原理や有用性に深刻な疑問が存在している本田鑑定を過大に評価して、別人が犯人である疑いだけではなく、警察の証拠ねつ造の疑いまで指摘し、死刑の執行のみならず勾留の執行も停止したのが静岡地裁の再審開始決定だ。

地裁決定は、本田鑑定によって、味噌樽から発見された衣類が袴田氏の着衣ではない蓋然性が高いとされることや、発見された衣類の色等から、1年以上味噌に浸かっていたとするのは不自然と判断されることを前提に、「衣類が、事件と関係なく事後に作成されたものであり、それは、証拠が後日ねつ造されたと考えるのが最も合理的」とした上、

警察は、人権を顧みることなく、袴田を犯人として厳しく追及する姿勢が顕著であるから、5点の衣類のねつ造が行われたとしても特段不自然とはいえず、公判において袴田が否認に転じたことを受けて、新たに証拠を作り上げたとしても、全く想像できないことではなく、もはや可能性としては否定できない

として、警察の証拠ねつ造の疑いを指摘したのである。

これに対して、高裁決定は、以下のように述べている。

その取調べ方法には、供述の任意性及び信用性の観点からは疑問と言わざるを得ない手法が認められるが、捜査段階における袴田の取調べ方法にこのような問題があることを踏まえても、取調べの結果、犯行のほぼ全容について袴田の供述を得て、犯行着衣についてもそれがパジャマである旨の自白を得た捜査機関が、新たにこの自白と矛盾するような5点の衣類をねつ造することは容易には考え難いというべきであり、袴田の取調べ状況から、5点の衣類のねつ造を結び付けることは、かなり論理の飛躍があるといわざるを得ない。

そして、警察の人権を顧みない取調べから、証拠のねつ造を疑うことについて

A鑑定や5点の衣類の色に関する誤った評価を前提としているとはいえ、自白追及の厳しさと証拠のねつ造の可能性を結び付けるのは、相当とはいえない。これまでしばしば刑事裁判で自白の任意性が問題となってきたように、否認している被疑者に対して厳しく自白を迫ることは往々にしてあることであって、それが、捜査手法として許される範囲を超えるようなことがあったとしても、他にねつ造をしたことをうかがわせるような具体的な根拠もないのに、そのような被疑者の取調方法を用いる捜査当局は、それ自体犯罪行為となるような証拠のねつ造をも行う傾向があるなどということはできず、そのような経験則があるとも認め難い。しかも、そのねつ造したとされる証拠が、捜査当局が押し付けたと主張されている自白のストーリーにはそぐわないものであれば、なおさらである。

冤罪事件や再審の歴史は、警察や検察による証拠の「隠ぺい」の歴史だったと言っても過言ではないほど、過去の多くの事件で、不当に証拠が隠されていたことが、真相解明を妨げてきたことは事実だ。また、検察においても、現に、大阪地検特捜部の証拠改ざん事件という「改ざん」事件が発生しており、警察でも証拠の改ざんが刑事事件に発展した事例も過去に発生している。一般的に言えば、警察や検察による「証拠に関する不正」が行われる抽象的な可能性があることは、否定できるものではない。

しかし、日々発生する膨大な刑事事件の摘発・捜査・処分が、現場の警察官・検察官によって行われ、その職務執行が基本的に信頼されることで刑事司法が維持されているのであり、それら全体に対して、常に証拠に関する不正を疑うことはできない。疑うのであれば、相応の根拠がなければならないのは当然である。

ところが、「相応の根拠」と言えるものは何もない。

もし、当時の警察が、仮に、袴田氏を有罪にするためにあらゆる手段を使おうとしていたとしても、無関係の衣類を袴田氏の着衣のように偽って、味噌樽の中から発見するという行為は、高裁決定が指摘するように、「過酷な取調べの末に得られていた袴田氏の自白とは全く矛盾する証拠を、発覚のリスクを冒して敢えてねつ造する」という、全く合理的ではない行動を警察組織が行ったことになる。

このような「証拠のねつ造」を疑うことは、警察がいかに人権を無視した過酷な取調べを行っていたとしても、裁判における合理的な事実認定とは到底言えないものである。

高裁決定は、そのような地裁決定の指摘を、「論理の飛躍」と表現して否定しているのである。

「冤罪救済」に向けての活動は終わらない

本田鑑定は、科学的根拠を欠くものであり、「無罪を言い渡すべき新たな証拠」とは到底言えないものだ。それを根拠として再審開始を決定した静岡地裁の判断も正当とは言えないものである。高裁決定で、再審開始を取り消したのは当然だと言える。

しかし、袴田氏が、本当に犯人であるのか、50年にもわたって訴え続けてきたように冤罪であるのか、真実は神のみぞ知るところである。有罪判決が確定しているとはいえ、袴田氏の犯人性について断定的なことを言うつもりはない。

袴田氏の冤罪救済に向けての活動が長年にわたって続けられてきた。その支援者や弁護団には、本田鑑定など、これまで再審請求で証拠とされているものとは別に、「袴田氏は犯人ではない」と信じる確たる理由があるのかもしれない。本当に袴田氏は冤罪なのかもしれない。袴田氏の冤罪救済をめざす活動は、これからも続けられるであろう。

