『何を言うかではなく、何を言わないか』物事を教える時に考えたい相手との距離感

右に進ませたい時に「右に進め」と言うのは簡単です。しかし指導者に求められるのは、選手自身が「右に進んだほうが良いんだ!」と気付き得らるように持っていく力だと思います。

縄跳びを教えると言えば二重跳びや交差とびといった技を教えること。小学校やなわとび教室で自分たちに求められたのは「効率的に技術を習得するためのノウハウ」でした。

たしかに授業や趣味として縄跳びに取り組む場合には、こうした「表面的なエッセンスだけ」でいいでしょう。学習のモチベーションを維持する意味でもエッセンスは重要です。

しかしこれは表面的なエッセンスでしかありません。なぜなら彼らに「考えるプロセス」を伝えられていないからです。

■教えることとは技術の継承・伝達ではない

上記の場合だと与えられた道に乗っかっているだけで、誰かが道筋を与えてくれなければどこにも進むことが出来ません。

加えて「誰も教えてくれないから何も出来ない」と言い出す。

トップの中にもこうした選手をたまに見かけますが、この状態でトップに居るのは極めて脆弱であると言わざるを得ません。

技術を伝承するということは、技術そのままを継承するのではなく、発展させることが大切なのだ。「技術を開拓するアプローチの『回路』をどれだけ多く創るか」「どのようなアイディアが閃くか」までも含まれるということがおわかりいただけるだろう。

■考える力がなければ、自ら生み出せない

特定の種目でトップに居るとしても、コーチの献身的な擁護のおかげなのと「自力」でトップまで上り詰めたのでは大きく意味が違います。

自身の判断の元でコーチの指導を仰ぐのは自力です。ここに判断があるからです。一方で判断を含めた全てをコーチに委ねてしまっているのは他力本願です。

あなたが前者だった場合、そのコーチの元を離れても競技力を維持できる自信はありますか?

■教える側の功罪

これは何も選手側だけの問題だけでありません。教える側が「考える力」を育てられなかった責任でもあるのです。問題の背景には「教えすぎ」という指導者の陥り易いミスが横たわっています。

ある一定のレベルまできたら、手取り足取り教えるだけでは、飼い犬を育てるのと同じで主人の言いなりのままでしかなく、指導者の技術以上のものは身につかないと思う。

初心者のうちは「型」や「基礎」が重要になるので手取り足取りでも仕方ありません。しかしいつまでもお世話しすぎるのは、いかがなものでしょうか?

選手の将来を一番考えているのはコーチである、と断言するのは良いですが、それって不健全な状況だと思いませんか?

だって選手自身の将来を一番考えるべきは、他の誰の人生でもない選手自身のハズです。にも関わらずコーチが人生を背負ったかのように思考停止に追いやり、選手が考える機会を奪ってしまうのは不健全ではないでしょうか。

「何を言うかではなく、何を言わないか」という言葉の真意は、コーチが何を言うかではなくて、ハンマー投をしている本人が自分で気づくまでは身につくものも身につかない、ということなのだろう。

■教えるとは、自分以上の器にすること

熱心な指導者ほど多くの助言を与えます。最初の内に競技力を効率よく伸ばすには必要なことでしょう。「守破離」で言うところの「守」の部分にあたります。

しかし選手生命は長く、人生はそれ以上に長い。コーチの一存にばかり沿ってきた選手は自ら選択する力を失い、無意識の内に考えることすら放棄してしまうのです。

父はよく、指導をする際に「何を言うかではなく、何を言わないか」が重要だという言い方をする。一定の距離感を持って、静観し、待つ。そして選手から聞かれたら、すべての疑問に答えられるように準備をしておく。

指導者の役割は、自分の器以上のものに高めること。野生の動物を育てるように、型にはめずにどうしたら伸びるか、技術向上のヒントを教えるのが重要だ」と父は言う。

教える・教わるの関係には上下が生まれやすい。とかく先輩やコーチの言葉は、金言のように教わる側に届いてしまう可能性が高い。

右に進ませたい時に「右に進め」と言うのは簡単です。しかし指導者に求められるのは、選手自身が「右に進んだほうが良いんだ!」と気付きを得られるように持っていく力だと思います。

(2015年2月8日「なわとび1本で何でもできるのだ」より転載)

注目記事