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2015年09月16日 23時24分 JST | 更新 2016年09月14日 18時12分 JST

戦後70年 悲劇の記憶を語り継ぐ ~北方領土~ふるさとを追われ 〜

解決のために、もっともっと話し合いをしなければいけないと思います。お互いがお互いの立場を理解しながら、膝を交えて話し合うことが大事だと思います。

4弾:北方領土

連合は毎年6月から9月を「平和行動月間」と位置づけて、沖縄・広島・長崎・北海道(根室)にて「平和4行動」を展開し、日本全国からの参加を呼び掛けている。

戦後70年を迎え、今、次世代に何を継承していかなければならないのか。

第1弾の沖縄第2弾の広島第3弾の長崎に続き、北方領土返還要求運動連絡協議会事務局長 児玉泰子さんのお話と、連合北海道から寄せられた平和への思いについてメッセージをご紹介します。

児玉泰子さん 北方領土返還要求運動連絡協議会事務局長

1944年、歯舞群島の志発島に生まれる。昆布漁を営む祖父母と両親、叔父・叔母と姉妹の11人で暮らしていたが、1945年9月にソ連軍が侵攻し、2年後に引き揚げ船で島を出た。

北方領土の島が家族と暮らした唯一の本当のふるさとなんです

島が占領されたとき、私は1歳でした。だから、島の話はほとんど聞いた話です。物心ついてからずっと家族が島の話ばかりするので、なぜそんなに島がいいのか不思議に思うほどでした。

1945年7月、根室が米軍の艦砲射撃に遭い1週間燃え続けました。志発島は納沙布岬から25‌㎞くらいしか離れていません。島から西の空が真っ赤に燃えているのが見えたのです。

終戦を迎え2週間が過ぎた9月3日、沖合にソ連軍の船が現れた。

島の人たちは、アメリカ軍が来ると思い込んでいたんですが、よく見るとかぎ十字のソ連軍。言葉の通じない軍人が銃を構えて入ってくるというのは恐怖ですよね。

若い娘は、乱暴されるんじゃないかと思って、髪を短く切って顔にすすを塗って、胸にさらしを巻いてあぐらをかくことを覚えました。小さい子どもも目に触れないように隠されました。私の母も、私を抱えて屋根裏部屋に隠れていたそうです。ある時母が私を連れて居間に下りたら、今日は来ないはずの隊長さんが入ってきた。家族は隠していたことがばれたと凍りついたんですが、隊長さんが笑って手を出すので、母が私を渡すと上手にあやしてくれた。その時、母は「この人たちも普通の人間の血が流れているんだ」と思ったそうです。色丹島にも、「子どもや若い女性に無体なことをした兵士は銃殺する」と言った隊長さんがいたと聞きました。

船や大きな建物が接収され、島を脱出しようとした島民もいました。天気の良い日は見つかってしまうので、海の荒れた霧の日に船を出すんですが、根室にたどり着く前に亡くなった方もたくさんいたそうです。

北海道からそのままとどまるよう命令が来て、私の家族も含め全体の半分くらいの島民が島で生活を続けました。本土との連絡も途絶え、翌年から一般のロシア人が入植してきました。島民が魚の食べ方を教えたり、産婆さんがロシア人の赤ちゃんを取り上げたり、協力し合ってどうにか暮らしていたそうです。

本土との連絡も途絶え

1947年、島民は本土に強制送還されることになり、貨物船で樺太の真岡の収容所に送られたのち、函館へ。

何の説明もなくて、両手に抱えられる荷物だけ抱えて、私たち家族は第2回の引き揚げ船に乗りました。「必ず島に帰る」と思っていたので、大事なものは軒下に穴を掘って入れました。不安でとぼとぼ歩いていると、私を可愛がってくれたロシア人が、「恐らく樺太へ行くだろう。樺太へ送られたら食べ物なんてない。日本は今食糧難で大変だから、着る物と食べ物を持ちなさい」と教えてくれたそうです。

引き揚げ船は貨物船でトイレもありません。甲板ですると、嵐の中で糞尿を含んだ海水が頭の上からバーッとかぶさってくる。本当に人間の扱いじゃなくて、体力のない者は死んでいき、海に流されました。

樺太の収容所は人でいっぱいで、食事は塩だけのスープとわずかな黒パン。食糧を持っていなかった人たちは、「まんま食べたい、まんま食べたい」と言いながら死んでいったそうです。私の家族は、自分たちも何日もつか分からないから食糧を分けてあげられなかった。本当に地獄のような生活だったそうです。

雪が降りだした頃、日本の船が迎えに来ました。函館に着いて、函館山を見た時、みんな抱き合って泣いたそうです。私たち家族も含め、ほとんどの島民は、島に一番近い根室に行きました。親戚もいるし、必ず帰れると思ったから...。でも、根室は空襲で焼け野原になっていましたから、住む家を探すのも大変でした。私の家族は親戚の家に分かれて暮らしました。ようやく父が小さな船を買えると、船を買いに行った帰り、事故で亡くなりました。「漁をやれるようになったら、みんな一緒に暮らせるぞ」と言っていたのに...。そのまま私の家族はばらばらです。だから私にとっては、北方領土が家族と暮らした唯一の本当のふるさとなんです。

