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2018年06月18日 15時05分 JST | 更新 2018年06月18日 15時05分 JST

美しい島々に隠されたハンセン病の歴史。

今ならまだ歴史の証言者が生存し、かろうじて資料や跡地なども残されています。

パラオのゲルール島で、回復者から話を聞く筆者(右)。
日本財団
パラオのゲルール島で、回復者から話を聞く筆者(右)。

常夏の南の島や地中海に浮かぶ美しい島々は、日常の喧噪を離れてひとときを過ごせる理想的なリゾート地かもしれません。しかし日常の喧噪から島を隔てる海はまた、コンクリートの壁や有刺鉄線のように、「排除」と「隔離」の装置とされてきました。

治療薬が開発されるまでの何世紀もの間、人々に忌避され恐れられてきたハンセン病の患者たちは、多くの国や地域で、孤島につくられた施設に強制的に収容されていきました。時として、それは施設らしい施設もないような劣悪な環境でした。

ハワイのモロカイ島、ギリシアのスピナロンガ島、あるいはエーゲ海に浮かぶ島々、カナダのダーシー島、オーストラリアのピール島、フィジーのマコンガイ島、韓国の小鹿島、中国南岸の大衾島、マレーシアのジャレジャック島をはじめ、世界には数多くの隔離の島があります。ネルソン・マンデラが27年間幽閉されていた南アフリカのロベン島も、当初はハンセン病患者の島であり、20世紀後半にアパルトヘイトに反対する政治犯が収監されるようになったものです。また石像モアイで知られるチリのイースター島にも収容施設がありました。日本には、瀬戸内海の長島大島があります。

地中海のほぼ中心に位置するマルタ島は、7000年にわたって、海上輸送の中継地点として発展してきました。現在はヨーロッパの人気のリゾート地です。マルタでは、17世紀以来、ハンセン病患者の存在が記録されています。19世紀後半から20世紀初頭にかけて、マルタを統治していた大英帝国が、他の英領諸国と同様にハンセン病患者を隔離するために、ハンセン病患者の収容施設を開設しました。

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マルタのタル・ファルハ・エステートの名前の残る石垣

20世紀後半、マルタ島では、独自にハンセン病制圧を達成しました。その事実は輝かしいものですが、回復者の居住地であったタル・ファルハ・エステートもその石垣を残すのみで、当時の施設も資料もほとんど失われてしまいました。このように、その歴史の「最終章」は記録されないまま、人々の記憶から忘れ去られつつあります。

フィリピンのクリオン島は、面積約400平方キロメートルの小さな島ですが、1930年代には7000人もの患者が収容されていた世界最大の隔離の島であり、世界中の隔離政策のモデルケースとされていました。クリオン島をハンセン病患者を隔離する島として指定したのは、フィリピンを植民地支配していたアメリカです。1906年、セブ島から370人の最初の患者がクリオン島に収容されました。当初、クリオン島には医療関係者も少なく、病院の設備も整っておらず、多い時期にはマラリアなどで年間千人以上の患者が亡くなりました。そのためクリオン島は、「絶望の島」や「生ける死者の地」と呼ばれていました。

クリオン島がハンセン病療養所の島としての歴史に終止符を打ったのは、1995年のこと。クリオン島が地方自治体として認められ、初の選挙によって市長が登場したのです。初代市長は回復者でもあるヒラリオン・ギア氏でした。現在のクリオン島の人口は約2万人、すでに患者はおらず、完治した回復者が100人ほど。残りの住民は患者や医療従事者の子孫たちと他島から移住した人によって構成され、「絶望の島」と呼ばれた歴史を乗り越え、「希望の島」への再生を目指しています。

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世界最大規模の隔離の島であったフィリピンのクリオン島。

南太平洋上のミクロネシア地域に浮かぶ島々からなる人口約2万人の小国、パラオ共和国。こんな小さな国にも隔離の島がありました。日本統治下に「RAIBYO SHIMA(らい病島)」と名付けられた島です。正式な名前は「ゲルール島」で、広さは0.02平方キロメートルたらずです。ハンセン病施設が設立されたのは1931年、当初18人の患者が治療を受けていましたが、ハンセン病の施設としていつまで利用されていたかは不明です。

どの島、どの施設でも患者たちは苛酷な生活を強いられ、差別の対象とされてきました。多くの場所ではまとまった記録が残されていませんが、今ならまだ歴史の証言者が生存し、かろうじて資料や跡地なども残されています。ハンセン病の歴史を記録し、失われていく遺跡や資料を保存することは、極めて大切です。

ハンセン病患者や回復者を助ける人々のなかにも、ハンセン病の「負」の歴史を「なかったこと」にすることが、新しい未来を築くうえで必要だと考える人たちがいます。しかし私は、人類史とともにあった差別の現実や、誰の心にも芽生えうる差別する気持ちに正面から向きあうことによって、はじめて私たちが果たすべき責任と使命が明確になるのだと考えます。