明治神宮の森を「永遠の森」とすることを掲げたものであり、
当代一の研究者や専門家の設計計画によるもので、
多くの人々と全国からの献木によって出来上がったものだった。
ということが分かりました。
しかも、その計画とは100年以上のスパンをもって、
植生の変化をも考慮した長期的な視野に基づいたものです。
計画した人たち自身がその最終形を見ることはできない。
植林した人たちも自分たちが植えた木が成長した姿を見ることができるのかどうかわからない。
それでもやる、未来の世代のために。
木に携わるというのはそんな仕事です。
林業に携わる方々もそうです。たとえば今伐採出荷されている樹木というのはその山の持ち主の方の、お爺さんが若い頃植えたくらいでは樹齢50年ほどでしかなく、まだ良質な材としては若すぎです。
針葉樹系の構造材で樹齢60年以上ということになると、会ったこともない曾祖父さん以上の先代が植えてくれていないとダメということです。
↓写真は北限の檜と呼ばれる八溝山系の林業現場
となると、今植林している樹木の苗が材木になるのは、自分の曾孫世代のために行なう仕事ということになり、昨今の経済原則に染まった頭ではすべてが非合理として否定されてしまうことになる。
投下資本に対する最大のリターン、原価率の低いエリアへの流出、それらに連動する雇用調整、数合わせだけの労働力でこなす普遍化、経済サイクルを早く早く回して、投資を回収していこうとするのが今の経済的合理性でしょう。
だから、数年の寿命の家畜ですら遺伝子を操作したり、ホルモン投与をしてまで成長を促進させたりする。普通の飼育方法では待てない、ライバルに負けてしまう、もっと成長を促進させて短期で回収したい、、生き物に対してやってます。
それに対し、樹木は
もっとゆっくり、投資回収は数十年、数百年後。
そもそも投資だとか回収だとか、レバレッジがとか、まったく似合わない。
植林の利回りだとか、ヒノキへの投資詐欺とかいったものがおこらないのはそういう理由です。
むしろ短期的利益の極大化に乗らないからこそ、林業はグローバルな経済の枠組みに対する抑止力の一つになる可能性がある産業です。
しかしながら、この木材と木加工製品における経済政策が戦後のどさくさで改悪されて以来まったく顧みられていないために国産材の需要喚起ができていないため林業は非常に苦戦しています。結果として間伐(ダメな木を間引き)したり下草の整備などをおこなう世話が焼かれないために、スギ花粉問題などもおこっていると思われます。
このあたりは木材だけでなく、ライフスタイルの変化にもよりますが、家具木工製品の国内産業が衰退してしまっている原因のひとつです。
この木工産業については数年前にかなりというか、当時の私の事務所が死んでしまうくらいに全精力を傾けてがんばってみたことがあるので、非常に詳しいのです。
だから、逆に考えてみれば土手の桜並木であろうが、校庭のケヤキであろうが、人間の寿命以上に生きる樹木を適当な都合で簡単に伐ってしまうということは、とりも直さず次世代の可能性を奪うということなのです。
今ではこんなに立派な外苑の銀杏並木ですが
この銀杏が植えられたころは、こんなにちっちゃい。
これを植えた人たちは今の銀杏並木は見れなかった。
でも、そうなるだろうことを想像して植林してくれたのです。
さらに、この外苑計画をひもといてみますと当時の計画図があります。
左側が神宮内苑、右側が外苑です。
今と違って、内苑と外苑の間があまり市街地化していませんね。
と、同時にちょっと気付くことがあるのです。
現在の都市空間において内苑の方は神社、外苑の方は公園と勝手に考えている人が多いと思うのですが、
内苑と外苑は一体であるということ、両方で明治神宮であるということです。
それを結ぶ横断道路が計画されていました。
今ある表参道と対になったこれが裏参道です。
この一部が今の北参道なんです。
1925年ごろの裏参道の様子です。
伊勢神宮にも内宮、外宮がありますが、京都の上賀茂神社、下鴨神社なども、対になっております。諏訪大社もそうですね。
上社、下社ともいいますが神社の格式として二社制です。
これには意味があり、日本の神社には表と裏、陰と陽の思想が埋め込まれているといわれております。
明治神宮はその伝統を踏襲しつつ内苑には神社を、外苑側に洋風庭園や絵画館を配置したわけです。
だから、内苑だけが神宮ではないのです。
外苑も神宮なのです。
その証拠といってはなんですが、皆さんは絵画館の裏にまわったことがありますか?絵画館の裏には不思議な丸いものがあるのです。
盛り土をした上に楠が植えてあります。
これはですね。
明治天皇大喪のおり御轜車(ごじしゃ)、棺が安置された場所なのです。
葬場殿趾です。
明治陛下は内苑のみにお祀りしてあるのではないのです。
外苑にもモダンに洋風文化をうまく取り入れながら、一見かたちを変えてありますが、その空間構造は神宮なのです。
外苑の空間配置も実は神社形式なんです。
この円墳状の小山の上の楠が本殿であり、絵画館が拝殿となり、イチョウ並木が参道という見立てです。
つまりは、日本文化の精神構造を踏襲して非常にソフィストケイトされた神社なんです。だから、青山通りから絵画館前に至る並木の空間には、洋風というよりもなにかお参りに行くような懐かしさがあるんですよ。
そしてさらに感心することがあります。
この絵画館設計デザインは一般公募で決まったのです。
1918年のことですが、応募数156点の中から小林正紹という当時無名の弱冠28歳の若者がとりました。
それを
東大教授で建築家の佐野利器が指導しながら、神宮造営局の小林政一と高橋貞太郎がおこなったんです。
こんな国家的プロジェクトでも本当にオープンなコンペやったんです。
明治大正時代の東大教授というは本当に立派ですね。
それにひきかえ今回の審査委員長ときたら、、、
ちなみにこの小林正紹青年は国会議事堂のコンペでも1位を取っています。
大蔵省臨時建築部技手の仕事をしていたことを憚って、弟の公保敏雄名義で出して取ったんです。
槇文彦先生のいわれる「コンペは浪漫」というのは、こういうことを言うのです。
かつて、日本の公共建築のコンペにも浪漫はあったのです。
(2014年3月11日「建築エコノミスト 森山のブログ」より転載)