そういう袴田氏の冤罪を救済する活動にとってみても、本田鑑定や、それを根拠とする静岡地裁の再審開始決定は、本当に、評価されるべきものなのだろうか。

凡そ科学的鑑定とは言えない本田鑑定が、静岡地裁決定で過大評価され、袴田氏の冤罪救済の最大の根拠と位置付けられてきたことは、逆に、冤罪救済に向けての取組みを阻害するものだったのではなかろうか。

本田鑑定を評価し「死刑囚釈放」まで行った静岡地裁決定により、4年間、世の中に、「再審開始・冤罪確定」への「幻想」が生じてしまった。地裁の再審開始決定に対する検察の即時抗告への批判、それが早期に棄却されて再審開始が確定することへの期待が高まり、それが高裁決定で覆されたことで、貴重な時間が無駄にされてしまった。それは、かえって、袴田事件の冤罪救済に向けての活動の大きな支障になったのではなかろうか。

私は、日本の刑事司法の構造について、これまで多くの批判的意見を述べてきた。

閉鎖的かつ独善的な検察組織が「正義」を独占する日本の刑事司法、「人質司法」の悪弊、一たび、有罪判決が確定すれば、検察や警察の管理下にある証拠開示について明確なルールもなく、再審の扉は重く、地裁で再審開始決定が出ても、多くが、即時抗告で覆されてしまう。そのような、冤罪を生みかねない、冤罪の救済が困難な日本の刑事司法の現状は、改めていかねばならない。

しかし、非科学的な鑑定で犯人性を否定することや、その非学的な鑑定を過大評価して再審開始を決定することが、そのような刑事司法の構造の改善や真の冤罪救済につながるとは、私には到底思えない。

高裁決定で、DNA鑑定の非科学性と、鑑定手法の杜撰さを厳しく指摘された本田克也氏は、今後も刑事事件での鑑定を続けていくのであれば、高裁決定が指摘した疑問・批判について公式の場で何らかの説明を行うべきであろう。

死刑・勾留の執行停止を取消さなかったことへの疑問

今回の高裁決定を支持する立場からも、「中途半端」として批判されているのが、地裁の再審開始決定を取り消しながら、死刑執行と勾留については執行停止を取り消さかったことである。

なぜ、このような判断が行われたのか。高裁決定は、

(袴田氏の)年齢や生活状況、健康状態等に照らすと、再審開始決定を取消したことにより逃走のおそれが高まるなどして刑の執行が困難になるような現実的危険性は乏しいものと判断され

と述べているが、そのような若干中途半端に思える判断の背景として、次のようなことが考えられる。

第1に、地裁決定で死刑囚の釈放という前代未聞の措置がとられたことで生じていた袴田事件に対する社会の認識と、再審裁判での証拠関係との間に大きなギャップが生じていたことである。4年前、静岡地裁の決定で釈放された袴田氏は、自由の身となって支援者・家族の元に戻った。釈放された死刑囚が公の場に姿を現わせば、社会全体に袴田氏の「冤罪」「無実」が確定的になったと認識するのも当然だ。しかし、実際には、再審開始決定は、まだ地裁の段階であり、その根拠とされた本田鑑定には深刻な疑問があった。

再審開始決定の取消しに伴って、死刑・勾留の執行停止も取り消され、釈放されていた袴田氏がただちに収監されることになれば、その映像的な効果によって、「無実の人間を強引に収監して死刑を執行しようとする無慈悲な刑事司法」と受け止められ、強烈な反発が生じることは必至だ。逆に、そのような事態が想定されることから、いかに地裁決定が不合理でも、取消すのは現実的には困難ではないか、との見方もあったほどだった。

即時抗告審で地裁の再審開始決定を取消されるのは「当然の判断」であったが、それに伴って、釈放されている死刑囚を再収監することで生じる社会的混乱を避けるということも考慮されたのではなかろうか。

もう一つ考えられるのは、この事件で袴田氏が受けてきた処遇と、現在の状況である。

袴田氏は、一家4人殺しの強盗殺人容疑で逮捕されて以降、48年間にわたって身柄を拘束され、そのうち34年間は死刑の執行の恐怖に晒された状態での拘禁が続いてきた。その拘禁反応もあるのか、現在では、事件自体の認識・記憶もなくなっているようだ。

袴田氏の取調べは、高裁決定でも指摘しているように、「深夜まで連続して長時間取調べを続け」「心理的に追い込んで疲弊させていく手法が用いられ」「取調室に便器を持ち込ませて排尿をさせたり」など、著しく人権を無視したものであり、いくら残虐な殺人事件の捜査であっても、そのような拷問的な取調べで自白を獲得しようとすることは、近代国家として許されるものではない。そういう意味で、袴田氏は、拷問に近い違法・不当な取調べと、その後の長い年月の死刑囚としての拘禁という峻厳な刑罰にも匹敵する著しい苦痛を受けてきたことは間違いない。

これらのことへの思慮が、極めて明快な理由で再審開始決定を取消す一方で、死刑・勾留の執行停止は取り消さないという若干中途半端な措置をとったことの背景にあるのではないだろうか。

(2018年6月14日「郷原信郎が斬る」より転載)

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