あまた存在する、悩めるコミュニケーション不全者達。だが「コミュニケーション不全者である」という属性それ自体は、対抗文化やマイノリティとして浮上することすらなく、したがって、言論的・政治的に取り扱うべき問題として確固たる地位を占めることもない。
有意味なまとまりを形成できないコミュニケーション不全者
現代社会のマジョリティは、コミュニケーションの上手い人間によって形成されている。太古からそうだったと言えなくもないが、昔は身分制度や一族のコネ次第で個人のコミュニケーション不全を不問にする方法もあった。だが、身分や一族の力が弱まり、コミュニケーションが個人主義的/契約社会的な性質を強めた結果、職場であれ学校であれ、社交場面でそつなく振る舞える個人が我が世の春を謳歌し、そうでない個人が疎外される時代が露わになってきた。どのような社会的ニッチであれ、コミュニケーション能力に恵まれれば有利となり、コミュニケーション能力を欠いていれば疎外は避けられない。
だが、そうした社会状況に対して、当のコミュニケーション不全者は"効果的な"声をあげることができない。
かつての"非モテ論壇"、たとえば革命的非モテ同盟などが典型的だったが、コミュニケーション不全な個人がいくら集まっても、彼らは団結や連帯を成立させられない。コミュニケーションができないからだ。彼らとて、義憤や苛立ちをtwitterのリツイートのようなかたちで広げるぐらいはやってのける。が、彼らにできるのはそこまでだ。誰かを炎上させるガソリンの一滴にはなれても、コミュニケーションに偏重した状況を変えるべく、一定の政治的ポジションや論座を構築することはできない。お互いがコミュニケーション不全であるがゆえ、連帯しかけても反目しあってしまう。
むろん、コミュニケーション不全を連想させる犯罪者による"社会に対する義憤"じみた事件が起こるたび、ネットの日陰では共感めいた声が吹き上がる。そのさまは、まるで社会の間欠泉のようだし、実際、苛立ちのマグマは溜まっているのだろう。だが、言論の自由が保障された現代社会においてさえ*1、スタンドアロンな共感を噴出させるだけでは意味をなさない。
言論空間・政治空間でプレゼンスを――せめて、対抗文化やマイノリティとしてでも――示すためには、悩める者同士で手を繋ぎ、政治的に有意味なまとまりを形成しなければならない。それも、持続的にだ。さもなくば、コミュニケーション不全な個人は各個撃破されるしかなく、彼らはいつまでも孤独なサバルタンたり続けるしかない。少し前、ネット上でサイレントテロという言葉が流行りかけた時期があったが、経済的・人口動態的にはともかく、言論的・政治的には、黙って順応するばかりの孤独者は無力である。
疎外に悩む人々が言論を介して自己主張し、コミュニケーションによって社会問題が照らされて問題が解決していくのが望ましいのは言うまでもない。だが、言論によって――つまりコミュニケーションによって――社会問題が順次照らされて緩和される社会秩序のなかでは、まさにそのコミュニケーションの困難がボトルネックになっているサバルタンには"声があげるすべが無い"。
かつて、そうした「個別に呻くことしかできない者」の代表格としては、寄る辺の無い労働者などが挙げられていた。もちろん今でもそうである。しかし今日では、寄る辺の無い労働者であってもコミュニケーション能力に恵まれていればサバイブできるわけで、またそのようなコミュニケーション強者な労働者は、いつまでも寄る辺の無い境遇に甘んじることはないのである。
古典的暴力は状況を変えるか
では、古典的な暴力やテロリズムがこれを解決するだろうか?
その答えは、もう出ていると思う。
これまでにも、コミュニケーション不全者が社会への苛立ちを叫びながら犯罪に走ったケースは数知れずあった。だが、そうした古典的暴力が言論空間や政治空間を変えたかと言ったら、そんな事はない。言葉と政治を司る人々は、いつものごとく「暴力は絶対に認めない」と宣言するだけで、言葉と政治による秩序、ルールを覆そうとは微塵も考えない。これからもそうだろう*2。
むしろ、社会生活が各種レコーダーやスマートフォンやSNSに照らされるにつれて、古典的な暴力はいよいよ退歩を余儀なくされ、もっとスマートな権力に――世間一般でいうところの、狭義のコミュニケーションに――市中権力の座を譲り渡すことになる。すなわち、言語や表情によるコミュニケーションの出来不出来が、人間社会カーストのヒエラルキーをますます決定づけるようになり、"腕っぷしの強い番長よりもスマートな生徒会長が権勢を誇る図式"が社会の隅々にまで敷衍されようとしている。
個別の古典的暴力は、眼前のコミュニケーション強者を一人、二人と傷つけることはあろう。その瞬間、その場面では既存秩序は揺らぎを経験する。だが、既存秩序に対する古典的暴力の挑戦はそこまでが限界で、テクノロジーによってますます強固となった【言葉と政治の秩序】にはかすり傷もつけられない。コミュニケーションの都大路で繰り広げられる"論戦"は、あくまで言葉と政治によって司られているので、腕っぷしの文法は通用しない。
コミュニケーションの性淘汰
この文章はどこか循環論法めいていて、私としても、どうしようもない問題をかき回しているような印象を禁じ得ない。だがそれだけに、コミュニケーションが不得手な人間が疎外され、そのことが孕む根源的な問題を見てみぬふりをする現代コミュニケーション秩序の不実を改める手段が私には思いつかないし、こうして立ち止まって考えてみると、深刻きわまりない問題と思わずにいられない。
ただ、大局的にみれば、そのように苦しむコミュニケーション不全者達は、時代の流れに呑まれる運命にあるのだろう。
これからの社会は、コミュニケーション競争をサバイブしてきた男女の遺伝子を受け継いだ者達によって構成されるので、世代を重ねるにつれ、今日において典型的なコミュニケーション不全者は(数のうえでは)減っていくと推測される。経済的にも政治的にも生殖的にも、コミュニケーション不全者にはなすすべの無い時代が到来した――いや、既にそのような時代が何年も続いてきた――のだから、この問題は、問題としての規模をシュリンクさせていくと推測される。規模が縮小していくことによって、ますますもってコミュニケーション不全者は孤独なサバルタンとしての色彩を強めていくのだが。
(2015年10月21日 「シロクマの屑籠」より転載)