リンク先は、「アフィリエイトをずっと貼り続けたら収入がアップしました」という主旨の記事だった。「継続は力なり」「千里の道も一歩から」とは言うけれど、ネット上での小遣い稼ぎもそういうものなんだなぁと感心させられた。
この件に限らず、インターネットは継続力がなにより重要なメディアというか、継続力によって色々なものをひっくり返しやすいメディアなんじゃないかと思う。例えば私ことid:p_shirokumaにしても、13年間ウェブサイトとブログを継続してきた間に、文章の質と作成スピードはそれなり改善した。こちらの記事に「ひとつの技芸を身につけるためには一万時間が必要」と書いてあるけれど、実際、書き続けることによって進歩があったのだけは間違いない。
しかも、ありがたいことに、古い記事のアーカイブを読んでくれる人が結構いる。アクセス解析によれば、過去のアーカイブ記事を一晩じゅうかけて読み続けて下さる人までいる。そういうの見かけると、PV数が激増するのとは違った、しんみりとした嬉しさがこみ上げてくる。
こうした「継続は力なり」の恩恵を受けているのは私だけではないらしく、90年代末~00年代初頭あたりからネット上で活動し続けてきた他の人達にも観測される。彼らは揃いも揃って文章が上手くなり、ある部分でずるくなり、日本のインターネットの習俗史の生き証人になっていった。書籍を出したり雑誌連載をやったりしている人も沢山いる――もちろん、そういう書籍だの雑誌連載だのは、アフィリエイト同様、ネット上で活動して獲得できる数多のトロフィーの一つにしか過ぎず、それをゴールと決めてかかるべきではない。目指すべきトロフィーの数は人の数だけ存在する。
話が逸れた。ともあれ、何年もネット上で文字なり自意識なりを垂れ流してきた人達が、歳月の堆積のなかで一定の成長を遂げ、その成果が様々なかたちで顕れているのは確かだと思う。
「インターネットには歴史が無い」は本当か
インターネットには歴史が無い、とよく言われる。確かに、テレビやラジオに比べれば歴史は浅いし、紙媒体とは比べるべくもない。最近はキャッシュ/フローのうちフロー重視なSNSが幅を利かせているし、そうでなくてもネットの住民は飽きっぽい人が多いので、歴史が蓄積しにくい、ようにみえる。
けれども実際は逆ではないか?
なにしろインターネットは歴史が浅い。少なくとも、ネットが一定のマスボリュームを持つようになってから十年程度しか経過していない。且つ、インターネットの新陳代謝はとても速いので、十年程度の蓄積でさえ「これは息が長い!」「これは古い」と思えるような歴史性を帯びることができる。ネットの流速にさえ流されなければ、比較的短時間で歴史を蓄積させやすいのがインターネットではないか?
インターネットの歴史、特にアマチュア領域の歴史は浅いので、十年程度の蓄積ですら他のメディアに比べて重い。他職業や他趣味なら、十年程度の蓄積など鼻で笑われるような短さに過ぎないけれども、インターネットはそうではない。十年の歴史を持ったブログなりウェブサイトなりは、一定の古さを帯びるし、パソコン通信時代からのマラソン選手は尚更だ。そうした歴史をアーカイブ化さえしておけば、プロ志向ならプロ志向なりに、アマチュア志向ならアマチュア志向なりに、とにかくも財産になる。
個人ブログや個人ウェブサイトはすぐに消えてしまいやすい。だからこそ、消えずに残っていること、過去の議論や過去の事物を記していることこそが、財産となり、歴史となる。消えたブログ、消えたウェブサイトは財産にも歴史にもならずに風化していくしかない。そして生き残ったブログやウェブサイトだけが、財産となり、生き証人となり、歴史となっていく。
この「生き残ったブログやウェブサイトだけが、財産となり、歴史となっていく」は、プロ志向な意識の高い人達だけに適用されるものではない。アマチュアなネットライフを大切にし、自意識の疼きを垂れ流しているようなブロガーやネットユーザーにも、全く同じように適用される。
上記リンク先には、「実利を追いかけないブログライフ」について大切な事が書かれている。しかし、【実利を追いかけない=歴史を紡がない】ではないわけで、実利を度外視して表現を追求し続けるようなブログや一個人の喜びや哀しみを記録したブログとて、とにかく長続きさえすれば「歴史」になるのである。そして書き手は(望むと望まざるとに関わらず)インターネットの生き証人となっていく。
私は、インターネットでしか出来ない事の筆頭格に「金銭欲や栄達欲に振り回されることなく、自分の表現したいことを表現できる」が来ると思っている。そういう、カネに振り回されない表現が沢山ネット上に残存して、インターネットならではの歴史を紡いでくれたら素敵だな、とも思う。映画やアニメの感想を垂れ流すサイトが、たとえ月並みなもので、トラフィックの都大路から遠く離れていたとしても、それがずっと残り続ければ歴史の一部になるだろうし、後世のネットユーザーからみれば「時代の生き証人」的な何かになるだろう*1。
感想系サイト・自意識系サイトの寿命は、一般に短い。後になって恥ずかしくなって消してしまうケースも多いだろう。私も、昔の自分の文章を読んでいると恥ずかしくなる事が多い。けれども、そういう恥ずかしい過去もまた歴史であり、一時代につくられた足跡の化石だとしたら、やっぱり残しておいたほうがいいんじゃないか、と思う。今の自分には恥ずかしいだけの足跡でも、十年後の若い人には「こんな自意識、こんな時代、こんな人があったんだ」という大切なアーカイブになるし、あと二十年ぐらい寝かせてみたら、案外良いものかもしれない。
それに、そういった恥ずかしい過去の自分を亡きものにせず、アーカイブとして認めておく事こそが、私という一個人の歴史の連続性、アイデンティティの連続性を担保してくれるようにも思う。これも、ネットアカウントを長続きさせた時のちょっとした副産物かもしれない。
「ブロガー三年会わざれば刮目して見よ」
インターネットの「十年」、ひとつのアカウントに降り積もった「十年」の重みはかなり重い。少なくとも、今日日のインターネットにおいて、それだけの長さを維持しているアカウントの数はまだ少なく、今この瞬間も、古いウェブサイトやブログが閉鎖している――そうやってドロップアウトしていく人が大半だからこそ、今、ひとつのアカウント、ひとつのハンドルネームで継続的に活動し続けることには意義があるし、アーカイブを残す営為は、ネットの歴史づくりにダイレクトに結びついてもいる。
また、十年の歳月は人を鍛え得る。今、たいした事の無い文章を書き綴っているブロガーとて、十年後まで息が続くならどうなっているか、わかったものじゃない。「男子三日会わざれば刮目して見よ」は言い過ぎとしても、「ブロガー三年会わざれば刮目して見よ」は真ではないか。
だから、インターネット上でプロな人になりたい人も、アマチュア精神を究めたい人も、どうか、今の自分が選択している発信媒体と活動を大切にして、そのアカウント・その媒体で続けてみる気持ちを手放さないで欲しいと思う。たとえ活動継続が困難に陥った時も、いったん休火山になって、アカウントを消すのを躊躇ったほうがいいかもしれない。いや、アカウント自体は残しながら、後日全く違ったことを始めたって構わない。とにかく、アカウントに降り積もった歴史も財産も、いったん消してしまえば「無かったことになってしまう」ことだけは覚えておいたほうがいいと思う。
(※この記事は、2013年8月20日の「シロクマの屑籠」から転載しました)