ベトナム人から見た日本/ベトナム訪問記(3)

出会いは最悪だった。ホーチミンの空港は、テト(旧正月)に地元へ帰る人で混雑していた。列は誘導されず、搭乗手続きは遅々として進まない。

 出会いは最悪だった。

 ホーチミンの空港は、テト(旧正月)に地元へ帰る人で混雑していた。列は誘導されず、搭乗手続きは遅々として進まない。いつ飛行機に乗れるか分からない不安に誰もが顔を曇らせていた。

 ベトナム航空・ハノイ行きの便の離陸まで1時間。

 焦る気持ちから、私は人をかき分けて前へ、前へと進んでいった。気分は大阪のおばちゃんだ。すると横に並んでいた男から舌打ちされた。20代前半のお兄ちゃんだった。

 ここで1つ注釈しておきたい。

 ベトナム人の気質は、とても穏やかだ。

 日本人は礼儀正しい民族だと言われているが、これほどの混雑に巻き込まれたらブーイングが漏れ聞こえてくるだろう。空港職員にクレームをつける人もいるはずだ。ところがホーチミン空港に集まったベトナム人たちは文句1つ漏らさず、静かに順番を待っていた。日本人以上に穏やかで礼儀正しい。それがベトナム人の性格なのかもしれない。

 そのベトナム人に舌打ちをさせたのだ。私の行動がいかに非礼なものだったのか分かる。

 とはいえ翌日の予定をキャンセルするわけにはいかない。まして海外旅行中だ。日本のように誰かが助けてくれるわけではない。旅の恥はかき捨てというし、ずいずいと前に進んでいった。

 そして無事に搭乗手続きを済ませて、飛行機に乗ることができた。

 座席に腰をおろしてホッと一息。ふと隣を見て絶句した。

 先ほど舌打ちを漏らしたお兄ちゃんが座っていた。

     ◆

 気まずさをごまかすため、機内誌を手に取った。

 幸いにもベトナム語と英語が並記されている。誌面はお正月ムード一色で、世界各国の迎春の風習について特集が組まれていた。ふむふむ、「日本は正月を祝わなくなった」と書かれているぞ。「その代わり、古くからの風習を新暦1月に行うようになった」と。なるほど、こちらではテトこそが正月(New Year's Day)であって、これを「旧正月」と呼ぶのは日本的な考え方なのだなあ......などと感心していたら、声をかけられた。

 「あなたは英語を話せるの?」

 恐る恐る雑誌から顔を上げると、隣席のお兄ちゃんが微笑んでいた。iPhoneで音楽を聴いている、いかにもイマドキっぽい若者だ。

 「ええと......。まあ、ちょっとなら......」

 「よかった。飛行機の中で退屈していたんだ。失礼だけど......あなたは韓国人かな?」

 「いいえ」

 「それじゃ中国人?」

 「いいえ」

 「まさか、日本人?」

 「はい、私は日本人です」

 思わず、英語の教科書の「これはペンです」みたいな喋り方になってしまう。うさん臭いことこの上ない。しかし相手は、パッと顔を輝かせた。

 「へえ、日本から来たのか! ベトナムには仕事で?」

 「いいえ、観光で来ました。テトの混雑にとても驚いています」

 彼は苦笑した。

 「知っていると思うけれど、テトにはみんな地元に帰るんだ。だから空港も飛行機も混雑していたんだよ」

 「みなさんは荷物がとても多いですね」

 空港につめかけた人々は、ダンボール箱を自分の背丈ほども積み重ねていた。

 「あれは実家へのお土産だよ。お正月には新しい服を着て祝うんだ。都会で買った新品の衣類を、ああやって地元に持って帰るんだよ」

 「郵便や宅配便で送らないのですか?」

 「は? どうして郵便を使うの?」

 「えっと、それは......日本人はあんなに荷物が多いときは、郵便で送ります」

 彼は苦笑した。

 「ベトナムの郵便は、日本ほど安くも便利でもないんだよ。自分で持って帰るほうが賢いのさ。僕の田舎はハノイから北に40kmぐらいの町なんだけど、メルボルンのお土産を山ほど持って帰るつもりだよ」

 「今、メルボルンって言いましたか?」

 「うん」彼は鼻をかいた。「僕はオーストラリアから帰ってきたところなんだ」

    ◆

 彼の名前は、チャン(Tran)というらしい。

 「あとでFacebookで友だち登録してくれよ」

 名前の書かかれたメモ帳を受け取りつつ、私は訊いた。

 「メルボルンではどんな仕事をしているのですか?」

 「どんな......って、大した仕事じゃない。工場で働いているだけだ」

 たしかに話には聞いていた。ベトナム人は世界中の工場で重宝されているのだという。穏やかで礼儀正しいのは前述の通り。さらに手先が器用で勤勉なため、ベトナム人の出稼ぎ労働者は引く手あまたなのだそうだ。

