人生に麻酔をかけ続ける人々

インターネット上では、不特定多数から注目されたがるアカウントを頻繁にみかける。注目や炎上は一種の興奮や陶酔をもたらすが、幸福になることはない。

インターネット上では、不特定多数から注目されたがるアカウントを頻繁にみかける。本当にどこにでもいて、twitterやブログだけでなく、ニコニコ動画やYoutubeやソーシャルゲームにもいる。懸命に注目を集めようとする姿は、ときに滑稽であるけれども、技倆に支えられたパフォーマンスに喝采をおくりたくなることもある。なにより、避けがたい破滅に向かって進み続ける人物には、博徒のごとき神々しさが宿っている。

不特定多数からの注目や炎上は、「寂しさを紛らわせ」「神経の興奮や陶酔を呼び起こす」。でも、これは一種の麻酔みたいなもので、不幸や寂しさから一時的に注意を逸らしても、くつがえす効果があるわけではない。不特定多数からの注目や炎上で幸福を目指す処世術は、幸福を目指すというより、陶酔や興奮で人生に麻酔をかけて、白昼夢を絶やさなくする処世術に近い。

「興奮や陶酔で人生に麻酔をかけ、白昼夢を絶やさなくする」ようなネットユースは、依存や嗜癖を起こす他ジャンルと、どこか似ている。ギャンブル、セックス、コンテンツ消費、万引きなどは、しばしば「幸福追求」というより「不幸や実存の乏しさに麻酔をかける」行動として現れるし、だからこそクセになったらやめにくい。ときにはダイエットがそれに近づくこともある*1。ネットで見聞している限りでは、セルフコントロールに難がある人の断捨離やミニマリスト志向なども、そのような“麻酔”に堕落するリスクがあると推定される。

いずれも、興奮や陶酔を絶やさないように必死になっているうちは周囲がガヤガヤ言おうとも訂正は困難だ。麻酔を効かせすぎた結果として社会機能が存分に痛めつけられてようやく、そうした人達は目を覚ます……こともあるし、別種の麻酔へ乗り換えることもある。実のところ、そうやって人生の麻酔を延々と使い続ける人はそれほど珍しい存在ではないし、そのすべてが精神医学的な診断枠に当てはまるわけでもない。

インターネットは、そうやって不幸に麻酔をかける人々のありようを、ますます明らかにしてくれた。

たくさんの人達が、“情報発信”を介した自己麻酔にうつつを抜かしている。たぶん私もその一人だ。しかし、これまでの経験や観測からは、オンライン上で不特定多数を相手取って承認欲求をいくらかき集めても、それだけでは幸せにはなれないと推定されるため*2、その手の承認欲求狙いなパフォーマンスは幸福追求の手段としてはうまくない。

それでもオンラインパフォーマンスに手ごたえを感じ、のめりこむ人々がこれほど多いのは、たとえ喉の渇きをいやすために海水を飲むような行為でも、興奮や陶酔が現に起こることだけは事実で、あてにできるからなのだろう*3。興奮や陶酔こそが幸福の象徴だと思い込んでいる人達――いや、そもそも幸福の元型を持っていない人達、と訂正してもたぶん当たっているのだろう――にとって、信奉に値する幸福“感”とは、己の脳内麻薬やドーパミンだけであろうからだ。

悲しいことに、人間は、興奮や陶酔だけを追いかけていては、肉体的にも社会的にも破綻してしまう。そして人類史を振り返って推定するなら、大多数の人間は、不特定多数からの間欠的なアテンションや賞賛をあてにして健康な心理状態を保てるようにはもともとデザインされていない可能性が高いと私は踏んでいる。

不幸に麻酔をかけなければならない日もあるだろう。いつでもいつまでも正気でいられる人間なんて、ごく僅かだ。だが、不幸に麻酔をかけることの是非と、不幸に麻酔をかけてばかりであることの是非は別の問題だ。依存や嗜癖と呼びたくなる水準でやるもんじゃない。

*1:ダイエットの場合、摂食障害と呼べるレベルになると身体的な問題が加わって話がややこしくなるし、アルコール依存や薬物依存はよりダイレクトに脳に効果を累積させるので同列とは言えない部分を含んでいる

(2015年12月10日「シロクマの屑籠」より転載)

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