論文の疑義等について3月3日、11日と7月4日に日本分子生物学会理事長としての声明を発し、8月26日付で文科省から「研究不正に関するガイドライン」が出された時点で、後は見守るしか無いと思ってきたので、1600個以上の細胞塊を移植してもキメラ胚ができなかったと知っても、特別な感覚は無い。

昨日(12月19日)、STAP細胞検証実験の結果についての発表が為された。論文の疑義等について3月3日、11日と7月4日に日本分子生物学会理事長としての声明を発し、8月26日付で文科省から「研究不正に関するガイドライン」が出された時点で、後は見守るしか無いと思ってきたので、1600個以上の細胞塊を移植してもキメラ胚ができなかったと知っても、特別な感覚は無い。自分の中で、STAP細胞は存在しないと納得したのは、もうずいぶんと前のことのような気がする。公表されている資料を見る限り、厳密なやり方で丁寧な実験が組まれ、きちんとその結果の記録が取られており、科学的な検証としては問題無いものと思う。監視体制の元で本人に実験を行わせたことも、今回のケースではやむを得なかっただろう。

発端となったNature誌2本の論文は7月4日の時点ですでに取下げられているが、では、どのような実験を元に(あるいは元にせずに)データが集められたのかについては、また追って年度内に各種細胞の遺伝子解析等についての発表があると聞く。それはそれで粛々とやって頂くしか無いが、今後のことは科学の世界で扱えない部分が多いのではないかと思う。

今回のSTAP狂奏曲を聴いていて一番強く感じたのは、人それぞれの受け取り方の違いが大きいということだ。研究者と非研究者では大きく異なるし、文系・理系でも違う(例えば、こちらの芦田宏直氏のFacebook記事など、私にはとても違和感がある)。理系の中でも数学や物理の専門の方々と生命科学系ではかなり感覚が違っていた。化学系、材料系もしかり。これらは、専門的に扱う対象が違い、お作法が違うからだと思うが、さらに、生命科学系でも理学系の方と医学系の方には、微妙な感覚の違いがあった。それは、真正ではないと思われるやり方で「STAP細胞を得た」と主張した人物に対する感覚においてである。この事件の受け取られ方の違いはまた、世代によっても大きく違っていた。とくに、今よりも研究人口が少なかった世代と、大学院重点化以降の世代では温度差が大きかったように思う。「このような研究不正は稀なことであり、また、不正論文は再現性が無ければ引用されなくなり忘れ去られる」という考え方は、「でも不正論文を出すによってポストや研究費で得をすることになるのはおかしい」と思う世代の研究者には受け入れがたいものがある。

STAP事件は重大だが、研究不正の問題はそれだけでは無い。「ハインリッヒの法則」によれば、大きな1つの事故の背景には29の小さな事故があり、さらに300の「ヒヤリハット」が存在するという。大きな事故を防ぐには、多数存在すると思われる「ヒヤリハット」を無くさなければならない。「最後の理事長メッセージ」にも書かせて頂いたが、研究不正対応は、現場ではすでにアクション体制に入りつつあると思う。平成18年度に出された日本学術会議の「科学者の行動規範」(その後、平成23年1月25日改訂)や文科省ガイドラインでは研究不正を防ぐことができなかったという歴史的事実に対する反省をもとに、今夏に決定された「ガイドライン」では、研究者本人の責任のみならず、研究機関の責任が強く打ち出されている。そのため、本学でも検討の委員会が作られ、今後の体制整備についての準備が進んでいる。科学者は自由な発想に基づく真理の探求という研究行為を社会から負託されている存在である。その自由を守るためには自らの行動を律することが必須であり、そうでなければ社会からの信頼を得ることができない。自由な精神を守りつつ、どのような「ルール」を示していくのか、知恵を絞ることが喫緊に求められている。

第5期科学技術基本計画の策定も視野に入って来ているが、研究環境をどのように良くしていくかは、短期的な資金の配分だけの問題ではなく、持続的な教育や人材育成の観点も重要である。科学を行うのは、イノベーションを生み出すのは、機械ではなく人なのだ。天然資源に乏しく「科学技術立国」を提唱する我が国においては、それを支える人材を大切に育てていくことが必要である。また、そういう人材が搾取されない社会でなければならない。

(2014年 12月 20日「大隅典子の仙台通信」より転載)

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