 「この国では月収は500ドルくらいが相場だから、海外で働くほうが儲かるんだ」

 「あなたは英語がとても上手ですが、どれくらい勉強したのですか?」

 「オーストラリアに渡る3ヶ月前から勉強を始めたよ。向こうに行ってからも最初の4ヶ月は大学で英語を習っていた。で、学費が底をついたから仕事を探したんだ」

 今回は2ヶ月のホリデーだという。こんなに長く休むのは2年ぶりだと、チャンさんは照れくさそうに言った。

 「地元では嫁が待っている。もうすぐ僕は父親になるんだ」

 「ええっ!? 結婚していたの? しかも子供が? あなたはおいくつですか? というか、おめでとうございます」

 「僕は25歳だ。あなたは?」

 「えっと......それは、その......」

 チャンさんは快活に笑った。

 「答えにくければ答えなくていいよ。それにしても、あなたはどうしてベトナムに興味を持ったの? 観光旅行なら、他にもっといい場所があると思うんだけど」

 「それは、ベトナムがすごい国だからです。長い歴史と独特の文化があり、経済の面では目覚ましい成長をしています」

 私はホーチミンの街を歩いて、この国の活気を肌で感じた。ベトナムの平均年齢は約28歳。一方、日本は約45歳だ。日本がいかに年寄りだらけなのか、ベトナムの街を見てあたらめて実感した。

 「そんなにすごい国でもないよ」

 チャンさんは肩をすくめた。

 「でも、ベトナムのGDPは──」

 「たとえばあなたは、国産品と輸入品のどちらが好き?」

 質問の意図がつかめず、私は目をしばたたかせた。

 「......どっちも、かな?」

 「だろうね。日本にはホンダがあるし、ヤマハもある。ソニーもパナソニックもある。それに比べてベトナムには何も無い。だからベトナム人は輸入品のほうが好きなんだ」

 だからみんな、海外の製品をお土産にする。そういえば成田空港からベトナムに向かう人々は、日本製の紙おむつを運んでいた。保育園でも経営しているのかと疑問に思うほど大量に、である。あれもテトに向けたお土産だったのだろうか。

 「日本の紙おむつは、ベトナムで人気があるんですね」

 「紙おむつだけじゃない。日本製品は最高だよ!」

 iPhoneを触りながらチャンさんは答えた。

 「あなたは東京には行ったことがある?」

 「はい、私は東京出身です」

 「ええっ!? 本当に? 東京の出身だったの?」

 チャンさんはうっとりと目を細めた。

 「いいなぁ......東京かぁ...」

 「東京に興味があるのですか?」

 「もちろんだよ。だって、東京はすごい街だろ? 暮らしているのはEducatedな人たちばかりだし、ハイテクノロジーの集まる街だ。未来の街だよ」

 ベタ褒めだった。

 「そうでもありません。東京に住んでいるからと言って、Educatedな人だとは限りません」

 チャンさんはかぶりを振った。

 「まさか! たとえば僕は、オーストラリアやベトナムで何人かの日本人と知り合ったんだ。日本人って、みんな英語が話せるじゃないか。ベトナムでは考えられないことだよ!」

 私は苦笑いしてしまった。

 「それはチャンさんの出会った人が、たまたま英語の話せる人だったのです。日本人は英語が苦手です」

 「まあ、英語の話はそうだとしても......東日本大震災のニュースは印象的だったよ」彼は真剣な表情になった。「あれほどの地震があったのに、暴動が起きなかったのは、やっぱりすごいことだと思う。ほかの国、たとえばベトナムで同じ規模の地震が起きたら、もっと大変なことになっていたと思う。復興にも時間がかかったはずだよ」

 ベトナムは地震が少ない国だ。

 「それに、今日の空港を見ただろう? ベトナム人はきちんと列になって並ぶことさえ知らないんだ。比べたら、やっぱり東京の人はEducatedだと思うよ」

 「うーん、それは東京の人が慣れているだけだと思います」

 「慣れている?」

 「そうです、『慣れ』です。たとえばあなたは東京のラッシュアワーを知っていますか?」

 「すごく混雑するんだよね、YouTubeで見たよ」

 「はい、あれはこの世の地獄です。あれほどの混雑を日常的に経験しているから、東京の人は列になって並ぶことに慣れているんです。ベトナムの人たちも、そのうち混雑に慣れていくはずです」

 これは本音だった。たとえばロープを張って列を誘導したり、並んだ人を手際よくさばいたり......。急速な経済発展を遂げたベトナムでは、混雑に対するノウハウがまだ充分に蓄積されていないのだろう。この国の人口構成は60年代の日本に酷似しているという。そして60年代の日本は、今ほど清潔ではなかったし、サービスも行き届いていなかった。

