バーチャルリアリティーに関する数多くの話題は、もはや誰にとっても驚きではないだろう。長年に渡って、われわれはあらゆるタイプのコンテンツに近づこう近づこうとしてきた。
たとえば、映画を見るようになる前、人々は劇場に出かけて生の舞台を見ていた。すすんで後ろの席に座る人はほとんどいない。おそらくそこに座る理由は、来るのが遅かったかお金が足りなかったかだ。映画館ができると、人々はスクリーンすぐ近くの中央の席へと殺到するようになった。そして、スポーツの試合へ行けば、選手たちに近い席ほど料金が高い。そして、3Dがわれわれをさらに近づけた。もちろん、料金は通常のチケットよりも高い。
人は、自分の見るもの、することの近くに行きたがる。
携帯電話は時として気をそらすものとみられる。われわれは自分を孤立させているのだろうか?無関心なのだろうか。友達何人かとバーにいて、全員がそれぞれの小さな世界をチェックしていると、笑われることがある。全く「ソーシャル」ではないと。しかし、実際にはソーシャルなのだ。驚くほど。われわれは近づこうとしている。気にかけている人やものすべてに。レストランで友達の隣に座ったまま、自分たちの写真を大陸の反対側にいるママたちとシェアできるのはすごいことだ。
近さに対するこの欲求と要望が、バーチャルリアリティーやオーグメンテッドリアリティー(拡張現実)という、より没頭的な体験へとわれわれを誘う。これは何かから逃避しようとしているのではなく、興味を引くなにかにもっと近づこうとしているのだ。ニューヨーク市の美術館に行けない?ヘッドセットを着けてそこへ行ったように感じられるのなら、美術品の平坦な写真を見ることはない。
悩む必要すらない。これは必然だ。
バーチャルリアリティーは、われわれが生きている現実の代替品ではない。単なる拡張だ。
2016年を迎えるにあたり、多くの人々が「VRの年」と呼んでいる。しかし実際のところ、それは空間と時間の進化にすぎない。数々のすぐれたテクノロジーとそれを作る人々のおかけで、われわれはどこへでも好きな場所へ、好きな時間に行くことができ、ただ見るだけでなく、いじったり遊んだりできるようになった。
われわれは映画館の座席や裏側にガムの張り付いたバーの椅子から自分たちを解き放ち、全く新しい世界へと旅立っている。そして、アリゾナ州で宇宙を遊泳したり、あのワシントンDCの戦没者慰霊碑を訪れたりしているその時にも、あなたの座っているバーの椅子には、知らない誰かが会いにくる。実際に人と出会うことを願って。
今の自分を大切に。今持っているものを大切に。しかし、あえてもっと多くを望もう。
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(翻訳:Nob Takahashi / facebook)
(2016年1月4日 TechCrunch日本版「近づきたがる人々とVR」より転載)