ガマンするのは仕事じゃないよ。

先日、某一部上場企業の財務系職種の方々とお仕事をした。なんというか、べらぼうに優秀な人たちだった。
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先日、某一部上場企業の財務系職種の方々とお仕事をした。

なんというか、べらぼうに優秀な人たちだった。税法や会計基準に精通していて、会社の取引を隅々まで把握している。当然、社内だけで決算書作成や税金計算を行える体制になっていた。その部署の平均年齢は四〇代半ば。バブル崩壊後に新卒採用を絞った典型的な日本企業だ。もちろん彼らは、会計士や税理士の資格を持っているわけではない。しかし日々の管理業務を淡々と確実にこなせる、いぶし銀の社員たちだった。

そして、彼らの年収が驚くほど安かったのだ。

(※さすがに具体的な数字は言えないけど)

※日本では「職種」よりも「会社名」が優先される。なぜなら人事異動でたらい回しにされるため、特定の職務のプロフェッショナルが育ちづらいからだ。

たとえば非上場の中小企業や新興のベンチャーでは、経理まわりがグダグダということが珍しくない。会計士や証券OBにコンサルティングを受ければ、目玉の飛び出すような報酬を請求される。かといって、いまの経理担当者がベテランに育つまでにセミナー代がいくらかかるか想像もつかない。ほんとうは経験を積んだいぶし銀の人材こそが必要とされているはずだ。多少お給料が高くても好待遇で雇いたい:そう考える新興企業は少なくない。

ところが「いぶし銀の社員」たちは安い給料でよろこんで働いている。ベンチャーなんかに目もくれない。

彼らは、自分の能力をもっと高く"売る"ことができると気づいていない。「子供の就職先が決まらない」と愚痴ったその口で、「賃金が下がってもいいから雇用期間を延長しろ」と訴える。かくして若者は正社員になれず、日本人の労働生産性は低いままに押さえられ、格差は固定化していくというわけだ。おめでたい話だ。

私の出会った「いぶし銀の社員」たちは、ほんとうは倍ぐらいの給与で働いていてもおかしくない方々だった。彼らがなぜ低劣な待遇に甘んじているのかといえば、「大きな会社で一生を過ごす」という考え方を捨てられないからだ。「安定志向」「リスク回避」といえば聞こえはいい。しかし、持てる能力には適当な対価を求めるべきだ。労働力を不当に廉売させられることを、古い呼び方で「搾取」と言う。

日本の雇用環境にはもっと流動性が必要だ。

たとえば経験豊かなベテラン社員たちは、自分の能力にもっと高い値をつけてくれる雇用先を見つけるべきだ。労働者が能力に見合った報酬を受け取っていないから、可処分所得が目減りして景気が冷え込むのだ。いまの仕事にしがみついているから、若者たちに正社員の席が回らなくなり、低所得な非正規雇用に甘んじるしかなくなるのだ。所得の格差が、機会の格差になってはならない。

「雇用の流動性を高くしたほうがいい」という意見には、しばしば「だから解雇規制を緩くするべきだ」という言葉が続く。「流動性を高めるために解雇しやすくするか」VS「労働者を守るためには流動性が低くなるのはしかたない」みたいな意見の対立をよく見かける。しかし、これってダメな議論になりがちだ。というのも目的と手段をごちゃまぜにしているからだ。

言うまでもなく、目的と手段は分けて考えたほうがいい。

「雇用の流動性を高くしたほうがいい」という主張は、世の中の理想的な姿について語っている。つまり「目的」だ。まずはこの目的が望ましいものかどうかを考えてから、この目的を実現するための「手段」について検証しなければならない。

「雇用の流動性」について、私は「流動性が高くなったほうがいい」と思っている。

仕事とは、ただ機械の歯車のように手を動かしてカネを稼ぐだけのものではない。それ以上の、社会との接点を与えてくれるものだ。「生きる意味」のようなものをくれるものだ。

就活中の学生たちは「低賃金だけどやりがいのある仕事と、やりたくないけど高報酬の仕事のどっちがいい?」なんて謎かけをする。バカを言うな。やりがいも報酬も高ければ高いほどいいに決まっている。両者をトレード・オフなものとして扱うこと自体がナンセンスだ。私たちは、より誇り高い仕事を、より良い報酬でこなすべきなのだ。そのためには適材適所が欠かせない。そして適材適所を実現するためには、「いい仕事」「いい人生」を求められる――求めつづけられる――世の中でなければならない。雇用流動性の高い世の中でなければならない。

では、その手段について考えてみよう。「雇用流動性を高くする」という目的に対して、「解雇規制の緩和」という手段は適切だろうか。

正直、あまり効果的だとは思えないな......というのが私の見解だ。

「解雇規制の緩和」を支持する人の論拠は、「生産性の低い (※主に高齢の)労働者を、規制のせいで解雇できないから」というものだ。しかし、よくよく考えてみるとこれってマユツバだ。バブル崩壊後にリストラの嵐が吹き荒れて、「窓際族」は死語になった。どこの会社でも、能力の低い社員は駆逐された。

「仕事をしない老害」なんて、ほんとうにいるの?

上司に対する若手社員の嫉妬と、クビを切りたい経営陣の欲求が生みだした幻想なのではないの?

仕事をしてなさそうな"あのおじさん"は、あなたの見てないところで重要な役割を果たしているかもしれない。高齢正社員の"生産性"が低いのは、そもそも能力に見合った対価を受け取っていないから、かもしれない。

......オーケー、オーケー。百歩譲って「仕事をしない老害」がいるとしよう。

そういう人のクビを切ったところで、雇用流動性が高くなるわけではない。優秀な人が残るだけで、「若者に仕事が回ってくる」わけでも「非正規雇用者が正社員になれる」わけでもない。「いい仕事」がしたいなら自分の能力を磨くしかなく、すでに「いい仕事」をしている (ように見える)人を引きずり降ろしたところで無意味だ。「みんなで不幸になろうキャンペーン」にしかならない。

クビにされることを恐れて、優秀な人々は自分の仕事に固執するようになるかもしれない。いまよりもさらに安い賃金で働くようになるかもしれない。解雇規制を緩和したことで、むしろ雇用流動性は損なわれてしまうかもしれない。

※ちょっと古めの記事。ベーシック・インカムはともかく、前段の「労働の価格弾力性」の話はとても面白い。(編集注:現在はリンク切れ)

雇用流動性は高いほうがいい。高くするには、たとえば副業規定の廃止や、セーフティネットの整備が有効かもしれない。しかし何よりもまず、私たち日本人の「考え方」が変わらなければいけない。ネットからは見えづらいが、日本の社会には古くさい考え方が満ちている。時代遅れな価値観のカビくさい悪臭で充満している。「一つの会社で一生を過ごさなくてもいいんだ」「もっと高い報酬を目指していいんだ」......そういう考え方を「当たり前」のものにしていかなければ。

かつて、一つの会社で一生を過ごすことがしあわせな時代があった。いまの世の中を牛耳っているのは、そういう時代に青春をすごした人々だ。時代遅れな考え方を捨てられない彼らに、私は憐憫を覚える。自分の能力に適正な値を付けてもらえず、人事異動に振り回されても文句ひとつ漏らさない。我慢は美徳かもしれないが、そんなの「生きてる」とは言えない。ゆっくり死んでいるだけだ。

私は学者ではないし、政治家でもない。【理屈】や【政策】で、世の中を変えることはできない。

しかし世の中は、【感情】で動く。

ある新しい考え方が「当たり前」になったとき、世の中は変わる。

変えよう、みんなで。

(2013年1月10日「デマこいてんじゃねえ!」より転載)

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