 「これから何十年か経ったら、ホーチミンは東京と同じくらい洗練された都市になると思います」

 「うん、僕もそう願っているよ」

 「それから地震に対しては、日本人は小さいころから訓練を積んでいます」

 「訓練だって?」

 「はい、防災訓練と言います。揺れを感じたら火を消して、机の下に隠れるんです」

 チャンさんはフーッとため息をついた。

 「感心した。それはとても面白い話だね。そうか、地震の多い日本では、子供にそんな訓練を受けさせるのか」

 やっぱり他の国のことを知るのは面白いとチャンさんは言った。

 「ベトナムの若者は、もっと海外のことを知るべきだと思うんだ」

 「日本でも同じ問題を抱えています。最近の日本では、自分の国のいい部分にしか目を向けず、他国のいい部分に興味を示さない若者が増えています」

 「本当に? 信じられないな」

 「なぜ信じられないのですか?」

 「だって日本人は、僕たちベトナム人よりもずっと恵まれているじゃないか」

 あとで調べて分かったのだが、ベトナムの義務教育は都市部で9年間、地方では小学校の5年間しかないという。私立学校や、受験のための塾。教育費用が家計に重くのしかかるそうだ。日本のように選挙で政権が変わることはありえないから、政治への期待感も薄い。自分の幸せは自分の手で掴むしかない。多くのベトナム人がそういう感覚を持っているらしい。

 「日本は公立学校の質が高いし、英語もきちんと学べると聞いたよ。海外旅行に行くお金だって、かんたんに貯められる。こんなに恵まれている日本人が他国に興味を持たないなんて、僕には信じられないよ」

 メルボルンは世界中から留学生が集まる国際都市だ。きっとチャンさんも、様々な国・地域の友人を持っているのだろう。ベトナム人の月収は約500USD。日本なら学生のアルバイトで稼げる金額だ。

 「ところでチャンさん、あなたは東京に行ったことはありますか?」

 「ないよ。だけど、いつか必ず行くつもりだ」

    ◆

 ハノイに着くころには深夜になっていた。

 着陸と同時に、前席の若者たちが歓声をあげた。チャンさんよりもさらに若い、10代後半からハタチぐらいの男の子たちだ。

 チャンさんは眉間にシワを寄せた。

 「恥ずかしいものを見せてしまったな。僕はあの世代の子供を『ジャンクジェネレーション』と呼んでるんだ。90年代生まれのやつらは礼儀や常識を知らないんだよ」

 日本でいう「ゆとり」みたいなものだろうか。

 「まったく最近の若いやつらは......」

 ぶつくさと文句を漏らすチャンさんは、一児の父となる男の貫禄をのぞかせていた。25歳という若さがチャンに冒険心を与え、飛行機で隣席の外国人に話しかける気さくさをもたらした。しかし、彼は一家を支える大人の男でもある。

 平均年齢の若いベトナム人は、総じて日本人よりも子供っぽい部分があるのかもしれない。仕事中にふざけあっている警察官を見かけたし、iPhoneを触りながらレジを打つ人も珍しくない。しかし同時に、平均年齢の若さが人を早熟にすることもある。

 飛行機を降りると、ひんやりとした空気が私を包んだ。

 ハノイ空港の気温は10度。常夏のホーチミンから来た私は、慌ててカーディガンを羽織った。そして周囲を見て目をむいた。分厚いダウンジャケットを着込み、マフラーで顔をぐるぐる巻きにした人々。そのまま南極探検に出かけられそうな格好だ。ベトナム人は寒がりが多いと聞いていたが、まさかこれほどとは......。

 ターンテーブルには荷物を待つ人が群がっていた。正月のお土産を詰めた荷物だ。誰もがみんな、どこか浮き足立っていた。たとえば高校の文化祭の前日のような空気だ。

 私は機内持ち込みの荷物だけだったので、足早に空港から去ろうとした。

 「待ってくれ!」

 チャンさんに呼び止められた。

 「じつは、あなたに言いたいことがある。ホーチミンの空港で順番待ちをしているときに、僕はあなたに舌打ちをした。それを謝りたい」

 「えっと、それは......」

 思いがけず真摯な眼差しを向けられて、私は口ごもってしまう。チャンさんは言った。

 「ごめんなさい。だけどあなたと会えてよかった」

 「私のほうこそ謝りたいです。慌てていたとはいえ、ごめんなさい」

 差し出された手を、私は握り返した。

 「私も、あなたと会えてよかった」

 「いい旅を」

 「いいお正月を」

 短い別れの言葉を交わすと、チャンさんは浮き足立った人々のなかに消えていった。その背中を見送って、私も自分の旅に戻った。

 日本に帰ったらチャンさんに紙おむつでも送ろう、と考えながら。

 ベトナムの国内線。出されるのは当然、ベトナム風の濃いコーヒーだ。人によっては練乳を混ぜて飲むほど苦いシロモノである。

 「コーヒーはいかがですか?」

 「砂糖とミルクを2つずつください」

 やはりチャンさんも、コーヒーを甘くして飲むのが好みのようだ。

 「そちらのお客様は......?」

 「あ、私はブラックでいいです」

 「「ええっ!?」」

 チャンさんとキャビンアテンダントの声がハモった。

 「ほ、ほんとうに砂糖もミルクも使わないの? マジで? 大丈夫?」

 なぜか心配までされてしまった。

 これが今回のベトナム旅行のハイライト。

(2014年2月11日「デマこいてんじゃねえ!」より転載)

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