祖母は「必ず島へ帰って墓参りをするんだ」と、島を見ながら、こうだった、ああだったといろんな話をしてくれました。私は、「島に帰ったら父もきっと生き返って11人で暮らせる」と思っていました。祖母は引き揚げてから20年が過ぎた頃、海に入って島に向かって歩きだしてしまいました。その年の冬に納沙布岬に近い小さな川で亡くなりました。

納沙布岬から北方領土が見えるんです。ふるさとが見えているのに行けない。これは、味わった者でなければ分からないと思います。

もっともっと話し合いを

1951年サンフランシスコ講和条約が結ばれるが、ソ連は調印せず、占領は続いた。1956年、日ソ共同宣言が調印されるが、北方領土返還は実現しなかった。

元島民として「ふるさとへ帰りたい」。そのために北方領土返還運動に取り組みました。サンフランシスコ平和条約で、日本が放棄したのは千島列島の18島で、これは1875(明治8)年の樺太・千島交換条約で交換した所です。歯舞群島と色丹島、国後島、択捉島は放棄していませんから、北方領土返還は、法的にも歴史的にも間違ったことは言っていないのです。いまさら言っても仕方のないことですが、サンフランシスコ平和条約を結ぶ時に4島のことを明記すべきだったと思います。

日ソ共同宣言が結ばれるという時、返還されるかもしれないと提灯行列まで用意しました。後で、ソ連側は歯舞と色丹の2島返還を主張し、日本政府は2島では平和条約に調印できないと「共同宣言」になったことを知りました。 

1991年、ソ連は解体しロシア連邦が成立。ビザなし交流や墓参が実現したが、領土交渉は進展していない。

解決のために、もっともっと話し合いをしなければいけないと思います。お互いがお互いの立場を理解しながら、膝を交えて話し合うことが大事だと思います。

戦後70年がたち、終戦当時1万7‌29‌1人いた島民が、今は7000人を切り、平均年齢は80歳を超えました。私も、もっともっと家族から話を聞いておけばよかったと思うことがたくさんあります。「北方領土」というと、寒くて何もない所だろうと思われがちですが、「択捉島は沖縄本島の2倍の面積の大きな島で、滝もあるし、ラッコもいるんですよ」と言うと皆さんびっくりされます。納沙布岬に行って島を見ていただきたい。根室の元島民の方々の生の声を聞いていただきたい。私たちには残された時間はもうわずかしかないんです。北方領土は元島民の領土でありふるさとです。領土問題は政治でしか解決できません。皆さんで「政府よ、本気で腰を据えてやれ」と声を上げていただきたいのです。

 

~「平和4行動」連合北海道からのメッセージ~

緑川義昭 連合北海道 道民運動局長

平和は戦後最大の危機にある

日本の誤った国策による戦争で、アジアをはじめ2000万人ともいわれる人々の命を奪い、日本人も300万人を超える犠牲者を出した。未来を閉ざされた人たちと家族は絶望し、痛恨の極みだったに違いない。不幸で凄惨だが、いずれも人間の手によるものだ。

ソ連の不法占拠によって命からがら脱出した北方四島の元島民は、帰郷を待ちわびている。平均80歳を超えるが、戦争の傷痕は決して拭えていない。私たちは、こうした史実や現実を知らなければならない。

戦争の傷痕は各地域に残っているが、戦争の非人道性が象徴的に表れているのが、連合が平和行動を行っている4つの地域である。そこで直接見聞きすることは、平和や人権に対する強い思いを抱かせる得がたい体験や学びとなる。

立憲主義が軽んじられている

平和は今、著しく脅かされている。政府与党の独善的な政治姿勢や手法によって憲法は空文化し、立憲主義は軽んじられてきている。とりわけ、歴代内閣が憲法上許されないとしてきた集団的自衛権について憲法解釈を変更して行使容認の閣議決定を強行し、これに基づき現在開催中の国会で関連する安保法制の「改正」や立法化の動きを見せている。国会軽視、国民不在の政治が加速し、平和や民主主義は、戦後最大の危機に直面している。

私たちは、「平和4行動」を通して歴史に学び、二度と同じ過ちを繰り返さないよう、次世代に平和を継承していかなければならない。そのためにも、憲法の三原則である「基本的人権の尊重」「国民主権」「平和主義」を国内外において貫徹し、安心・安全な社会を実現するとともに、世界に発信していくことが重要である。平和や人権擁護、民主主義の確立なくして、私たちが求めている「働くことを軸とする安心社会」の実現はあり得ない。危機的な状況だからこそ、労働組合は、社会的責務として平和運動を牽引していくべきだ。

 

※こちらの記事は日本労働組合総連合会が企画・編集する「月刊連合 2015年6月号」に掲載された記事をWeb用に編集したものです。「月刊連合」の定期購読や電子書籍での購読についてはこちらをご覧ください。