戦後70年を迎えるにあたり、昭和天皇による「玉音放送」の原盤が公開され注目を集めました。終戦を巡り、本土決戦を推し進めたい軍部と和平推進派との対立や、ラジオでの玉音盤放送を阻止すべく若手将校が起こしたクーデターなどについては映画化もされていますが、そんな中、あるアメリカ人が和平のために大きな役割を果たしていたことはあまり知られていません。「ザ・スクープ・スペシャル」で取材した「もうひとつの和平交渉」についてご紹介したいと思います。
「もうひとつの和平交渉」の舞台は、やはりラジオでした。太平洋戦争において、ラジオは大変重要な役割を果たしていました。放送された内容の多くは、日本とアメリカの謀略放送によるすさまじいまでの情報戦争です。そんなラジオに変化が現れたのは、ドイツが無条件降伏をし、日本が連合国軍と戦う唯一の国となった1945年5月。鈴木貫太郎が総理に就任して一か月後のことでした。アメリカがラジオスタジオとして使っていたのは、ワシントンD.Cにある内務省の中の施設。私も訪ねましたが、今もそのままの形で残っています。ドイツが降伏した日以降、このスタジオから日本に向けて、和平をもちかける内容が放送され始めました。アメリカの国立公文書館には、当時の音源と、日本の対応を書き記した「ピーストーク」と題される記録が残っています。
当時アメリカから放送していたのが、エリス・ザカライアス海軍大佐です。
「無条件降伏は決して日本国民の全滅あるいは奴隷化を意味せず、抵抗を一切断絶することによって、諸君ら自身が日本国家を救済することができます」
流暢な日本語を操り、アメリカの公式スポークスマンを名乗るザカライアス大佐とはどういう人なのでしょうか。私はペンシルベニア州に彼の息子を訪ねました。
ザカライアス海軍大佐の息子、ジェラルドさんが私たちに見せてくれたのは、なんと昭和天皇「即位の礼」の記念アルバムでした。戦前に、アメリカ大使館員として日本に駐在していたザカライアスは日本語もマスターし、米軍きっての日本通として知られていたといいます。
「父は日本を愛していました。とても美しい国だと」
そして、ジェラルドさんは懐かしそうに1枚の写真を見せてくれたのです。それは、昭和天皇の弟である高松宮殿下が新婚旅行でアメリカを訪問されたとき、エスコート役を務めたザカライアスと両殿下の映った写真でした。日本滞在中、何度も皇室の行事に招かれたザカライアスはとりわけ高松宮と親交を深めていました。焦土と化していく日本に心を痛めたザカライアスは息子にこう言ったといいます。
「これ以上、つらい戦争を続ける理由などない。このままだと数百万、数千万の命が失われるかもしれない。それを救うために、放送を始めた」と。日本における皇室の存在を熟知していたザカライアスは放送のターゲットを選ぶのに迷いませんでした。自著「シークレット・ミッションズ」にザカライアスはこう書いています。
「私は日本の降伏を唯一決断できる人物は天皇しかいないと考え呼びかけたのです」
第1回放送でザカライアスはマイクに語りかけました。
「首相・鈴木大将男爵は私との会談をご記憶でしょう。恐れ多くも高松宮殿下および妃殿下は、米国にご来臨の節を思い出し遊ばされましょう。私を個人としてご存じの方々は私を信頼してくださると思って居ります。」
のちのインタビューでザカライアスはこう言っています。「天皇に意見が言える高松宮はもっとも重要な存在でした」
生前から高松宮殿下と親交の深かった外交評論家の加瀬英明氏は、昭和天皇と殿下の間にあったこんなエピソードを聞いていました。
「高松宮殿下は海軍司令部の参謀でいらっしゃいましたけど、天皇に手紙を書かれるんですね。海軍は基幹兵力を失った。したがって和平をお考えいただきたい。切羽詰まって、自分は兄宮に私信をしたためたと」
こうしたラジオによるザカライアスの呼びかけに日本はどう反応したのでしょうか。実は高松宮のほか、和平派である東郷茂徳外務大臣の秘書官・加瀬俊一らによって、天皇にメッセージは伝えられていました。2001年のインタビューで加瀬氏はこう話しています。
「ザカライアス放送というのはいくつかありますね。そのうちの大事なものは陛下に届いていたんじゃないでしょうかね。これはアメリカの謀略だったら大変だというような。しかし、また考えようによっちゃ、謀略と知りながらも乗っていくだけの勇気がなければならない。そうじゃなければ情勢の打開はできないという、そういうことをちゃんと判っている方なんです」
連合国側に降伏し、戦争を終結するにあたって、日本が最後までこだわったのが国体護持でした。これに対し、ザカライアスは12回目の放送でこう呼びかけます。
「日本の指導者に面して、二者の選択があります。そのひとつは無条件降伏と太平洋誓約にあるとおりに、それに付随する恩恵があることです」
1941年に結ばれた太平洋憲章の第3条。「戦後、すべての人々が政府の形態を選ぶ権利を保障する」つまり、無条件降伏後も国体護持、つまり天皇制の存続が可能だと示唆したのです。
この放送の夜、日本政府も動きました。東郷茂徳外務大臣が打った緊急極秘電報にはこうあります。
「ザカライアス大佐の発言は注目に値する。太平洋憲章の基礎における平和回復に異存はない」
連合国側が日本に降伏を求めるポツダム宣言を発表したのは、その翌日でした。しかし、ここでザカライアスは驚愕します。ポツダム宣言の中に、政府に対し自分が訴え、日本政府も求めていた「国体護持」の文字がいっさいなかったからです。ジェラルドさんは今も怒りに震える父親の姿が忘れられないといいます。
「父はポツダム宣言に天皇制の存続という記述がなかったことはなぜだ、と怒っていました。天皇制の存続こそが交渉の焦点だとわかっていたからです」
これを機に「ピーストーク」は断絶。8月6日に広島、9日に長崎へ原爆が投下されました。
ザカライアスの想いが反映されなかったポツダム宣言。原爆投下という事態を避けられなかったことに無力感を覚え、失意の中にいたザカライアスの元に、終戦から1年後、一通の手紙が届きました。海軍情報部時代の同僚で東京に駐在していたエリス・マッキボイからのものでした。
「高松宮と晩さんを共にしたとき、殿下は私にこうおっしゃいました。『ザカライアスの放送は、和平推進派が本土決戦を主張する軍部を打ち破るのに必要な弾薬を提供してくれた。戦争が続いていたら、お互い間違いなく最悪の結果を迎えていたでしょう』と」
息子のジェラルドさんに、ザカライアスは本当にうれしそうにその手紙を見せたといいます。
「和平推進派に提供された弾薬」。その薬莢に込められていたのは、重ねられた交流と、それによって育まれた信頼感、そして、他国の文化への深い理解であったに違いありません。