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2015年03月29日 01時34分 JST | 更新 2018年03月06日 22時49分 JST

"つながるのその先"は存在するか(稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』第4回)


PLANETSチャンネルにて好評毎月連載中の稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』 の前月配信分を、月イチでハフィントン・ポストに定期配信していきます。

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PLANETSチャンネルで好評連載中の稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』。第4回は、その「ウェブカルチャーの系譜」を辿っていくための補助線として、思想家・浅羽通明のメディア/コミュニケーション論を読み解きます。90年代前半の「ゴーマニズム宣言」にも強く影響を与えた浅羽通明という気鋭の論客は、なぜゼロ年代に迷走に陥ったのか――。「オナニスト」「職能の協働」をキーワードに、その限界と現代的意義を問い直します。

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※この連載の最新回(第5回「つながるものを扱うために」(3月17日配信))はPLANETSチャンネルに入会すると読むことができます。

稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』これまでの連載はこちらから。

 博報堂ケトルの嶋浩一郎氏が以前、(正確な言い方は忘れたが)BRUTUSで「ソーシャルメディアの登場以降、一般的なニュース記事が受けるようになってきた」ということを話していた。これは筆者にも実感がある。実際、現在でもポータルサイトのトピックス流入などでは、硬派な政治や経済のニュースにPVが集まることは少なく、そんな記事よりも「きのこたけのこ戦争」や「ノーバン始球式」の方が遥かに高いアクセスを叩き出す現状がある。しかし、そのくせFacebookのような場所では、妙に政治や経済のニュースが流れてくる。

 その記事で面白かったのは、確か嶋氏がその理由として「ソーシャルメディアでつぶやくから」と言っていたことである。そう、TwitterやFacebookで自分が見ているニュースをつぶやくことは、自分がどんな記事を読んでいるかの態度表明なのだ。そのとき、普段は「はちま起稿」だの「netgeek」だの「ロケットニュース」だのばかり読んでいる人間であっても、Facebookでは知的な仲間たちに向けて朝日新聞のピケティの書評記事でもつぶやいておくかと考える。まあ、ありそうな心理ではないだろうか。

 実際、筆者自身もタイトルをつける仕事をする際には、多少の釣り要素を考慮すると同時に、それをTwitterでつぶやいた人が周囲に良い顔が出来る文言になるように気をつけている。これは実感ベースではあるのだが、極端に不快であったり、内容からかけ離れた釣りタイトルの記事は、アクセス率は高くなるものの、やはりつぶやかれる確率は下がっているように思う。

 いずれにせよ、こういう話から見えてくるのは、単純にニュース記事を消費すると言っても、そこに他者の目があるか否かで、そのあり方や拡散の度合いは大きく違ってくるということだ。一方でそれを意識するかは、アーキテクチャの問題であると同時に、当人の自意識の問題でもある。それは、かつてリアルの満員電車において、おしゃれな表紙の雑誌を見せびらかす自意識過剰な若者がいた一方で、堂々とスポーツ新聞のエロ記事を他の乗客に向けて読んでいたオッサンもまた、いくらでも存在していたのと同じことである。

 前回から私が、電話という原始的な形態のコミュニケーション媒体に的を絞って、一種の他者論を展開している理由の一つは、まさにここにある。電話のアーキテクチャそれ自体に注目すれば、それは1対1で人間がコミュニケーションしあうメディアである。しかし、そこにおいてすらも電話の向こう側にいる他者をどのようにイメージするかは、究極的にはユーザーに委ねられていた。