それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った。
「なぜ彼らに『たとえ』でお話しになるのですか」
そこでイエスは答えて言われた。
「あなたがたには天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。
おおよそ持っている人は与えられていよいよ豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられるであろう。
だから彼らには『たとえ』で語るのである。
それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。
──マタイの福音書
物語を作るのは、ほかの手段では伝えられない価値観や考え方を伝えるためだ。
当然、物語の消費者は、その物語が「何」を語っているのかを読み解こうとするし、そこで語られる価値観や考え方そのものが議論の対象になりうる。映画の脚本術や演出、作画は語るための手段にすぎず、語られる中身ではない。
したがって映画の「作り」がどれほどすばらしくても、作中で語られる世界観や価値観が甘ければ、それは批判の対象になりうる。
「甘い」とは「現実世界での議論を踏まえていない」ということだ。「リアリティがない」と言いかえてもいい。もちろんフィクションである以上、「リアル」である必要はない。現実をそのまま映し出すのでは、ドキュメンタリーになってしまう。フィクションは「リアル」でなくてもいいが、しかし「リアリティ」は必要だ。すでに積み重ねられている議論を無視して作られた物語は、リアリティを喪失してしまう。
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たとえば物語中で「母性」について語るのなら、フェミニズムの「3つの波」は当然押さえておくべきだろう。
フェミニズムの第一の波は19世紀末~20世紀前半にかけてのもので、「家庭内での女性の役割」に価値を認めさせようとする運動だった。いわゆる「良妻賢母」の思想だ。日本では平塚らいてう等が代表的な論者だ。
「女性は家庭内でこんなに価値のある仕事をしている、だから選挙権を認めよand/or社会的な地位を向上させよ」これがフェミニズムの「第一の波」での主張だった。ここでは「母性」をはじめ、家事や育児など、いわゆる「女性らしさ」が生得的なものだと見なされてしまった。「生まれながらの女の役割」がなければこの社会は成り立たない。だから女性の社会的役割に価値を認めよ。これが第一の波での主張だった。
フェミニズムの「第二の波」は20世紀半ばに生まれたもので、噛み砕いて言えば「女も『男並み』になるべきだ」という考え方だ。おそらく戦時中の男不足によって女性労働者が増えたことが背景にある。男女平等を訴えた「第二の波」は、男女の役割分担を「生まれながらのもの」とした第一の波よりも進んでいた。
余談だが、「なでしこジャパン」の活躍がめざましい。じつはフェミニズムの歴史と深い関係がある。たとえばイングランドでは20世紀の初頭に女子のグラウンドの利用を禁止するルールが作られた。これが解除されたのは1971年で、現代の本格的な女子サッカーはそこからはじまる。
女子サッカーでは、グラウンドの広さもボールの大きさも男子と同じものを使う。ルールにも男女差がほぼ皆無だという。バレーボールを始め、多くの競技で男女差が設けられているにもかかわらず、だ。これは1970年代に流行ったフェミニズムの第二の波と無関係ではないと思う。
男女の役割分担を「生まれながらのもの」と見なした第一の波に比べて、フェミニズムの第二の波はずっと進んでいた。が、1つの問題を抱えていた。それは、すべての女性が「男と同じ」を求めているわけではなかったということだ。昔ながらの「女らしい生き方」を望む女性も、当然ながらたくさんいた。
そこで生まれたのがフェミニズムの第三の波。現代のフェミニズムだ。
一言でいえば「女らしさ」よりも「自分らしさ」を重視する考え方だと私は理解している。男並みに働くのも自由なら、女性性を最大限に利用して生きるのも自由。ここにきて、ようやく女性を本当に解放する考え方が生まれた。
「母性」についてざっくりとした説明をすれば、フェミニズムの第一の波では「すべての女が生まれながらに母性を持っている」と見なされていた。第二の波では「生まれながらの母性などない」と見なされた。そして現代では「生まれながらの母性・父性はあるが、いつでも・誰でも・確実に発揮されるわけではない」と見なされている。
子供を愛する気持ちは、たぶん誰にでもある。
けれど、その気持ちがいつでも発揮されるわけではない。
では、どうすればそういう気持ちを引き出すことができるのか。
ただの人間から「親」になるには、どうすればいいのか。
現代の誰もが頭を悩ませている課題に答えを与えるのが、創作者の責務ではないか。
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フェミニズムの「3つの波」は高校生~大学1、2年生レベルの教養だろう。しかし、そういう教養を直接学ぶ機会がなくても、世の中を見れば「3つの波」を感じることができる。テレビや新聞を見て、「この人の考え方、古くない?」「この人の考え方は今風だな」と感じることはできるはずだ。言葉で説明されなくても理解できる力、感じ取る力のことを、感受性という。
知識や教養なんてのは後付けのもので、するどい感受性を持った創作者であれば必要がない。むしろ「教養が邪魔をする」パターンをまま見かける。体系的な知識にもとづいて書かれた物語を読むと、「あー、この人はあの本のあそこを読んでこの小説を書いたんだな」と舞台裏が見えてしまう場合があるのだ。(※もちろん舞台裏を盗み見るのが楽しい場合もあるので、一概に悪いとはいえないけれど)
脚本術や演出、作画は「どう語るか」の技術にすぎず、「何を語るか」を教えてくれるものではない。消費者にとって大切なのは、語られる「何か」のほうであって、その部分の詰めが甘ければ批判の対象になってしかるべきだ。ただの妄想ではなく、現実世界での議論を踏まえた深い理想を描かなければ。
フィクションは、嘘を介して真実を語るものだと、私は思う。
(2013年12月24日「デマこいてんじゃねぇ!」より転載)